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セレンディピティー

 2008-12-07
運やツキというものは、目をギラギラさせて待ち構えているうちはやって来ないと思う。
それは自然に、「来るべき時」が来た時に飛び込んできたりする。

誰もが「幸せになりたい」と思っている。「こんなふうになればいいのに」「今の自分に、あとこれさえあったなら絶対に幸せになれるのに」―そんなふうに思っている。それはパートナーであったり、地位や名誉、財産だったり―人によって様々だ。

でも「これさえあったら」と思い詰めているものほど、実は意外に「なくても大丈夫」という程度のものだったりする。単なる自分の価値観から来る「執着」や「思い込み」という場合がほとんどだ。

人間、自分に必要なものは必ず手に入る。必要なものが手に入る―というのが、私の永年の持論。

1億円の当選宝くじや、信じられない金額の万馬券、そういったタナボタ式の一攫千金のチャンスだって、その人にそれが本当に必要なものであれば必ず手に入る。

自分が引き寄せるとも言えるし、自分の意思の及ばない、何か大きな見えない力が働くのかもしれない。多分その両方なのだと思う。

高額金の当たりくじや馬券を夢見て、そういったものを購入する人もいるだろう。でもその大半の人は自分の望んだものを手にすることなく終わる。

どんなに強く、長い間それを待ち望んでいるにも関わらず、そういったチャンスがないのであれば、それは本当は必要のないものなのかもしれない。もしくは、実際にそれを手にしたら、思わぬ方向に流れが変わってしまう場合があるから当たらないようになっているのかもしれない。

「○○さえ手に入れば」「○○になれば」という願望の中にあるのは、実は果てしの無い「欲」でしかなかったりする。分相応、現状に対する感謝や満足がすっぽりと抜け落ちていることから来ているものだったりする。

「欲」を持つことが悪いというのではない。本当にそれが絶対に自分に必要なのか、なかったら絶対に困るものなのか、自分の生死に関わってくるほど重要なものなのか―もしそうでないなら、それは「必要」なものではないのだと思う。

今のご時勢を見れば、今後に対する不安が出てくるのは当たり前。先のことは誰にも分からない。リストラや倒産に直面するかもしれないし、給料が大幅にカットされるかもしれない。子供や親の面倒をどうやってみていこうか悩むかもしれない。

でも、今この瞬間、住む所があって、働ける場所があって、毎日ご飯が食べられる環境にあるのなら、それはとても幸せなことなのだ。

そういった当たり前のことに対する感謝や満足が抜け落ちている限り、いくら大当たりのくじや馬券を望んでも決して手に入ることはない。

日々普通の、「人並みの生活」が出来ているにも関わらず、「今現在の自分は幸せである」そう思えないのであれば、仮に1億円が手に入っても決して満足はしないだろう。「あともう1億あれば」「もう少し多く買っていれば2億になっていたかも」―「欲」から来るものは際限なく増長していく。

日本や世界に伝わる民話や言い伝え―私はすべて現実に起こったことだと思っている。
舌切り雀然り、花咲かじいさん然り―日々の生活に満足し、他者に対する憐れみの心をもった人達に幸運がもたらされた。

思わぬものや幸運を招きよせる力―「セレンディピティー」は、現在の状況や「当たり前の普通のこと」に満足や感謝ができる「足るを知る」人達に働くのである。アヤシイ呪文や、ナンタラの言葉や、天使や女神にお願いして引き寄せるものではない。

「宝くじが当たらない」「万馬券が来ない」もしそう残念がっているのなら、あなたは自分で思っているよりも、かなり幸せな状況にあるということだ。「本当に困っている人」は、残念がったり、悔しがったり、そんな「余裕」はない。

運やツキといったものは「プラスα」のもの、あくまでも「おまけ」だと思う。与えられた条件の中で、如何に強く逞しく生きていくか―よほど不当なものでない限り、今の環境や条件は、今現在のその人にとって相応のものと言ってもいいと思う。

「本当にがんばっている人」は「おまけ」を望まない。

なぜなら今の自分の努力やがんばりが、今後の状況や結果に必ず反映されると分かっているから。

それが結果として、運やツキに繋がると分かっているから。だから「タナボタ式」のおまけには拘らない。

「おまけ」は付いていたら嬉しいけれど、なくても困らない。


今日ご飯は食べましたか?今日する仕事はありますか?今日帰っていく場所、寝られる場所はありますか?今健康ですか?

もしあなたがこの条件を満たしているなら、あなたは「十分に幸せな人」だ。
カテゴリ :三位一体―心と体と魂の話 トラックバック(-) コメント(-)
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