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刹那

 2012-06-25
つい先日、「国際研究実験OPERA」のチームが昨年9月に発表した「素粒子のニュートリノは、光よりも速く飛ぶ」という実験結果が、事実上撤回された。指摘されていた不備等を解消し、再実験した結果、ニュートリノと光の速さに明確な差が見られなかったためらしい。

素粒子のニュートリノが光速を超えるというその発表は、「質量を持つ物質は、光速を超えない」というアインシュタインの「相対性理論」に反するもので、「もしそれが事実であれば、物理学の教科書が書き換わる」とまで言われていた。同時に、光よりも速い物体が存在すれば、タイムマシンの実現も可能になるという説が、にわかに現実味を帯びて語られるようになってきた矢先だった。

「タイムマシン実現説」が浮上してきたその直後、ネット上でアンケート調査が行われていた。「タイムマシンで過去や未来、どの時代にも好きに行けるようになったとしたら、あなたは誰に会いたいですか?」という質問だった。確か6割近くの人が、「自分の先祖」を挙げていたように記憶している。その他は、亡くなった肉親や未来の子孫、歴史上の人物といった感じだった。

私の場合、自分の先祖や子孫に会うことに対して、それほど強い興味はない。良くも悪くも、身体的にも気質的にも、今の自分や父方・母方それぞれの血筋に共通している特徴を観ていれば、それは自ずと想像できると思うからだ。今の私を構成している要素を濃くしたり、薄くしたりしたものが、先祖や子孫だと思うので、「ま、いっか」と。「どっちでもいい」というのが正直なところ。「絶対に会ってみたい」という気持ちはない。

未来に行くことには、それよりもっと関心が低くなる。というより、「いや、いいわ」という感じ。先のことがわかり過ぎても、それはそれで面白くない。

私は、未来というのは、「現在」の延長だと思っている。仕事上、いろいろな人を見ていてそう思う。「現在」を一生懸命生きて頑張っている人は、過去も同じように頑張ってきた人が多い。そして、多分未来も頑張っている。「今頑張っていれば、未来も大丈夫なんじゃないの?」それは、自分自身の経験やその人達を照らし合わせて得た「確信」だ。

すべての起点は、「今現在」なのだ。「過去」はそれを積み重ねてきたものだし、「未来」はそれを積み重ねていく先にある。「現在」への取り組み方で「未来」は変わってくるし、「現在」が「未来」を作っていくのだと思う。「現在の自分」を観ていれば、「未来の自分」は想像できる。それもかなりの確率で、その想像通りになっているはずだ。すべての「源」であり、「土台」でもあるその部分がしっかりしていれば、多少の波風はあったとしても、まあ大抵のことは大丈夫ではないかと思っている。

私はむしろ、先祖や子孫に会うことよりも、各時代の、「決定的瞬間」と言われるものを見てみたい。例えば、地球が誕生した瞬間やそこに初めて「生物」が出現した瞬間、「文明の曙」とも称される「火」を、初めて人類が使った瞬間、今尚「世界の七不思議」の一つと称される、エジプトのピラミッド建設に取り掛かった瞬間とか。その時代毎の要というか、後に大きく影響を及ぼす「きっかけ」「原因」となった、いわば「その始まり」に立ち会ってみたい。

もしくは、「インスピレーションが訪れた瞬間」がいい。「誰に会いたいですか?」件のアンケートの内容を読んだ時、瞬時に頭の中に浮かんだレオナルド・ダ・ヴィンチが、「モナ・リザ」を描くことを決めた瞬間とか。

「モナ・リザ」のモデルは、フィレンツェの裕福な権力者フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻、リザ夫人と言われている。だが、レオナルド自身の自画像説等「モナ・リザ」のモデルに関しては、諸説入り乱れている。近年行われたコンピューターによるデジタル解析等科学技術を使った調査により「自画像説」の可能性が高まったようだが、それを確定できる決定的な証拠はない。真相は未だ不明だ。

