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福禄寿

 2008-11-22
東洋の思想において、幸せの基本的概念を表す「福禄寿」という言葉がある。

有名な「七福神」の中にも、長い頭と髭を蓄え、経巻を結びつけた杖を持ち、たくさんの鶴を従えた同じ名前の神様もいるから、耳にしたことのある人も多いと思う。

「福」は「子孫繁栄・人間関係や環境等に恵まれること」、「禄」は「財産・経済・身分に恵まれること」、「寿」は「心と体の健康に恵まれること」を表す。その3つを合わせて「福禄寿」。そして、これがすべて手に入った状態を「三徳」と呼ぶ。

精神と物質と肉体の幸せ―確かに日常生活においてこの3つが手に入ったら、自他共に認める「幸せな状態」と言えるのかもしれない。

ただ、人によって求める「程度、レベル」があるので、傍から見て「もう十分じゃないですか!」と思える状態にあったとしても、本人自身がそう思えないのなら、その人は「幸せではない」のだと思う。

逆に、周りから見て「うわー、大変そうだな」と思う状況にあったとしても、当の本人がまったく気にせずに「いえ、そんなことはないですよ。幸せですよ」と思っているなら、その人は「幸せ」なのだろう。

結局、幸せの形は「その人の意識の持ち方次第」なのだと思う。

自分に欠けているものや足りないものに意識を向けてばかりいる人は、どんなことにおいても決して満足することはない。「自分にはこれがないから○○できない」「もし○○だったら、こうなっていたかもしれない」と、常に言い訳と後悔ばかりしている。将来に対する観方も悲観的だ。

今現在足らないと思っているものが手に入ったとしても、今度は「あれも持っていない」と、多分別の何かを欲しがるはず。それは際限のないループだ。


この仕事を始めて1年目の時、銀行残高4千円を経験したことがある(笑)

離婚と同時期のスタートだったので、引越しやそれに伴う出費、仕事等の準備にかかるお金は相当なものだった。その当時は、預金通帳を見るのが本当に怖かった(笑)

幸運なことに、私はそれまでお金に関しての苦労は一切経験したことがなかった。嫌味に聞こえるかもしれないが、「お金がない」という状態がどんなものか、正直分からなかった。本当に恵まれていたと思う。

でも新たな選択に伴って、新たな経験がやって来た。それが「お金がない」ということ。

今だから笑って話せるが、通帳に印刷された「4322円」の文字を見た時はさすがに考え込んだ。そして初めて分かった。「そうか。私、今お金がないのね」と(笑)

初めて感じる心細さに、ちょっと涙も出てきたりして「お金がないって、こういうことなんだ」と、しみじみ理解した。実家に連絡すれば、即日お金を振り込んでくれるのは分かっていた。離婚した元旦那さんも「困った時はいつでも連絡しておいで」と言ってくれた。でもそのどちらに頼るのも嫌だった。

しばらくメソメソしていたのだが、だんだん泣くのにも疲れてきたし、飽きてきた。

なぜかキッチンに足が向かった。何気なしに冷蔵庫を開けると、昨日買い物してきたばかりなので結構食料品が入っている。それを見た時に思った。「うまく節約したら1週間~10日くらいはもたせられるかも」

そしてこうも思った。「今月分の家賃は払ったから、1ヶ月は住む所があるってことよね」

「料金滞納しても、水道は一番最後に止められるって聞いたことがある。人間は食べなくても水さえあったら2~3ヶ月は生きていけるって言うから、万が一の時は近くの公園でお水汲んでこよう」なんてことが、次から次に浮かんできた。そしてたどり着いた結論は「なんだ~結構大丈夫かも。まあなるようになるさ♪」

そして現実に何とかなってしまったのだから、意識の力は恐ろしい(笑)

そういう時を経験しているから、多少のことではへこまない。何とかなると分かっているから。

今でも時々その時のことを思い出すが、その経験が私に教えてくれたものは「当たり前のことを当たり前にできることへの感謝」ということ。

毎日ご飯を食べられるということが、どんなに恵まれているか、健康で毎日を過ごせることがどれだけ素晴らしいことなのか、自分や自分の生活を守って支えてくれる人がいるということが、どれほど有り難いことなのか―そういったことを本当に、心から実感することができた。

コンビニの100円のおにぎりを食べた時も、ちょっとお高いレストランで食事をした時も、その後の「ごちそうさまでした」の重さは、まったく同じ。心からの感謝と共に言えるようになったのは、その経験のお蔭だ。

先日のニュースで、住む場所がなく、ネットカフェを転々と泊まり歩いているネットカフェ難民の人達や不況の煽りで職を解雇され、ホームレスになるしかない季節労働者の人達のことが取り上げられていた。

現在住む場所があって、毎日ご飯が食べられる生活ができることが、どんなに幸せで恵まれていることなのか―自分自身が「当たり前、普通」と思っていることを見直してみるといい。その当たり前で普通のことが適わない人だって、今現在大勢いるのだ。

「もっともっと」と思って願うものは「欲」だと思う。
「欲」がベースの幸せは、けして満たされることはない。それはただの貪り、欲しがる心の表れ。

どんな小さなことの中にも、幸せはある。それに気づいたら「三徳」どころか「四徳」にも「五徳」にもなるかもしれない。

今の自分を幸せだと思えないなら、「もっと」という気持ちが強くて満足できないのなら、それは幸せを感じたり見つけたりする「幸福力」が落ちていること。

人は自分が思っているより、実はずっとずっと幸せなのだ。
カテゴリ :Mの心象―あれこれ思うこと・感じること トラックバック(-) コメント(-)
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