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アンフェア

 2016-08-15
人間が二人以上いれば、当然「力関係」が生じる。友人同士の場合等、その時々で流動的になったりするケースもあるが、親子の場合、どうしても「親が上」「親が強い」というパターンになりがちだ。親を「○○ちゃん、○○くん」とファーストネームで呼び、服を共有したり、プライベートでもしょっちゅう連れ立って出かけるような「友達親子」もいるにはいるが、それでもやはり、親が主導権を握る場合がほとんどだ。

カウンセリング時、家族の、特に親子間についての悩みや葛藤を話す人は少なくない。親の立場、子の立場―それぞれからの話を聴いていて思う。「親である」というだけで、それだけで既に何らかの「アドバンテージ」を手にしているのだなー、と。

安土桃山時代に入ってきた「儒教」の影響もあり、この国の人達は、「親は自分より偉い」「親は敬い、大事にするべき」という考えを意識下に刷り込まれている。その思想は、民族性とも結びつき、「道徳」として日本人のメンタリティーに浸透していった。先祖代々、脈々と受け継がれてきたそれは、もはや「不文律」と言ってもいい。

「なんでもあり」の感が強い21世紀の現在でさえ、親を「○○ちゃん」と呼ぶような、好き勝手やっているように見える10代や20代の若い世代でも、やはり内心では親の意向を気にしたり、ダメ出しを食らうことを恐れていたりする。

そして、そういった「親の期待に応えるべき」「親をがっかりさせてはいけない」という意識は、子供自身がたとえ50代や60代になったとしても変わることはないのだ。60も半ばを過ぎて、孫もいるような人でさえ、自分の言動に対し、90歳になる自分の親がどう思うかを気にしたりする。いくつになっても親は親。子は子。その関係性は、永遠に変わらないのだ。

ただ、「喉元過ぎれば」の喩えではないが、人間というのは勝手なもので、自分が「親」という立場になると同時に、「かつて子であった自分」を忘れてしまう人が多いのも事実だ。「いやいやいや、あなたも昔は『子供』だったんですよ?ちょっとそれはないと思いますけど」というような、「親としての言動や持論」を平然と振りかざすようになる。

「かつては自分も『子供』だった親」は、なぜか漏れなく「もし自分が子供の立場だったらどう感じるだろうか?」という思考や想像ができなくなる。多分、彼らは無意識でこう思っている。「自分は親なんだから何を言ってもいい。自分が何を言おうと、子供はそれを受け入れてくれるはずだし、受け入れるべき。だって自分は『親』なんだから」

文化や習慣を通じて、気づかぬうちに埋め込まれた「儒教思想」が発動し始めるのだ。「親」になった途端、意識の奥深くに埋め込まれた装置が作動し、同時に、「親としての甘えや狡さ」が覚醒する。それは、ある種の「現象」だ。

子供にとって、親は「絶対的な存在」だ。そんな素振りは一切見せなくとも、「親をがっかりさせたくない」「親の期待に応えたい」という思いは、多かれ少なかれ、どんな子供も確実に持っている。

親との言い争いや反抗的な態度を取った後、罪悪感めいた感情が自分の中に湧き上がってきた経験を持つ人も多いと思う。それもまた、「親に逆らう自分は悪い子」「親に従えないダメな子供である自分」という意識から来ているのだ。

極端な言い方をすれば、親に対して「NO」を言える子供などいないのだ。どんな子供の中にも、「親から見捨てられることへの恐怖」が存在している。同時に、「見捨てられた絶望」も。幼児期以来、本能や意識と強く結びついたそれは、死ぬまで消えることはない。どんな親であれ、その存在は、子供にとっては「大きい」のだ。良くも悪くも、その影響力は計り知れない。

そして、親という存在は、そういった子供の「弱み」を巧妙に突いてくる。自分のポジションが持つ優位性をフルに利用するのだ。

今や「3組に1組」という離婚率増加の影響で、離婚が「めずらしいこと」ではなくなってきた昨今、以前に比べ、それが「最大のタブー」のような扱いをされることはなくなってきた。世間からの風当たりも、若干弱まってきてはいる。都市部から離れた場所では、まだまだ厳しい目で見られることもあるようだが、シングルマザーやシングルファーザーの家庭は年々増加している。

