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金と銀

 2016-09-01
「何でも話せる友人がほしい」と言う人は多い。それを「定義」として挙げる人もいる。良いことも悪いことも、相手を選ぶような内容の話でも、警戒心を抱かずに、安心してどんなことでも打ち明けられる存在―それが「友人」というものだ、と。

特に10代や20代の頃は、その定義を疑いもしない。その世代は、「打ち明け話」の類が大好物だ。お互いの「秘密」を開示し合うことで繋がりを強化し、その程度を確認し合うのだ。「こんなことまで話せる自分達って、『友達』だよね?」と。

相手は自分の秘密を知っている。自分は相手のそれを知っている。「秘密の交換と共有」は人を結びつける。ある種の「共犯関係」が出来上がる。その繋がりが深く強い者が、「友人」と呼ばれる存在なのだ。

だが、年齢を重ねるにつれて思うようになってきた。「何でも話せる友人」というのは、実は、世間で思われているほどの希少性はないのかもしれない、と。

「何でも話せる友人」とは、洗いざらい、自分の中にあるものを包み隠さずお互いに晒すことができる存在―という概念を、多くの人が持っている。だが、その「なんでも」という部分が、実は曲者なのだ。それが関係の「肝」であるということは、同時に「隠し事を許さない」という意識を生む。

「自分にすべて話すべき」「自分はそれを知っておくべき」という思考が芽生え、十あるうちの八を話した友人に対し、「自分に話さない残りの二」について、追及・強要・糾弾するようになる。それは「支配」であり、「束縛」でもある。場合によったら、「嫉妬」や「憎しみ」が生まれることもある。

「何でも話す」ということは、実は簡単なことではない。年齢を重ねるにつれてわかってくる。人は、年齢を重ねる毎に「話せないこと」「話したくないこと」「どう話せばいいかわからないこと」が増えてくる。「歳を取る」ということは、「=世界が複雑化すること」でもある。社会的な責任は勿論のこと、個人的な部分においても、「背負うもの」が年々増していくのだ。物理的にも、心理的にも。

そのすべてに対し、明確な説明が付けられるわけではない。感情的なものが複雑に絡み合っている場合は、特に。「大人の世界」で通用する摩訶不思議な言い訳―「一身上の都合」は、そういった諸々の複雑な事情に関する説明義務の関門を必要最低限のチェックのみで通過させてくれる「免罪符」なのだ。ある種の「温情」と言ってもいい。

通常、責任の所在を明確にすることを求められるこの社会で、「個人的な都合ゆえに」という曖昧な理由が公然と認められるのは、世の中には、それだけ「話せないこと」「話したくないこと」が存在しているということだ。それが「暗黙の了解」として通用するのは、「世の中には、時に理屈や正論で立ち行かないこともある」ということを、社会単位で認めているから。

「人として幼稚な人、未熟な人」は、他人の「一身上の都合」を理解することも、受け入れることもしない。「察する」ということが不得手だ。相手に配慮する気持ちより、自分自身の好奇心を優先するので、「知りたがり屋」特有の行動が目立つ。根掘り葉掘り質問したり、何とか相手の口を割らせようとカマをかけてみたり。思いつくまま言葉を投げて、相手の反応を探ったりする。「話してくれた八割」より、「話してくれなかった二割」に固執し、疑いを持ち、詮索する。

この手の人が考えているのは、自分のことだけだ。話してくれない相手への不満、満たされない好奇心、どこか自分が蔑ろにされているような面白くない気持ち―そういったものが中心に存在している。「知らない自分」「話してもらえない自分」に我慢ができないだけなのだ。友達甲斐だのなんだの持ち出してきたとしても、結局「自分ファースト」なのだ。そういう人相手の「何でも話す」という行為に、一体どんな意味があるのかと。そもそも、「知っている=理解している」とは限らない。「情報量」と「理解」は、必ずしも比例しない。

私は、むしろ「話さない部分」「見せない部分」を尊重してくれる友人のほうが貴重だと思っている。人によったら、「そのことについて尋ねない」ということを「無関心」と捉えたり、冷淡に感じるかもしれない。だが、あえてその選択をする人は、自制心の効いた、精神的な余裕を持つ人だと思う。

話したくなったら話すだろうし、話したくないなら話さなくて構わない。「いつかその時」が来たらでいい。でも、「その時」が来なくても一向に気にならない―それがその人のスタンスなのだ。関係を維持したり深めたりする為の必要不可欠な要素として、それを捉えてはいない。せいぜい「きっかけ」「一部分」程度の位置づけでしかない。

相手との関係において、「比重をかける場所」が根本的に違うのだ。だから、「話してくれない、見せてくれない=隠し事をしている」という短絡的な思考に囚われたりせず、相手の事情やペースを尊重し、「待つこと」ができる。相手をせっつくことも、問いただすこともしない。「話してもらうこと」「見せてもらうこと」で安心を得ようとしたり、それによって友情の深さを測ることが目的ではないのだ。

人に関することで、特に相手ありきの場合の「待つこと」には忍耐が要る。そして、相手に対する信頼や思いやりも。時には、「無為になった時間」を黙って飲み込める裁量も。それは、自分を満たすことだけしか考えない未成熟な「こども」には出来ない行為。その部分に無自覚な人は、真意に触れることなく、上辺だけの「ごっこ」の関係に満足して終わる。その部分に見切りをつけた相手が扉を閉ざすこともある。

沈黙は金、雄弁は銀。「待てない人の雄弁」よりも、「待つ人の沈黙」にその価値を見る。多分その人は、「今見えているもの」から「隠れているもの」を見出すことができるのだ。想像力―その心的能力こそが、その人の持つ一番の「力」であり、他者との「差」なのだ。

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