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覇 道

 2016-08-08
「セラピスト」「カウンセラー」という名称が付く仕事をしていて言うのもなんだが、世の中、こんなにも第三者からの「アドバイス」を求める人が多いことに驚く。特に、生き方や進む方向について。これがプライベートなら、「自分が思うようにしたらいいんちゃいます?」で終了なのだが、「仕事」となるとそうはいかない。

私自身は、信頼する友人に、「私はこう思うんだけど、あなたはどう思う?」と「意見」を求めることはあるが、それは「アドバイスを求める」ということとは違う。私が欲しいのは、「正解」などではなく、「別の角度からの視点」と「それがもたらす可能性」なのだ。

例え誰かにアドバイスを求めたところで、人間というものは、自分が受け入れたいことしか受け入れない。「いいアドバイスをもらった」と喜んでいる人は、結局は、「自分が聞きたい言葉を相手が言ってくれた」というだけのことなのだ。相手が「正論」を言っているとしても、それが自分が期待していたものとは違っていた場合、人はそれを受け入れない。

大抵の場合、人は「違和感」という言葉を使い、相手の言葉に同意・共感することを拒む。だがそれは、「期待していたものが返ってこなかった」という落胆を、それらしい言葉を持ち出して、自分が拒否する理由をもっともらしく正当化しているだけなのだ。自分が望むものと違っていたら、そりゃ「違和感」も感じるでしょうよ、と。

結局、人は、無意識下で「自分がどうするか」ということを決めているのだ。何を受け入れて、何を拒否するか―「自分はどうしたいのか?」その答えを、既に自分自身の中に持っている。誰かにアドバイスを求めるのは、潜在意識にあるそれを、顕在意識で実感したいから。曖昧でぼんやりとしたそれを、その行為によって具現化しようとしているのだ。

端的に言えば、それは「手段」であり、「作業」なのだ。既に存在する答えを明確にするための。乱暴な言い方をすれば、アドバイスの内容は、さほど重要ではない。むしろ、そこで行われる「やり取り」のほうが重要なのだ。誰かと思考や言葉を交換することで新たな波が起こり、その動きが、自分と「答え」を近づける。

多くの人は勘違いをしている。「相談」とは、相手にすべてを丸投げして答えを教えてもらうことでも、指示を仰ぐことでもない。自分の思考を放棄して行うそれは、「ただの依存」だ。そして、相談者に思考を放棄させ、自分の意に従わせようとする相手もまた、「ただの支配者」でしかない。「答え」を持っているのは、あくまでも自分。第三者からそれがもたらされることはない。

私個人としては、それに対する経験や知識がないにも関わらず、頼んでもいないのに口を挟んでくる人達の言葉は、「単なる個人の感想」に過ぎないと思っているので、聞き流すことにしている。「うっせーよ」と心の中で毒づきながら、一応の内容はチェックする。だが、意味のない雑音を取り込む気はない。世間で言うところの「大人の態度」で、華麗にスルーして終わらせる。

実際、そういう人達の言葉というのは、根拠のない思い込みや偏見、「~らしい」という出処が不明の、噂話の域から勝手に憶測したようなレベルのものがほとんどなので、聞く価値があるかどうかも疑問だ。中には、親切を装ったことを言いながら、妬み嫉みの感情から足を引っ張って、引きずり降ろそうとする人もいる。もしくは、自分の存在感を示したいばかりに嘴を突っ込んできたり、自分が他人に与える影響力を試そうとする人とか。

ある時思ったのだ。そういう、人の生き方や思考に対してあれこれもっともらしいことを言いながら口を出してくる人達を見て。「なんだかんだ言っても、結局自分以外のことは『他人事』」なんだなー」と。

所詮自分の事ではないから責任はない。責任を取る必要はないんだから、そりゃ好き勝手に言いたいことを言えるわな、と。それぞれが言っていることも見事にバラバラなのも、結局は「個人の好み」でしかないという証拠。そして、そのほとんどが、「何の役にも立たない感情論」でもある。端的に言えば、「相手のことを思って」というよりは、「自分が言いたいこと」をあれこれ自由に言っているだけなのだ。

実際、自分が言った「アドバイス」とやらの内容を、全く覚えていない人もいる。未知の領域に手を出そうとしている相手に対し、「そんなことして大丈夫なの?」「やめておいたら?」「うまくいくわけがない」等と散々言っておきながら、いざそれが成功すると、手のひらを返したように誉めそやすとか。「自分が生きるわけではない人生」に対し、人はそれだけ無責任になる。

結局、自分の人生を自分以上に真剣に考えてくれる人などいないのだ。以来、「自分のことは自分で決める。自分が思うやり方でやる」と決めた。所詮人間は、自分が信じたいものしか信じない。「自分が信じるやり方」でやることは、ある意味非常に理に適ったことだと思うのだ。

人間は、非常に厄介且つ勝手な生き物だ。基本、「自分が一番正しい」と思っている。極端な言い方をすれば、「自分以外は全員変でおかしい人」なのだ。血縁関係にある親兄弟であってもそれは同じ。家族間で起こるいざこざの類も、「この家族の中で、分別があってまともなのは自分だけ」そういう意識を各々が持っていることに端を発している。

「自分のやり方、自分の考えがベスト」そう思っているから、人は「よかれ」と思い、口を出す。だが、それはあくまでも「その人限定の、その人にだけ有効な方法」でしかない。血が繋がっている家族だろうが、赤の他人だろうが、所詮は「他人事」。まさに「自分以外の他の人の事」なので、その人達に自分のセオリーが100%通用するわけではない。

自分にとってはベストでも、相手にとっては違う。「自分とその人は違う」一見ごく当たり前のことだが、それを理解・意識している人は、それほど多くはない。世の中の構図は、「自分と自分以外の人達」なのだ。