同時に、「バツありの人の恋愛・再婚」に対しても、欧米ほどではないが、まあまあ寛容な目で見られるようになってきつつある。カウンセリング中、そういった話題が出ることもあるし、プライベートで耳にすることも多い。

その機会があるのなら、新しい幸せを手に入れることも「あり」だと思う。「幸せ」を求める権利や自由は誰にでもある。ただ、なんというか、人によったら、「・・・なんだかなー」と思ってしまう人もいるわけで。出会いを求めることや、そこで知り合った人に夢中になるあまり、我を忘れて完全ジコチューモードに突入したり。浮かれ気味になる気持ちはわからなくもないが、傍から見ていると、正直「イタイ」というか。

特に、「バツあり子ありの人」によく見られるのだが、「親であること」を完全に忘れて、「生身のオトコ」「生身のオンナ」になってしまう人がいる。本人達曰く「子供とはよく話し合った」「子供から許しはもらっている」と言うのだが、正直、「それってずるいやり方だよね」と。「親」という立場を利用して、「オトコとしての自分・オンナとしての自分の要求」を押し通そうとしているのだから。

「お父さんが再婚したらどうする?」「お母さん、彼氏作ってもいい?」そう聞かれたら、子供は「いいよ」「いいんじゃないの?」としか言えない。「してもいい?」「もし~だったらどうする?」一見子供の心情を慮っているような言い方ではあるが、実質上は、「そうしてもいいよね?いいでしょ?」という、いわば「念押し」なのだ。

後々そのことについて非難されるような事が起こった時の、「でも、あの時ちゃんと言ったよね?お父さん/お母さんは、あなたにそうしてもいいかどうか聞いたよね?断りを入れたよね?」という、「万が一の時の言い訳」「アリバイ工作」が目的なのだから。

それが、「一応あなたに確認は取ったからね?」という形式上のパフォーマンスだということを、子供は気づいている。内心反対だとしても、それでも、子供は親に対して「NO」は言えないのだ。「親の期待に応えなければ」という理由だけで。

「彼氏/彼女作ってもいい?」「再婚してもいい?」と聞く時点で、既に子供に「YES」を強要しているようなものだ。親からしてみたら、ごく軽い気持ちからのものだったとしても、子供は、その質問が意味するもの―親が無意識にそこに込めた「期待」を読む。だから、親が自分に望む役割を果たそうとする。子供によったら、自分の心を殺してまで、それに添おうとする子もいる。

そこをわかってあげないでどうするのかと。自分も「子供」であり、「子供」であったはずなのに。本心は「NO」であるにもかかわらず、「YES」しか言えない子供の立場や心情を、なぜ汲み取ってやれないのかと。「鈍感な親」が多過ぎるのだ。

中には、「親が幸せなら子供も幸せなんです!」という理屈を持ち出す人もいるが、「本当にそうですか?」と。確かに、親が幸せそうにしているのを見れば、子供は嬉しいかもしれない。だが、必ずしも「親の幸せ=子供の幸せ」ではないのだ。親と子供は完全に別物。子供は、親の「分身」でも、「付属物」でも、「人形」でもないのだ。自分だけに通用する屁理屈を持ち出すな、と。

妙なところで「一心同体論」を持ち出すのは筋違いだ。だったら、子供の気持ちを汲んで、自分の恋愛を諦めることができるんですか?と。「親の幸せが子供の幸せ」というのなら、当然その逆も言えるわけで。もし、自分の恋愛が子供に不幸な思いをさせているのなら、当然相手より子供を選ぶんですよね?だって、「子供の幸せは自分の幸せ」なんでしょ?

