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リミット

 2012-07-19
「自分には関係ない」「興味がない」「どうでもいい」今の世の中を観ていると、物事や人に対してこういったスタンスを取る人が目立ってきているような気がする。

何事にも無関心な人というのは、いつの時代にもいる。だが、私には、この手の人達が昔から不思議だった。「関心がないから」というだけで、それを一度も手に取らないその人達は、「知りたがり屋」の私には、「えー、なんで??」という存在なのだ。

「入るな」と言われれば入ってみたいと思い、「行くな」と言われれば余計行ってみたくなり、「やるな」と言われればやりたくてうずうずしてくる性質の私には、物心ついて、この世には自分と正反対の人達が存在するということを知った時はかなりの驚きだった。

ある程度の年齢になった時、その驚きはもっと大きくなった。世の中には、「興味がない」「どうでもいい」という以前に、「わからない」「知らない」という言葉だけですべてを片付けてしまう人がいるということが信じられなかった。それが悪いとは言わないが、「そこから先」に進まない人もいるんだなー、と。

「バカだからわからない」「学がないから知らない」「教えてもらってないから知らない」と開き直る人など、宇宙人との遭遇に等しい。「だったら調べろ!わからないままにしておくからバカなんだろーが!」と説教したくなりつつも、「やっぱりこういう人っているんだなー」と半ば感心する。それで今までやってこられたということが、ある意味すごいというか。

「え?何それ?」と思ったものは必ず調べる私には、知らないままのその状態を気にも留めない、「半径5メートルの世界」で満足しきっている人達がいるということは、かなり衝撃的であり、尚且つ不可思議なことでもある。

私の場合、好きか嫌いか、興味があるかないかということを思う以前に、それを目にした瞬間、もう手に取っている。とりあえず触ってみて、眺めてみて、匂いを嗅いでみて、「へぇー」とか「ほぉー」とか言いながらひと通り観察し、その存在を確かめずにはいられない。「感想とか好みとか、結論なんか後でもいいじゃん」そう思う。

最初の瞬間から「嫌い」「苦手」と感じた物や人でさえ、「とことんその正体を見届けてやろう」と思う。「なぜ自分がそういった反応を示したのか?」「何が自分を刺激したのか?」という「原因」を突き止めてやろうと思うのだ。だから、余計にじっくりそれを観察する。最終的には、「嫌いな人」「苦手なもの」を通り越して、「観察対象の個体」になっている。

「関心がないもの」に対し、あえてそれを行うこともある。例えば、水道管工事の現場脇を通りかかって、道路のアルファルトが削られ、数メートル下にある水道管が剥き出しになっていたとする。「おー、水道管だー」何の感慨もなく、その程度のことしか頭に思い浮かばなくても、家に帰ってから、水道や水道工事についてネットで調べてみたりする。

以前、そんな感じで土木工事のことを調べている最中、そこに出てくる用語や工法等興味の惹かれるままにどんどん検索していったところ、なぜか「アリの生態」について紹介しているサイトにたどり着いたこともある。

それが後で役に立つかどうかなんて関係ないし、気にしたこともない。ただ、この世界にあるものについて知ろうと思っているだけだ。「自分の好きなもの」「自分が関心があるもの」だけで自分を囲み、閉じてしまっては面白くないではないか。

「あえてのムダ」それがあるから、世界や人生は面白いのだ。第一、それが最終的にどこに繋がっているかなんて、今の時点では誰にもわからない。後に「すごい何か」に大化けする可能性もあるのだ。その可能性を含んでいるかもしれない原石を、みすみす捨てるなんてもったいない。「とりあえず持ってたらいいのに」そう思う。捨てるのはいつでも出来るのだから。

