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自己啓発のナンダソリャ3「メンター」

 2008-11-15
巷の自己啓発セミナーで、最近流行のキーワードは「メンター」らしい。

「メンターを探す」「あなたもメンターになれる」「メンターを作るとこんな素晴らしい変化が訪れる!」―セミナーや関連書籍の類の中に「これでもか!」というくらい溢れかえっている。


「メンター」とは、「優れた指導者・助言者」「恩師・師匠」「顧問」を指す言葉。自己啓発分野では、「よき指導者・助言者」の意味合いで使われる。まあ簡単に言えば「尊敬できて、頼れるリーダー的存在」と言うところだろうか。

セミナー講師やカウンセラー・セラピスト等、自己啓発系の分野に関わる仕事をしている人や、そういった分野に興味を持っている熱心な人は、どうやらこの言葉が「大好物」らしい。

「僕のメンターは」「私のメンターの○○さんは」―その人達の会話の中に、必ず出てくる言葉のひとつ。最近では一般企業の社員教育の一環として、「メンター制度」とかいうものが取り入れられているらしい。


自己啓発の分野にも、「流行り廃り」というものがある。ちょっと前までは「潜在意識」等、「自分の内面や可能性の開発」がその中心だった。最近ではそれに飽き足らず、「外」に向かっている。正確には「向かわされている」。つまり「仕掛ける側」の意図に、まんまと乗せられているということだ。

こういった「流行」は、自己啓発に限らず、精神世界の分野でも同様だ。ファッションと同じで、ある程度の周期を経て、また同じものが流行る。つまり限られた種類のものを、延々と「使い回し」しているということ。多少の違いはあるが、基本は変わらない。

多分もうしばらくすると、また「内面」に戻るはず。そしてその後は再び「外」へ向かうだろう。
自己啓発では「内と外」―その2つの間を行ったり来たり、ただ繰り返しているだけだ。なぜならそれは「流行」だから。

そして今は「外の時代」。ある意味世相を反映している。モンスターペアレント等に代表されるように「原因は外にある」と、自分以外の人や状況等に責任転嫁したり、依存する傾向が強い時代。


「メンターを求める」ということは、これとよく似ている。

尊敬する人がいるということは素晴らしいことだと思う。そういった人との出会いが、自分の成長に繋がることは喜ばしいことだし、幸せなことだと思う。

しかし、日本の自己啓発の分野で提唱されている「メンター」の意義には疑問を覚える。なぜならその言葉の本来の意味を取り違え、自分の都合の良いものとして求めている勝手な人が、あまりにも多いからだ。

見ていると「自分を元気にしてくれて、有益な情報や助言を与えてくれて、常に自分の成長を考えていてくれる人」と思っている人が、本当に多い。その発言を聞いていると、何か「相手から一方的に受け取ること」しか考えてない。

そこにあるのは「甘えと依存」だけ。「いざという時の避難場所、救助してくれる人」という程度の認識しかない人が、驚くほど多い。

また逆に「あなたもメンターになれる!」「メンターになろう!」等と、意味不明なことを謳うセミナー団体も存在する。

そもそも、「メンターになりたい」って?「メンターになれる」って?

そういったことは、人から「なれ」と言われてなったり、自分で「なりたい」「なろう」と思ってなるものなのだろうか?

それが「自然発生的なもの」だったら理解できる。自分の人としての生き方や考えに触れ、それに対する共感や尊敬の念が、自然に相手の中に沸き起こってくる―そういった所からすべては始まるのではないだろうか。

それを「なりたい」とか「なろう」って・・・?何か、資格でも取るようなことと勘違いしているのではないかと思う。


こういった人達がよく引き合いに出すのが、アメリカの経済界や企業のケース。アメリカが大発展を遂げた理由はのひとつに、「メンター」の存在が挙げられる―というもの。

アメリカでは、財界や大企業の成功者の陰には、必ず偉大なメンターの存在がある。メンターに育てられ、大きな成功を手にした人が、今度はメンターとなり、新たな人材を育てる役割を担う。そういった社会的な背景が存在する。

しかしアメリカでそれが大きな効果を生んだのは、そこに「ギブアンドテイク」の精神があったからだ。優秀な後継者を育てることは、結果として自分に有益なものをもたらすことになる。「先行投資」のようなものだ。