結局、自分と自分がしていることを正当化したいだけでしょ?と。「子供と話し合った」「子供に許してもらった」という免罪符があれば、年甲斐もなく恋愛にうつつを抜かしている自分への後ろめたさも減る。何だかんだ言いながら、考えているのは自分のことだけなのだ。

ここ10数年の間に、凄まじい勢いで増えている「再婚相手や同居するパートナーによる連れ子への虐待」も、そういった「利己主義の親」が増えたことに起因している。「うちに限っては大丈夫」「私は絶対にそんなことはしない」なんて考えは通用しない。それは、想定を遥かに超えたところで起きるのだ。

野生のライオンでも、群れのリーダーのオスがよそ者のオスとの戦いに敗れて群れを追われれば、新しくリーダーとなったオスは、前のリーダーの血を引く子ライオン達を容赦なく咬み殺す。それが「本能」なのだ。人間も「動物」だ。同様のことが起きても、何ら不思議ではない。現に今、野生動物の世界と同じことが頻発している。

「本能」が勝った状態にある人間は、歯止めが効かない。それが「理性」を上回った時、もう「行き着くところまで行くしかない」のだ。虐待然り、ストーカー然り―本能に根ざしたそれは、「業」としか言いようがない。自分の中の、「オス」の部分、「メス」の部分を侮ってはいけない。どんな人にも、「スイッチ」はある。そして、それが「ONになる可能性」は、誰にでもあるのだ。決して他人事ではない。

自分の恋愛状況を、子供に逐一報告・相談するような人もいるようだが、子供の側からしてみたら、「自分の親の、オトコとして/オンナとしての生臭い部分」を見せられても困るだけだ。それでなくとも、夫婦が子供の目の前でキスやハグをすることが「普通」の欧米とは違うのだ。そういった日常の光景から、親の「親以外の顔」を自然な形で知らされたり感じたりする機会がないこの国では、それは「衝撃」に近いものだ。

自分自身に置き換えてみたらいい。もし自分が、親の「オトコとしての顔、オンナとしての顔」を垣間見たとしたら、どんなふうに感じるだろうかと。突如「オスの本能」「メスの本能」をむき出しにした父親や母親の姿に、多分「戸惑い」や「居心地の悪さ」、「嫌悪感」を感じるはずだ。私なら、確実にげんなりする。「いい歳した大人だし、べつにいいけどさー、そういうの、私のいないところでやってくれない?」絶対にそう思う。

例えば、もうすぐ60になろうというバツありの父親が、婚活サイトに登録して、自分の子供とあまり年齢の変わらない30歳の女性を恋愛対象として狙っている―なんて情報を知りたい子供なんています?ハートマークや絵文字が満載されたラインやメールを暇さえあればせっせと送っていることや、デートの行き先とか。自分と相手のラブラブの写メをケータイの待受画面にしていることとか。

はっきり言わせてもらう。そういう自分の、極めてプライベートな情報を子供に垂れ流しするって、どういうつもりなんですか?それ、本当に「必要なこと」ですか?お子さんが「生きていくにあたって知るべき重要な情報」ですか?「お父さん、よかったね♪」「お母さん、いい人が見つかってよかったじゃん」とでも言ってほしいんですか?そうまでして自分の幸せを祝福してほしいですか?「自分はみんなに愛されている」って実感したいんですか?

中にはそう言ってくれる子もいるかもしれませんが、お子さんにかなりの心理的な負担を掛けているということを自覚してください。「しっかりした子だから」「理解してくれているから」「親子仲がいいから」と言っても、「子供は子供」です。親の恋愛話を聞く義務は、子供にはありません。そういうことは、ご自分の「友達」とでもしてください。

「隠し事はしたくない。自分のすべてを知っておいてほしい」というのは、あなたの「エゴ」です。「隠し事をしている状態」が、自分にとっては気持ちが悪く、それに自分が耐えられないだけです。すべてを吐き出して、自分がスッキリしたいだけです。

いつもニコニコ聞いてくれているとしても、それは100%の気持ちではありません。本人でさえも、説明がつかない「よくわからない何かモヤモヤしたもの」が、たとえわずかであったとしても必ず存在すると思ってください。そんな自分の中の感情に気づかないふりをしたり、「親の幸せを邪魔しちゃいけない」と、無理矢理打ち消す子もいます。そうしようと努力しながらも、でも、どうしてもそれを受け入れられない―そんな自分を責める子もいます。

自分の子供に「包容力」を求めないでください。子供に「親の役割」「友達の役割」を押しつけてどうするんですか。完全に本末転倒でしょうが。浮かれるのはご自由ですが、お子さんが自分の身を削って示してくれている「優しさ」や「気遣い」に、もっと敏感になってください。