10代や20代のうちから「ムダ」を嫌う人もいる。「面倒なことには首を突っ込まない」「自分の好きなものや興味のあること以外には手を出さない」そういった「効率重視」の姿勢や方法は、学校の勉強や「楽して得したい人」には適しているかもしれない。だが、そう考えている時点で、その人の世界は既に終わっている。「頭打ち」の状態にあると言ってもいい。それ以上の広がりを期待できない。それはある種の「逃避」だ。

自分が心地良く感じるものだけで満たされた世界。狭く浅い世界。「老人」と「子供」のそれによく似ている。

老いた人達の世界は、年毎にどんどん狭くなっていく。加齢に伴う心身の疲労が、人や物事に対する興味を失わせ、「変化」を億劫がらせるようになる。「未来」よりも「過去」に執着するようになる。彼らの会話に「繰り返し」が増えるのは、「閉じた世界」にいるからだ。変わり映えのない日常には、新しく語るものなどないのだから。

「子供の世界」は、人としての未熟さゆえに、どうしても「感情」がベースになる。好きか嫌いか、やりたいかやりたくないか―彼らの世界は二元論で成り立っている。「好きなものだけ」「やりたいことだけ」で自分の世界を満たしたがる。

だが、「自分に心地の良いもの」だけで成り立っているそれらは、「偏った世界」とも言える。本人の望むままに、意図的に作られたそれは、「現実」とは程遠いものだ。それがある程度許容されているのは、「年を取ったから」「まだ子供だから」という、半ば「諦め」に近い「特例措置」のお陰なのだ。

この世界には、必ず「陰と陽」が存在する。両面が存在することが、「正常」なのだ。「陰」だけ、「陽」だけの世界は、その時点で既に歪んでいる。

私は、「この世のすべて」を見てやろうと思う。陰も陽も、裏も表も、好きなものも嫌いなものも、美しいものも醜いものも、命が終わるその瞬間まで、見られるものは全部見てやろうと思っている。せっかく「両面」があるのに「片面」しか知らないで終わるなんて、「知りたがり屋」の私には我慢ならない。だから、とことん見尽くしてやるのだ。この世のすべてを。

仕事柄、10代から70代までの、様々な年齢の人とお会いする機会がある。その度に思う。「人の成長に年齢は関係ない」と。20歳そこそこで、まるで仕事や組織に疲れ果て、人生を諦めきった中年のサラリーマンのように「事なかれ主義」を唱える人もいるし、70代後半という年齢にあっても、みずみずしさを感じさせる人もいる。

その「差」に深く関係しているのは、「感性」ではないかと思うのだ。「それは一体何だろう?」と思うこと。実際に体験してみること。その体験によって感じること。感じたものについて思考すること。それを積極的に自分の中に取り入れようとすること―その欲求が高く強い人に「限界」は存在しない。

「感性」は、「刺激」によって磨かれていくものだ。好きなものや関心のあることだけで満たされた世界は確かに心地いい。だが、「居心地の良さ」は「刺激」にはならない。「鈍さ」を増長することはあっても、「鋭敏さ」はその分失われていく。

「嫌い」ということを罪悪視したり厭う人もいるが、「嫌い」よりも性質が悪いのは、「無関心」だと私は思う。その存在自体を無視している状態、いわば、「認めてすらいない」ということなのだから。必要もないのにわざわざしゃしゃり出ていくことはないが、最初から「なかったことにする」「存在しないものとして考える」というそのやり方は、単なるご都合主義だと思う。「放棄」であり、「逃避」だ。

「知りたいことしか知らない」「やりたいことしかやらない」「見たいものしか見ない」それを望む人もいるのかもしれないが、私は何の魅力も感じない。そんな小さくまとまった世界にふんぞり返っている状態の、何がそんなに面白いのかと。そういった「惰性」から生まれるものって何よ?と思うのだ。

「今のままでいい」「もういい」その考えが大半を占め、「惰性」を好むようになり、自分以外の人や物事に「疑問」を持たなくなった瞬間から、「成長」は止まり、「世界」は閉じていくのだ。

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