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差異(2)

 2012-08-05
人と話したり、人が書いた文章等を読む度に思うことだが、「説得力」がある人とない人の「差」というものは、「その人の言葉が何から来ているものなのか」という部分に負うところが大きいと思う。

どこかで聞いたような、何かや誰かの受け売りや表面だけの綺麗事に終始する人は言わずもがなだが、「理屈」「道理」より自分の感情や感覚を最優先する人、いわゆる「感情的な人」の発言もそれに欠ける。本腰を入れて、身を入れてそれに耳を傾けてみようと思わせるものがないのだ。

ここまで読んでムッとした人は、「感情的な人」と言える。本題に入る前、その「根拠」を説明する前から、既に感情に支配されているのだから。「刺激」による咄嗟のその反応こそが、その表れ。それでは物事の「本質」を捉えることは出来ない。その「偏った状態」では、そこから遠ざかるばかりだ。

「感情的な人」を観ていると、「感情のままに」と「思うままに」を履き違えている人が多い気がする。これらの意味を「完全に同じもの」として捉えていることが、彼らの発言から説得力を奪っているのだ。

この種の人達には、本人達の意思に反して、なぜかコミュニケーション上でのトラブルが付き纏う。言葉での失敗―それが非常に多い。実際、カウンセリング等でそれに纏わる悩みを話す人も少なくない。誤解されたり、逆ギレされたり―それも一度や二度ではない。

そんな「トラウマ」から、人間関係に過敏になる人もいる。相手に必要以上に気を遣ったり、逆に警戒したり、コミュニケーション自体を疎んじるようになったり。

決して「悪い人達」ではないのだ。だが、よくよく話を聞いてみると、そのトラブルのほとんどが、例外なく、「感情のままに」と「思うままに」を混同していることに端を発している。「話し方教室」に通ってコミュニケーションスキルを磨く訓練云々で解決出来る類のものではない。

「感情的な人」というのは、その瞬間に生じた感情や感覚がすべての軸になる。「理由はないけど」「説明できないけど」「よくわからないけど」「ただなんとなく」彼らの発言に対して説明を求めると、必ずと言っていいほどそういった言葉が返ってくる。

実際、彼らの発言を聞いていると、「感覚だけで物を言っている」という印象が強い。「その場の思いつき」「口先だけ」「上っ面」そんな感じなのだ。浅くて軽い―真っ先に目に付くのはその部分。「重み」「真剣さ」それらが存在しないのだ。なぜなら、その言葉はあくまでも「気分」や「感覚」からのものであって、「本質」からのものではないから。

「理屈」「理論」よりも、「感情」「気分」を優先・重視する「考えるより感じろ主義」の彼らは、自分の内側から自然に且つ勝手に湧き上がってくるものに、言葉や説明は不要だと思っている。感情や感覚に「理屈」は存在しない、関係ない―そんな彼らの言い分に従えば、「言葉による理由の説明」が出来ないのも当然のことなのだ。「言葉なんて二の次。大事なのはあくまでも自分の感覚」そう思っている。

そんな彼らに共通するのは、「気分屋」の要素だ。「気まぐれ」「飽き性」「むら気」そういった傾向が目立つ。自分がその時どう感じたか―いわば、その場の思いつきや気分を中心に行動するので、言動に「一貫性」がない。その都度言うことが変わったり、急に何かに熱中し始めたと思っていると、突然それを放り出して見向きもしなくなるとか。その次の瞬間には、矛盾した言動を平然と行ったりする。

周りからしてみれば、呆気に取られることもしばしば。彼らの言動をいちいち真に受けていた自分を馬鹿らしく感じたり、一方的に振り回されているような気がしてきて疲労感を覚えるのだ。その結果、「感情的な人」は、「勝手な人」「いい加減な人」という分類に仕分けされることになる。

だが、当の本人達はあっけらかんとしている。彼らの軸は、あくまでも「feel」にある。「その瞬間の自分の感情や感覚がすべて」であり、「真実」なのだ。「自分はそれに素直に従ったまでのこと。何がおかしいの?」というところ。

だが、周りの人間からしてみたら、その時々の気分や感覚で発言内容がその都度変わるような「いい加減な人」の言葉を真剣に受け止めろと言われるほうが無理なのだ。そこにあるのは、まさしくその本人の感覚や感情だけ―ということに、ある種の「無責任さ」を感じるのだ。「本質」「中心」「全体」「相手」それらの欠如を感じ取る。

「ただ何となく」「よくわからないけど」それだけなら、まさに「言ったもん勝ち」で何だって言える。年端のいかない「子供」ではないのだから、それでは通用しない。ましてや、その言葉が、言われた側の信念や人格等に関わってくるものである場合なら尚更だ。「よくわからないけどそう思うんだもん」出処不明の小学生のような言い草に納得するはずもないのだ。

その「根拠のない言いっぱなしの、思いつきからの軽い言葉」は、言われた側からしてみれば、単なる「言いがかり」でしかない。それを「デリカシーのなさ」「無神経」と取る人もいる。当然、不満や不信、疑問から、その言葉を受け入れるわけもないのだ。状況や内容次第では、口論に発展することもある。

だが、そういった周囲に対し、彼らは反発する。彼らからしてみたら、自分自身やその存在意義まで否定された気になるのだ。「自分の中心」から生まれたものを認めてもらえないのだから。

