FC2ブログ

スポンサーサイト

 --------
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
カテゴリ :スポンサー広告 トラックバック(-) コメント(-)

掴む

 2012-06-21
「文章を書く人」なら、多分わかると思う。作品が自分の手を離れた瞬間から、それはもう「自分のもの」ではなくなる。その中に込めたものがどう解釈されるのか―書き手の「真意」や「狙い」といったこともお構いなしに、それは行われる。「すべて」を読み手に委ねるしかない。

小説などはその筆頭だと思う。「秀作」「駄作」どちらの烙印を押されるかは、すべて読み手の感性や好みに掛かっている。文体や言葉の選び方、描写の仕方やテーマ等を含め、その作品が好きか嫌いか、面白いかつまらないか、共感できるかできないか―そういった「読み手の個人的嗜好」を基準に、作品の良し悪しが一方的に決定される。

そこで貼られたレッテルに書き手が異を唱えても、それは無駄なことなのだ。自分以外の人間の目に作品が触れた時点から、それはもはや自分のものではなくなっているのだから。どんな評価を受けようと、書き手はそれをそのまま受け入れるしかない。

ただ、書き手の側から言わせてもらえば、読み手の側に唯一期待することがある。それは、その作品に自分が込めた「真意」「意図」に気づいてほしい―ということだ。いわば、その人の「読解力」に賭けているのだ。伝わるか伝わらないか―一番肝心な部分を自分以外の人間に委ねるというその状態は、「賭け」というより「祈り」に近い。

人間は、自分が見たいように物事を見て、思いたいように思う生き物だ。そこでその人が感じたり思ったことが、その人にとっての「真実」になる。こちらの祈りも虚しく―という結果になったとしても、ある意味それは仕方のないことなのだ。


日頃、ブログの記事についての感想メールをいただくことが多い。セラピーやカウンセリングでお会いする方達の中にもブログを読んでくださっている方が多く、直接感想をお聞きすることもある。面白いのは、人それぞれの捉え方の違いだ。

ある人は、このブログを「人生哲学を述べている」と言い、ある人は「スピリチュアル批判ブログ」と言う。そうかと思えば、「心理学系ブログ」とする人もいるし、全ジャンルを網羅した「エッセイ」「コラム」として位置付けしている人もいる。どれ一つとして同じものがない。そしてそれは、その人達の意識の「投影」でもある。

書き手の側から言わせてもらえば、そのすべてが「正解」でもあるし、同時に「間違い」でもある。それらの要素がすべて含まれているのは事実だし、実際に意識している部分もある。だが、「一つの記事の中に一つの要素だけ」ということは決してない。

哲学、宗教、歴史、科学、医学、文学、心理学といった学問や世論、私個人の思考等、いろいろな形でそれらを散りばめている。「見たものやあるものをそのまま書く」そういった短絡的且つ浅薄な文章に終始することは、文章を書く人間としての「矜持」が許さない。

比喩や引用の中にそれを込める時もあるし、科学の分野を取り上げながら、同時に文学や人生観を語っている時もある。蜘蛛の巣のように、それらを張り巡らし、繋げている。そして、それは「読む人が読めば」わかるようにしてある。決めつけや思い込みで、表面に現れている部分だけに焦点を当てている人には、「見えないが、でも同時に確実に存在しているその他の部分」は見えてこない。表面をさっとなぞった程度で終わる。多分肝心な点には一切触れることなく。

私が読み手に期待しているのは、まさにその部分なのだ。私が文章に込めたものを読み解く力―「洞察力」「探究心」という言葉に置き換えてもいい。単なる表面的な部分だけを見て判断し、決めつけてほしくないのだ。例えば、スピリチュアル教批判の内容の記事を、単純に「嫌いだから敵視している」だけとか。そこで私が語っていることは、一つのことだけではないから。

確かに、読み手にすべてを委ねるしかない。どう解釈しようとその人の自由。だが、その読み手の「立ち位置」が、「個人的嗜好」や「思い込み」といったものに終始するものであったら、それは「評価・解釈以前の問題」なのだ。最初の段階で読み誤っている状態―いわば「勘違いした状態」で読み進めていることになるのだから。スタート地点を間違っていたら、レースはその時点で既に「無効」なのだ。

「読解力」とは、「=観察力」でもあると、私は思う。物事の真の姿を、間違いなく理解しようとよく見る力。そこに「感情」や「価値観」は不要だ。ただ冷徹な眼で対象を観る―必要なのはそれだけだ。個人の感情や価値観といったものは、「観察」の場では「偏り」しかもたらさない。

文章への評価や印象を決定付けているのは、この「偏り」なのだ。自分の感情や価値観に、その文章がマッチするかしないかというだけのこと。「好きな文章」「嫌いな文章」、「面白い作品」「つまらない作品」そういったレッテルは、単に個人の好みの反映でしかないのだ。そして、その「偏り」がある限り、その文章の「真意」には永遠にたどり着かない。その全体像さえ掴めていないのだから。

「好きな文章」「面白い文章」が「=いい文章」であるとは限らない。それは、自分の好みを満たしてくれる、言うなれば「自分にとって都合のいい文章」でしかないのだから。決して「共感=理解」ではないのだ。共感したからといって、その文章を完全に理解しているとは限らない。単に、感情が共鳴・反応しているだけだったりする。むしろ、その部分だけに目がいって、肝心な部分を見逃している可能性もあるのだ。


ここしばらく、東西問わず、「名作」「古典」として読み継がれている文学作品を読んでいる。夏目漱石や泉鏡花等明治時代の作品、「源氏物語」をはじめとする「古典」と言われる分野、シェイクスピアやドストエフスキー等学生時代に読んだ作品を読み直している。今になって思う。「自分は何も読めていなかった」と。

あの頃は、単に自分の好みや価値観を中心に据えて読んでいた。古文独特の文体やそれに伴うややこしさや鬱陶しさ等も手伝って、半ば義務感で読んでいたようなところがあった。「名作って言われてるから、とりあえず読んでおこうか」という程度。中には、「なんでこれが名作?」と疑問に思っていたものもあった。

だが、今、あえてそれら―自分の価値観や好み、思い込みといったものを全部抜き去った状態で、白紙の状態で改めてそれぞれの本に向き合ってみると、見えてくるのだ。作者の「真意」が。目から鱗とはまさにこのことだと思う。作者がそこに込めたものが浮き彫りになって、自分に迫ってくる。

確かに、「好みの文章」でない場合もあるのだが、それでも、思わず唸りたくなるような描写があったり、構成の見事さに感服したりする。完全に圧倒された。そして、今までの自分の評価を完全に覆された。どれだけ曇った眼で、偏ったスタンスで自分がその作品を捉えていたかを痛感した。

「いい作品」をこの世に送り出す編集者の眼、いわゆる「目利き」とは、こういうものなのかもしれない。冷徹な観察眼とフラットな立ち位置―それがあってこそ、その作品の「価値」を公平に判断できるのだと思う。

文章だけでなく、物事や人に対しても同様だと思う。「本質」「真意」というものは、「偏り」のない状態で向き合ってこそ得られるものだ。「感情」だけでも、「頭」だけでも、それは掴めない。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を、無断でそのまま用いる方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

■関連記事

込める

観察者

まやかし

無知の無知

伝える

スモールワールド

イン アンド アウト

ジキルとハイド

スピリチュアルリスク

ゼロ

民度

カテゴリ :Mの心象―あれこれ思うこと・感じること トラックバック(-) コメント(-)
≪ トップページへこのページの先頭へ  ≫
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。