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自己啓発のナンダソリャ4「許す」

 2008-12-17
「許せない」ということは、結局「許したくない」ということなのだと思う。

「I can't」ではなく、「I don't want to」。自分の中の深い部分から来る「感情」の領域。感情と繋がっているものに対して、理屈や理論、建前は通用しない。

「頭では分かっている。でもやっぱり許せない」と言う人が多いのがその証拠。心が拒否していることは、いくらがんばっても行動には移せない。

なにやら自己啓発やスピ系においては、「許せない相手に対し、『感謝できることは何か?』を探してみる。心からできないなら、まずは『形』からでよい」などと公言している人々がいる。「その人のことを思い浮かべ、『ありがとうございます』の言葉を繰り返し唱える」のだそうだ。

「その人を許せないという思いを紙に書き殴って、発散させることもよい。その後で感謝をすれば、感謝という強力なプラス想念によって、『許せない』という想念は消える。『許せなかった苦しみ』から解放されて、精神的自由が手に入る」らしい。

もし本気でそう言っているのなら、この人達は「人」ではない。神や仏。そうでなければ、とんでもない大嘘つきか理想主義者か―そのどちらかだ。

許せない相手に対して感謝を唱える―このメソッドを考え出した人は、多分幸せな人だ。本当に、心の底から、本気で相手を殺したいと思い詰めるくらいの出来事や、激しい憎悪の感情を経験したことのない人だと思う。そうでなければ、こんな悠長な発想は出てこない。本当の意味で、人というもの、人の心というものを理解していない。

人が「許せない」という感情を持つ時は、よっぽどのことだ。そういった感情を持つに至るまでの「原因、経緯」が必ず存在する。そして、その部分に対しての「得心、理解」がなければ、決して「許す」ことはできない。

「許す」にあたっての一番大事な部分、そこに至るまでのプロセスを完全に無視して、いきなり「相手に感謝をしろ」と来ること自体、訳が分からない。どうしてその人に「感謝」をする必要があるのか?なぜ「許せない」に対して、「ありがとう」が必要なのか?私には理解できない。

ずっと後になって、その時の経験や苦しさが、自分の人としての成長に大きな役割を果たしてくれたと自然に思えるようになったのであれば、「あの時は辛かった。でも、いい勉強をさせてもらいました。ありがとうございました」なら分かる。なぜならそこには「理解」があるから。きちんと順序を踏んで、そこに至った流れ―「理(ことわり)」が存在する。

何よりも、なぜ「許せない」という感情を持つことが「良くないこと」とされるのか?なぜ「マイナスの想念」として、「ネガティブな負の存在」として扱われるのか、甚だ疑問だ。そもそもプラスとかマイナスとか、ネガティブとかポジティブとか、なぜ区別する必要があるのか?

原因があれば結果がある。「許せない」ということは、「許せないと思う出来事があった」という「原因」に対しての「結果」でしかない。それは理(ことわり)であり、「法則」である。良いも悪いも関係ない。

プラスとかマイナスとか、苦しみとか喜びとか、自由とか束縛とか―どうしてそこには「二元論」しか存在しないのか?

例えば殺人事件の被害者の家族が、その犯人を許さないことは「悪いこと」なのだろうか?自分の家族を手にかけた犯人を許せば、「許せなかった苦しみ」から自由になることができるのだろうか?家族を奪った犯人に、何を感謝しろというのか?なぜそこに「感謝」が必要になるのか?

「許せない」と思うことは「悪」ではないし、「許す」ことが「善」ではない。

「許せない」と思うなら、許さなくていい。相手を許せない自分はダメな人間なのか、いつまでも拘っている自分は、人としての器が小さいのか等と悩む必要はない。許したくない理由があるのだから、きちんと理に適っている。

「許したい。でも許せない」と悩んでいるのは、自分にとって都合が悪いから。どちらでもない、ある意味中途半端ではっきりしない、どっちつかずのその状態が居心地が悪いだけ。一刻も早く決着をつけてすっきりしたいと思っているから。

ただ、「許すということ」をあえて言うなら、それは「そのことを気にしなくなったこと」だと、私は思う。

許すとか許さないとか、そういったことさえ気にならなくなった状態になること。「まあ、もうどうでもいいや」と思えるようになったら、拘らなくなったら、それは「許した」ということになるのかもしれない。

事実は変わらないが、その時の怒りや苦しみ等も全部含めて「ま、いっか」と、いつかそう思えたら、それでいいのだと思う。

自分の感情を捻じ曲げて、心にもない無理矢理捻り出した感謝の言葉を捧げて許した気になっても、その不自然な「歪み」は必ずどこかに表れる。何よりも、「ありがとう」を唱えて感謝するだけで物事が解決したら、悩む人は誰もいない。「ありがとう」は確かに波動の高い言葉だ。しかしすべてを解決する「魔法の言葉」ではない。

自己啓発やスピリチュアルの分野においては、「まず形から」はあり得ない。最初に「理解」がなければ「形=行動」にはならない。理解や心がない「形」は、ただの「惰性」だ。そしてその「惰性」は感覚を麻痺させていく。繰り返すことにより「自分は理解している」という、大きな勘違いを生み出す。

繰り返しの言葉や行動は「暗示」だ。この場合「洗脳」と言い換えてもいいだろう。許せない相手に対して「ありがとう」を唱えていくうちに、許せた気になっていく。しかしそれは本当の「理解」から出てきたものではないから、効果は長く続かない。どこかで必ず揺り返しが来る。

「人を許す方法」などというものは存在しない。きちんとその部分と向き合い、考え、理解し、そこに至るのが本来の道理。感謝とか呪文とか儀式とか、そんなもので得た許しは、ただの「まやかし」だと思ったほうがいい。

自分の心が「許せない」と思うなら、今無理に許そうとがんばらなくていい。自分の理解がちゃんとそこに及んだ時、必ず答えは出るのだから。

カテゴリ :はい論破!スピリチュアルと自己啓発の矛盾とからくり トラックバック(-) コメント(-)
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