それ、完全に「依存」ですから。それも、かなりたちの悪いね。一方的なそれは、やがてお子さんに「限界」をもたらします。これ以上の負荷をお子さんにかけるのは止めてください。我慢が限界を超えた時、もたらされるのは「亀裂」と「崩壊」です。

たとえ自分が成人していようが、子供や孫がいるような年齢だろうが、やはり子供は、親には「親」であることを望むのだ。毅然とした、親然とした態度の、オトコでもオンナでもない、「父親」や「母親」を。親のセクシャルな部分を見たいと思う子供などいない。家の外で、よその家の父親や母親のそういう話を聞くことがあっても、仮に「そういう親もいるんだな」と理解したとしても、「自分の親だけは違う」子供はそう思いたいのだ。「自分の親は、『親らしい、きちんとした親』であってほしい」と。

父親然、母親然としたその態度が、たとえ建前上の、取り繕った感が満載のものであったとしても、子供はそんなことは百も承知している。子供の前で、無理をしてでも「親の努め」を果たそうとしてくれていることをわかっている。要は、「矜持」「プライド」の問題なのだ。「親として」「人として」の。「それを持った人であってほしい」子供は親にそう望んでいる。そして、身を以てそれを示す親に対し、感謝や尊敬の念を抱くのだ。たとえ口に出さないとしても。

恋愛するのも再婚するのも自由だが、個人主義と利己主義を取り違えなさんなよ、と。そういう相手がいるとしても、子供に対する最低限の「礼儀」は払うべきだ。「子供にも賛成してもらいたい」「オープンに堂々としたい」というのは、単なる「エゴ」だ。結局、すべては自分のため。自分にとって都合のいい環境を作りたいだけでしょ?と。

「浮かれている親」というのは、子供からすれば、「しんどい存在」だ。特に、「久しぶりの恋愛にはしゃいで、ティーンエイジャーのようになってしまっている親」は。「うちの子なら理解してくれるはず。喜んでくれるはず」と思うのは勝手だが、子供に対する一方的で勝手なその期待に、子供が応える義務はない。それに応えるか応えないかを決めるのは、子供なのだ。ましてやそれを強要する権利は、親にはない。

親子関係において、「親」の立場にいるというだけで、もう既に有利なのだ。特にこの国では、子供が親に物申すことは御法度の風潮が強い。「子供の分際で親に向かってなんだ!」のひと言で口を封じることが可能だ。だからと言って、調子に乗って「親の権力」を好き勝手に使い放題するのは、いかがなものかと。都合のいい時だけ「親」になるのはフェアじゃない。

人によったら何十年ぶりかの恋愛で、青春時代を取り戻したような気分になって舞い上がっているのかもしれないが、そこはあえて地に足をつけてくださいよ、と。そういう時こそ、ピシッと自分でけじめをつけられる人が、「かっこいい大人」「かっこいい親」なのだ。それができない人は、周りから顰蹙を買って、陰で「恋愛おじさん」「恋愛おばさん」と呼ばれ、「いい歳してだらしない人認定」されるのがオチだ。

「自分の人生を犠牲にして子供のために生きろ」と言っているのではない。「けじめをつけろ」と言っているのだ。「親」として。「人」として。親しき仲にも礼儀あり。「最低限の礼儀」を尽くしてください―そう言っているのだ。

自分にも、子供にも「責任」「義務」「礼儀」を果たさないのに「自由」を欲しがるのは筋違いだ。これまでさんざん子供に言ってきたはずだ。「やることをやってから権利を主張しなさい」と。肝心の親がそれをしないでどうするのかと。

自分さえよければOK、自分の世界にどっぷり浸り、周囲のことはお構いなし―それじゃ高校生や大学生の「おこちゃま的な恋愛」と変わらないでしょ?と。「心はいつも18歳」とか「少年の心を持ったオレ」とか、そういうのは冗談の世界だけにしてください。40、50過ぎてもそんなことを本気で言っているのは、ただのアホです。

「分相応」その年齢に相応しいものややり方があるのだ。当然、恋愛においても。幼稚な大人がするそれは、「恋愛」などではなく、「ただの恋愛ごっこ」だ。せめて年相応に、凛とした、筋の通った、「かっこいい恋愛」をしてください。

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