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月の裏側

 2016-07-17
こういう仕事をしていると、「人を見る目」というものについて聞かれることが多い。「どうしたら人の本質を見抜けるようになるのか?」という言い方をしてはいるが、実のところ、それについて尋ねる人は、多分「自分の期待に応えてくれる人」を見分けるテクニックやマニュアルを求めているのだと思う。

もっと踏み込んで言えば、「自分に危害を与える人かそうでない人か」を判別する手がかりが欲しいのだ。そして、口には出さずとも、ほぼ確実に「初対面で、ひと目で、短時間で」という但し書きが付く。

見る目云々を口にする人は、過去に人間関係で何らかの「痛い目に遭った人」が多い。信頼していた人に裏切られた等の経験がある人。そういったリスクとの遭遇率を可能な限り回避したい、また同じ目には遭いたくないという強い気持ちがあることも共通している。

だが、結論から言ってしまえば、初対面のわずかな時間でその人の本質を見抜くのは100%無理だ。一代で大企業を築いた社長やスカウトした人物が後に大スターになった芸能プロデューサー等「カリスマなんとか」と呼ばれる人達の中には、「自分は人を見る目があったから成功した」みたいなことを言う人もいるが、実際のところ「見抜けた率」は、多く見積もっても、せいぜい50%くらいじゃないかと。

「成功者」が書いたHowTo本の類が大好きな人は、こういう言葉を真に受けて、「やっぱり凡人とは違う」と感心した挙句、心酔して「信者」になるパターンが多い。そして、「人の本質を見抜く目を養う10の方法」のようなタイトルがついた自己啓発本を○mazonで検索し、「お急ぎ便」で注文したりする。出版側もそのへんはよく心得ていて、その手の本が巷にはゴロゴロしている。

「カリスマなんとか」が何と言おうと、大抵のそれはギミックだ。その手の人達には、「レジェンド」「物語」が必要なのだ。カリスマ性や存在感を、さらに盛り立て、引き立てる為の道具・仕掛け・特殊効果―いわば「策略」。「成功者」は、「普通の人」であってはならない。彼らと「普通の人」を隔てる何か、その違いや差を見せつけるために混ぜ込んできたエピソード。そこに書かれていることを鵜呑みにしないほうがいい。それが「事実」かどうかは、本人にしかわからないのだから。

どういうわけか、世の中には「活字になったことは全部本当のこと」と信じ込む人が多い。だが、「活字マジック」に踊らされている自分自身を認識したほうがいい。「なりすまし」が横行するこの時代。著者の実体とはかけ離れた内容が書かれていることが当たり前になっている。見ず知らずの人間の、真偽も定かではない言葉を鵜呑みにせずに、自分で考え、自分で検証してみることだ。

なんだかんだ言っても、彼らや出版社の目的は「売ること」なのだ。いわば「商売」なのだから、利益の為には何だってする。多少話を盛るくらいのことは日常茶飯事だ。その手の話は5割引いて読むくらいが丁度いい。

人には、「承認欲求」というものがある。「周囲に認められたい、好かれたい」という思いを、形に多少の違いこそあれ、どんな人も持っている。余程特殊な考え方をする人を除いて、自分に良い印象を持ってもらおうと、人は努力する。いわば、全力で「いい人」を演じるのだ。特に初対面において。

「一番いい自分」を全力で演じている人から、「欠点」を探し出すのは難しい。相手は意図的に細心の注意を払って自分のそれを隠しているわけだから、容易にボロを出すわけがない。そんな状況で、「ひと目でその人の本質云々」は到底無理な話なのだ。

「人を見誤った」ということに対して苦い経験をした人というのは、今、自分が見ている部分だけが「=その人」だと思い込んでいる。それがそもそもの間違いなのだ。人はそれほど単純なものではない。

人は、幾つもの「顔」を持っている。「装う」「作る」は当たり前。本人が意図的に、もしくは無意識に隠している顔もある。「自分が知っているその人」「世間に浸透しているその人のイメージ」だけで、「この人はこういう人」と結論付けることは早急過ぎる。

「自分には人を見る目がある」と言う人を、私は信用しない。そこにあるのは、「過信」と「傲慢さ」だけだ。まるで「神の視点」を持ったかのように、相手のすべてを知った気になっているのだから。相手の中に「それ以外の可能性」が存在することを知った時、慌てたり手のひらを返したような態度を取る人は、大抵がこのタイプだ。自分が非常に短絡的な思考をする人間であることさえ、彼らは認識していない。自分のことを客観的に観られない人間の「人を見る目」など、所詮その程度だ。

「いつも人に騙される」とぼやく人も同様だ。私個人としては、この手のタイプが一番厄介だと思っている。この場合、責任の多くは本人にある。こういう人達は、過去の経験もあって、最初は非常に疑い深い。だが、安心感を感じる等、相手が自分が設定している「合格点」をクリアすると、途端に今までの距離を一気に詰めてくる。

その「合格基準」は、非常に単純だ。「自分が好ましいと思うような、望むような対応をしてくれたかどうか」最初は人を疑ってかかる割には、「自分の好き嫌い」「自分の都合」でしか物事や人を見ないという短絡さが、騙される云々の事態を招いているのだ。

