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ラブレター

 2017-01-14
人生には、「奇しき縁」としか喩えようのない出会いが時々訪れる。

初めて会うのに、まだろくに言葉すら交わしていないのに、ふと視線が合った瞬間に、その人のすべて―「本質」ともいうべきものに、期せずして触れてしまうのだ。

その人のことは何も知らない。年齢も、名前も、最低限の個人情報すらわからない状態であるにも関わらず、「ああ、この人はこういう人なのだ」と、意思の力の及ばない領域の奥深い場所で、それを「知って」しまうのだ。その人に関する「情報」のすべてが、抗う間もなく、奔流のように一気に自分の中に流れ込んでくるような感覚に近い。

そして、それが「当たり外れ」とは無縁のものだということも、既に「知っている」のだ。加えて、まったく同様のことが相手の身に起こっているということも。それは「直感」などではなく、揺るぎのない「確信」なのだ。疑う余地のないほどの―。この先も決して変わることはないと断言できるほどの―。

好むと好まざるに関わらず、期せずして、不意打ちに訪れた一瞬に起こったそれを、私はあえて「魂の交感」と呼ぼう。

図らずも、相手の「深淵」に触れ、自分のそれに触れられたことを「僥倖」と呼べるかどうかはわからない。「共有」から生まれる高揚や喜びも、そこには存在しない。期待や熱情の欠片さえも。感情の揺れはなく、意識はあくまでもしんと澄んだまま、冷徹に事態を捉えている。

なぜそれが起こったのか、それがどんな意味を持つのか―そんなことはどうでもいいことだ。ある意味、それは「確認」なのだ。昔読んだ小説の主人公の、すっかり忘れていたその名前を、再び本を開いた時に、「そうだった。こういう名前だった」と思い出すような―。そんな淡々としたものだ。

ただ、意識と細胞に刻み込まれた「感覚」だけが鮮烈なままなのだ。多分、それはこの先も変わらない。それが消えずにずっと自分の中で息衝いていくことは、「あの瞬間」からわかっていたことだ。それは、もはや「諦観」なのだ。

お互いの中に、刹那の中に見た「永遠」。

束の間のものだったとしても、それに触れた後には、「意味」さえも価値を持たなくなる。

例え互いの人生が交差したのはこの一瞬の為だけだったとしても、ただその「事実」さえあればいい。意味付けは不要であり、それに執着することは愚陋の極みだ。

自分と、そしておそらく相手も見たであろうものとそれが持つ煌めき。それを同時に共有したという「確信」。もう、それだけで十分なのだ。

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