周囲からの反発や反論といったものは、彼らからしてみたら「まったく思いもかけないこと」なのだ。「思ったことを正直に言っただけなのに」なぜ自分が否定されるのか理解できない。責められる理由が見当たらないのだ。

覚えがないことで理不尽に扱われる自分―度々そんなことが続くと、やがて彼らの中には「被害者意識」が芽生えてくる。相手の反応や指摘を、一方的な「攻撃」「言いがかり」と捉えるので、本人達の中では、「自分は周囲を敵に囲まれた孤独な存在」という意識が強くなる。

時折彼らが垣間見せる「孤独」や「孤立」に対する強い恐れや不安はその表れだ。「誰も自分を理解してくれない」そんな思いが、常に彼らには付き纏う。だが、自分のその「偏り」に気づかない限り、彼らがその孤独感から解放されることはない。


「思うままに」には、その人の信念や思考等から生まれる「根拠」「理由」といったものが確実に存在する。系統立てた筋道、「理」があるのだ。「I think~because」が成立する。「because」の部分、「理由」を明確に出来る。

だが、「感情のままに」にはそれがない。まさにその瞬間、パッと浮かんできたもの、閃いたものであり、「本能」や「感覚」といった領域から生まれる、いわば「反応」なので、「感じる」ことは出来ても、それを言葉等で表すことは出来ない。「because」の後が存在しないのだ。

「感情的な人」が受け取る「直感」は、「はずれる」ことが多い。同じことに対して受け取ったそれも、その都度内容が前回と180度違うこともしばしば。だが、彼らはそれを意にも介さない。「言ってることが前と違う」そう指摘されてもケロッとしている。彼らにとって重要なのは、「当り外れ」ではないのだ。整合性云々よりも、「その時自分がどう感じたか」なのだ。

「直感を大事にする」「直感に従う」彼らの多くはそう言う。だが、彼らの言うところの「直感」は、まさに「感情から直(じか)に来たもの」なのだ。つまり、「中心」「出所」が、感情や感覚だということ。インスピレーションは理屈や理論とは無縁の領域―そう思い込んでいる。

「大事にする」「従う」と彼らが言っているものは、まさしく「自分の感情・感覚」に他ならない。それが悪いということではない。だが、「自分以外」が存在しないその偏った状態では、受け取るものも偏っていると思ったほうがいい。その「直感」が「本物」であるかどうかは、「今現在のその人の状態・立ち位置」に負うところが大きいのだから。

「直感」が正しく発動するためには、「すべてがフラットな状態」でなければならない。思考や感情、価値観、思い込みや決めつけといったものに左右されない状態、執着していない状態にあってこそ、初めて「直感」は「直観」となり、意味を持つ。冷静さと知的さが存在する観察眼をもって状態を把握する「直知」になるのだ。

ブレたり、偏ったり―最初から感情ありき、偏見ありきの状態では、「中心」からのメッセージは正確に受け取れない。残念ながら、そういった状態にあっての「直感」は、「無」に等しい。「理」が存在しないそれは、単なる「感想」「こじつけ」と変わらない。

たまたまそれが「当たった」のは、「下手な鉄砲」の喩え通り、いわゆる「まぐれ当たり」、もしくは無理矢理「当たり」にしてしまったかのどちらかだと思う。「その時の気分や感覚」がすべての彼らには、得た内容が毎回違ったものだったとしても、「そのすべてが正解」なのだ。なぜなら、「その時はそう感じたから」。

だから、彼らの言う「直感」の内容は毎回変わる。そこには必ず「矛盾」が伴う。結局、彼らのそれは、その瞬間の気分や感覚、感情に左右される類の、不安定なものだということだ。本当にそれが「直観」から来たものであるなら、毎回内容が変化するはずはないのだ。

冷静でフラットな立ち位置と冷徹な観察眼から生まれる「思考」には、「理」が宿る。「言霊」と言い換えてもいい。薄っぺらで不安定で、いい加減なものから生まれた言葉にはそれがない。何よりも、「自分以外の観点」が完全に抜け落ちているそれには、人を立ち止まらせ、耳を傾ようと思わせ、動かす「力」が欠けているのも当然なのだ。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

【当ブログを訪れてくださった方達へ】このブログを読んでくださり、ありがとうございます。7月31日に、このブログが属しているFC2ブログ運営局から、先月に引き続き、当ブログが再度「カテゴリマイスター」になった旨の連絡を受けました。

成分解析結果と読者の投票数やアクセス数から算出されたスコアで決定されるカテゴリランキングなのですが、「カテゴリマイスター」は、1~10位にランクインした「読みごたえのあるブログ」に与えられます。当ブログは、前回同様「社会問題」のカテゴリで9位にランキングされたとのこと。(順位も前回と同じです)

応援ボタンの類を一切設置していないにも関わらず、このような機会を再度与えていただけたのは、このブログを読んでくださった皆様のお陰です。これからも、媚びない・ぶれない・潔いスタンスで、「自分が信じること・思うこと」を手抜きをせず、丁寧に書いていきたいと思います。

読んでくださった方達に、「インスピレーションのきっかけ」をもたらすことができたら幸いです。この度は本当にありがとうございました。今後ともよろしくお願い致します。厳しい暑さが続くこの時期、くれぐれもご自愛くださいませ。(樫田ミラ)

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