彼らの多くは、「適切な距離感が掴めない人」だ。一度心を許すと、相手に非常に依存的になる。自分が一度「この人はこういう人」と思い込むと、他の一切の感覚や思考を閉じてしまう。最初の頃の反動で、「早く仲良くなりたい」「もっと仲良くなりたい」という気持ちも手伝って、焦って距離を詰めようとする。自分が見たいように見、思いたいように思うので、見逃したり勘違いする部分も多い。そんな状態では、彼らが言うところの「騙される=こんなはずじゃなかったのに」という事態が起こるのも、何ら不思議ではないのだ。

結局、彼らは「人に期待をしている人」なのだと思う。「今度こそ。今度こそは」という感じで。そして、その「期待」の根底にあるのは、多分「孤独」だ。孤独感から来る依存―それが彼らの目を曇らせる。その部分を自覚、直視してこなかったことが、望まぬ状況を招いてきたのだと思う。「騙される」「騙された」という受身の意識にしがみつくのは、ある意味筋違いだ。

「早く、短時間で、すぐに」と望む気持ちも理解できないわけではない。だが、それは、「楽に損なく」という計算高さの表れでもある。どんな形であれ、損得が最初にくる関係は、所詮その域を出ないと思う。「心を許せる友達がほしい」「信頼できる人と付き合いたい」と言いつつ、「でも損はしたくない。ムダな時間は使いたくない」というのも、ちょっと虫がいいんじゃない?と。求めるものが大きければ、対価もそれに見合ったものになる。質の高いものを手に入れるには、吟味する時間も待つ覚悟も必要なのだ、

「今見えている部分=その人」と思い込む人は、人を判断するポイントも断然甘いし、的外れなことも多い。例えば、「良いことをしているからいい人」「良いことを言っているからいい人」と、単純に思い込む。だが、悪人は善人のふりをする。笑顔で右手で握手している人が、背中に回した左手に刃物を隠し持っている可能性もある。悪人でも、「良いこと」はできる。例え、それが一時の気まぐれであったとしても。それがその人の「別の顔」。人間は、それだけ「複雑」なのだ。

「人を見る目」にこだわる人も、一度考えてみたらいい。「相手から見た自分」を。自分という人間が、相手にどう映っているのか?ということを。自分が相手を観察するということは、同様に「自分も相手から観察されている」ということだ。「自分には見えない自分」を、相手は見ている。

「騙されたくない」「傷つきたくない」「自分だけがいつも損をする」そういった、ある種の「被害者意識」を持つのは仕方ない。だが、果たして本当にそうですか?と。相手から見た場合、「被害者」とは違う顔が見えていたりする。

本性を見抜いてやろうと、相手の一挙手一投足を疑心暗鬼で凝視したり。何か魂胆が隠されていないかと、警戒心丸出しで、言葉の裏の裏まで探ろうとしたり。「本性が判明するまでは・・・」と、作り笑いで上辺だけの態度で接したり。

リスクを回避しようとする警戒心や他人に対する不信感は、得てしてそういった面を浮き彫りにする。相手からしてみたら、「なんだかやたら疑い深くて、全然本音を見せない人」になる。

だが、当の本人達は、そういった部分が自分の中にあることにまったく気づかない。彼らの焦点は、「被害者である自分」にしか向けられていないのだから。「騙される自分=自分は純粋」という思い込みを無意識の中に持っている彼らは、その「ポジション」を容易には手放さない。なぜなら、「純粋な自分に非はない」のだから。

「見抜きたい」のなら、「見抜かれること」を覚悟することだ。「人の本性は見抜きたいけど、自分が見抜かれるのは嫌だ」とか、そんな虫のいい話はない。相手にいろいろ求めるのは勝手だが、まずは自分のそれと向き合うべきなんじゃないの?と。

人の本質というのは、ある程度距離が縮まり、親しくなってから見えてくるものだと思う。「承認欲求による全力の演技」が落ち着いてきた頃、それは現れ始める。

図々しい頼みごと、礼節の欠けた振る舞い、人を舐めた言動、道徳に反した行為等、メッキが徐々に剥がれてくる。数週間後、数ヶ月後、数年後、数十年後―それがいつかはわからない。だが、相手に対して気を抜いた時、そこに表れた顔が、その人の「素」なのだと思う。その人の「もう一つの顔」。それを直視するかしないかは、自分自身の裁量だ。

人には、いくつもの「顔」がある。本人が意図的に、もしくは無意識に見せていたり、隠していたり。本人すら気づいていないものもある。それは、必ず複数存在する。物事もまた然り。今見えている部分だけが「すべて」ではないのだ。裏と表を同時に見ることはできない。

「人を見る目」とかいう、何だかよくわからないものにこだわるより、まず、「期待」を捨てて、相手をよく観なさいよ、と。一時の感情や思い込み、自分の都合や損得に流されないで、しばらく相手と付き合ってみれば?と。人との関係において、「早技」や「テクニック」は存在しないのだから。「馬には乗って見よ。人には添うて見よ」物事は、実際に経験してみないとわからない。

諸々の面倒臭さを含めての人間関係だ。綺麗なものばかりで人間も人生も出来ていない。それでも、「やっぱり傷つくのは嫌だ」とか「騙されたくない」と言うのなら、一切の人間関係を断って、人里離れた山奥か無人島にでも移住するしかないんじゃない?

そして、波風の立つ世界を厭いながらも「孤独」への覚悟も持てない。でも、「おいしいところ」は欲しがる―というその心根こそが、あなたの「裏側」なのだ。

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