そしてそれを受ける側にも、ちゃんと「お返し」をする心構えが出来上がっている故だと思う。あくまで才能や頭脳が優れている者を見極め、ふるいに掛けた上でのこと。ある意味ドライでビジネスライク。

それは、「冷たい」ということではない。それぞれがお互いの役割や、その意味、目的をきちんと把握しているということだ。

しかし日本で現在提唱されているメンターの役割は、もっと「情緒的」な要素が強い。どちらかというと「人情」の面が強調されている。「情けをかける」とか「面倒をみる」「頼る」のような、ある種の「ウエットさ」が目立つ。何か「なかよしクラブ」の活動をしているかのような「甘さ」がある。

それぞれの側が「引き上げてもらうこと」「引き上げてやること」というように、「一方的なもの」としてその関係を捉えているのであれば、それはアメリカのような成功例、システムや土壌を作ることは難しい。そもそも、その根本がまったく違う。

いかに日本の自己啓発が欧米の猿真似か、よく分かると思う。そのまま額面どおりに受け取って「直訳」したものをばら撒くから、おかしな思い込みと誤解、方向が出来上がる。


自分をメンターとして見ている人を、「自分のファン」として捉える人もいる。「ファンは自分に従う」という思い込みがあるから、その人達を「支配」しようとする。「自分の言うことを聞いて当たり前」といった勘違いをする。そこにあるのは「支配と服従」だ。

「勘違いをしている人」は、「一緒に」「みんなで」という言葉を頻繁に使う。「一緒にがんばろう」「みんなで幸せになろう」―聴こえはいいが、その実、やっていることは一方的な「強要」だったりする。自分の周りに集まる人を、体のいい「使い走り」程度にしか思っていない人もいる。

「一緒に」「みんなで」その言葉で相手を縛る。「運命共同体」を強調するが、実は「良い時期に限って」という、見えない「但し書き(条件)」が付いていたりする。

そういう人の元からは、人は育たない。なぜなら「出る杭」を打つから。最終的には「奴隷化」して、いつまでもその人の周りから離れられなくなり、自立の機会を奪われる。結局「取り巻き」として終わる。


メンターは支配者ではないし、依存する対象でもない。

まずどちらも「自立」していることが前提で、初めて成り立つものだ。

「自分の心細さや不安、経験の少なさを補ってくれる存在を持つこと=メンターを持つこと」ではない。

尊敬できる人がいるのは素晴らしいことだ。しかし、その人をわざわざ「メンター」―「助言者、指導者」として位置づける必要があるのだろうか。特定の言葉でその人を表すことで、意識が変化してしまう場合もある。「あの人は私のメンターだから」と、依存的なものを引き出す可能性も大きい。

実際「メンター」云々と言っている人達の多くに、そういった傾向が見られる。自立の芽をその存在が摘むことに繋がるのであれば、それは本末転倒だ。

育ててもらうことばかりを期待しているのであれば、そんな存在は要らない。「見本」となって、メンターとして慕われることが自分の存在価値になると思っているのであれば、なろうとしなくていい。

「自分以外の人は皆、師である」
どんな人からでも、教えられることはある。時にはまだ物心つかない子供からも学ぶことがある。

メンターの是非とか、そういったことを言っているのではない。
うわべだけの言葉や表現に惑わされてはいけない―ということだ。


ゲシュタルト療法の提唱者である精神分析家パールズが書いた詩がある。


私は私のことをする。
あなたもあなたのことをする。

私は私。あなたはあなた。

私はあなたの期待に応えるために、この世に在るのではない。
あなたも私の期待に応えるために、この世に在るのではない。

でも、もし偶然にお互いに出会うことができたら、それは素晴らしい。
しかし、そうならなくても仕方ない。

(「ゲシュタルトの祈り」)


依存の種を外に撒くことなく、自分自身の中の根っこを、きちんと張っていこう。
血眼で必死に「メンター」を探さなくても、あなたは自分の足で歩いていける。

答えは外からもたらされるものではないし、誰かが与えてくれるものでもない。

すべての答えは自分の中に存在する。そしてあなたはすでにそのことを知っているのだから。

カテゴリ :はい論破!スピリチュアルと自己啓発の矛盾とからくり トラックバック(-) コメント(-)
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