例え、それが「貴重な経験から得た教訓や人生観」だったとしても、「あくまでもその人自身のみに適用可能なもの」でしかない。「アドバイス」「忠告」そう言われているものは、結局は「一例」なのだ。「自分の場合はこうだった」それが自分にもたらした「結果」を語っているに過ぎない。ましてや、それが唯一無二の「真実」であるということなどないのだ。

結局、自分が思ったように、したいようにするのが一番なのだ。例えそれが望まぬ結果になろうとも、恨み辛みを言わずに自力でどうにかする―という覚悟を持っていれば。

以前、プライベートでお付き合いのある占い師の方を、友人に紹介したことがあった。後でその友人から聞いたのだが、その占い師の方曰く「樫田さんはね、あの方、私が『この時期は絶対に動いちゃダメですよ?いいですね?』って念を押しても動くんですよねー。でも彼女、良くない時期や運勢の時も、自分でなんとかしちゃうんですよ」

私としては、他人の意見も占いも、現在の自分の立ち位置や今後の可能性を確認、客観視する為の、「あくまでも参考意見」という位置付けなので、人が難色を示そうが、占いの鑑定結果が凶と出ようが、あまり関係はない。「よっしゃ、動くで~!」「今やりたい!」となったら即動く。

もちろん、事前のリサーチや内容の吟味は十分行う。だが、データ収集や机上のプランにはキリがない。予想と現実には「ズレ」が付き物だ。実際に何か事が起きたら、その時対処すればいいと思っている。すべてが計画通りに行ったら、誰も苦労などしない。

その反面、「チャンス」だの「もったいない」だの、いくら人から勧められようが、占いで最高の結果が出ようが、自分が納得しない時は、てこでも動かない。それは、あくまでも、「その人から見た場合は」「確率的には」の話なのだ。参考にはするが、最終決断は自分自身で下す。

他人の意見も占いも、その時々で変化する「天気予報」のようなもの。不確かなものに縛られる気はないし、自分の人生を生きるのに、自分以外の人の言葉を最優先する気もない。万人から理解を得られるわけではないのだから、反対派の意見をいちいち気にしても仕方ない。自分の人生に誰かの「許可」をもらわないといけないなんて、そんなのはまっぴら御免だ。

すべてが停滞している時であったとしても、良い運気の波がやってくるのを受身でじっと待っているよりは、考えて、行動して、チャンスを自分で作ってしまえばいい。もし、自分が「そうしたい」と心底思うならば。

最近、SNS等でのリア充アピール、「いかに人から幸せそうに見られるか」ということに対して熱心な人が多いが、そういった「こういう人生こそが幸せなのよ」という、世間の多くの人が望み、定義する「幸福」の要素が、私には全然ピンと来ない。平穏無事、安定、堅実―正直、「それって面白いか??」と。少なくとも、私自身の「幸福の定義」の中には入っていないし、優先順位も低い。

それに、「人からどう見えるか、どう思われるか」が基準になる人生ってどーなのよ?と。もし、自分がやりたいことが他人から見て「幸せそうに見えない」場合はやらないんですか?と。他人の目や思惑を気にして、欲しい物をみすみす逃すとか、私からしたら「アホくさ!ありえねー!!」なのだが。

そういった「他人の目を基準にする人」というのは、物でも何でも、「自分が好きなもの」より、「持っていると羨望の眼差しで見られるもの」を選ぶのだと思う。「これ絶対に可愛い!」と思うノーブランドのバッグより、自慢できる有名ブランドのバッグとか。

「個性より無難」「みんなと同じが安心」それは、「自分自身に対する自信のなさの表れ」なのだ。「自信のない自分」がした選択だから、自信が持てない。自分の感覚よりも、「他人の評価」を信じる人。「その他大勢」に混じれば、多少の不満はあったとしても、「安心」は得られる。まあ、本人達が「それでいい」と言うのなら否定はしない。それもまた「一つの生き方」だ。

昔から、綺麗にアスファルトで舗装された道よりも、「ここ、本当に歩けんの?」というようなけもの道に、「面白そう」という理由だけでわざわざ入っていくようなタイプだ。人から見たら、「なんでわざわざそんな所を!?」と思われても、本人がそちらに魅力を感じるのだから仕方ない。「王道」は、私にとっては退屈だ。これはもう「性分」と諦めるしかない。

良くも悪くも「見たまんま」「予想がつく」ということに全然魅力を感じないし、興味も持てない。「どんなもんなの?」と試しに手を出してみたこともあるが、案の定、秒速で飽きた。人も生き方も、「意外性」がないとつまらない。

そういう「マイノリティー」の感覚を、今更人に理解してもらおうとも思わない。「自分を理解してもらうこと」は、私にとっての「幸福」ではない。自分自身が思う、「自分に合うもの」「自分が欲しいもの」を自力で手に入れるまでのことだ。第三者の意見より、自分の中に存在する感覚や思考に従う―「今までどおり」に、それをやっていくだけだ。これから先も。

けもの道での逆風やトラップも、力技で強引にねじ伏せて進む―そんな生き方があってもいいんじゃない?と。もし、どんな結末でも引き受ける「覚悟」があるのなら、ね。必ずしも、「王道」が万人に向いているとは限らないのだから。「王者よりも覇者であれ」私は自分にそう望む。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタ 樫田ミラに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

インターネット上の文章や画像にも、ちゃんと著作権はあります。著作権侵害に関する訴訟では、①被告による原告の著作物へのアクセス可能性(IPアドレスの調査等) ②被告の利用著作物と原告の著作物における表現の酷似性③原告の著作物の著名性、周知性といったことが立証されれば成立します。故意に侵害した場合には、10年以下の懲役または1千万以下の罰金が科せられます。


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