謎に満ちたあの絵画の「真実」にも心惹かれるが、「天才」の名を欲しいままにした彼の発明や芸術等、レオナルドがその度に受けたであろう「閃き」のきっかけやそれによって起こる彼の心身やその場の空気の「変化」を目の当たりにしてみたい。

そこには必ず、「見えないもの」が引き起こす何かが存在する。自分にそれが起こる時、「当時者」としての興奮から、それを冷静に観ることができない。高揚感が邪魔をするのだ。冷静に、冷徹に捉えることができない。

思考を続けている最中にインスピレーションがやって来る時の、あの特有の感覚。首筋から背筋にかけて、ゾクッとしたものが走り、次にみぞおちの辺りがカーッとしてくる。そしてその「熱」が体全体に広がると同時に、体中に力が満ちていくのがわかる。「わー!」という感じで、無性に走り出したくなる。心臓の鼓動が速くなり、脳が大きく膨らんだような感覚を覚える。至福、至高、絶頂―そういったものが一度に押し寄せる。もしくはその波の中に、自分が飛び込んでいくような―。

その瞬間を、「傍観者」の立場で、「観察者」の眼で、一部始終を見届けてみたいのだ。「稀代の天才」にそれが訪れる瞬間を。「天才」と「凡人」のそれは同じなのか、それともまったく異なるものなのか―それを確かめてみたい。

「20世紀最高のヒプノセラピスト」と謳われたミルトン・エリクソンのセッションを見学するのもいい。

医師であり、心理学者でもある彼が行うセッションは、「アンコモンセラピー(uncommon therapy)」と称された。実際、彼のセラピーに関する様々な文献を読むと、まさにそれは「ありふれたものではない特別なもの」だったことがよくわかる。

枠に囚われず、深い知恵と洞察力によって行われたそれを、同じ空間で一日中見学していたいと思う。たとえ何も言われなくても、教えられなくても、「ただ観ているだけ」で十分だと思う。「本物」が、知恵や知識、人間力といった「自分のすべて」を駆使して行うセッションは、多分想像する以上に「雄弁」だと思うから。

クライアントの「変化」は、時にその場の空気まで変えてしまうことがある。そして、それは少なからず施術側のセラピストにも何らかの影響を与える。お互いの、そのある種の「エネルギーの交感」とも言える場面を、あえて「部外者」の視点で観察したら、何か非常に「面白いもの」が発見できるような気がするのだ。

学問とか、医療とか、そういった「括り」といったものを突き抜けた「何か」、でも同時に、そういったものも含んだ「すべて」に深く繋がっている「何か」―エリクソンのセラピーが、「uncommon=特別な」と称された理由は、きっとそこにある。それを自分の眼で確かめることは、きっと心躍る体験に違いない。


私は、「結果」よりも「動機」を重視する人間だ。私にとっては、「終わり」よりも、「始まり」のほうが重要なのだ。今までもそうだったし、多分これからもそうだと思う。自分の中に形作られたそれを信じ、従ってきたが、後悔は一切ない。

「結果」とは、「不確かなもの」でもある。いわば「未来」に属するそれを語る時、「多分」「おそらく」という言葉が絶えずついて回る。今後何に繋がっていくのか、後にどう評価されるのか―行く末を正確に予想することが出来ないもの。場合によっては、自分自身でそれを見届けられないこともある。

だが、「動機」は違う。「始まり」をもたらすそれは、今この瞬間、「現在」に、自分の中に確実に存在している。「多分」「おそらく」といった言葉と共に語られるような茫洋としたものでなく、小さくとも強いきらめきを放つ確かなもの。今この瞬間に自分が感じているもの、見ているもの、聴いているもの―それが、私にとっての「真実」だ。自分が確かにそれを手にしていると実感できるものを、私は信じる。私が信じるのは、「今この瞬間」と「今この瞬間に存在する自分」なのだ。

「何かが始まる時」「始まる前」多くの場合、それらは「結果」よりも軽視される。だが、それが簡単に忘れ去られてしまうような、「ほんの一瞬」のものであったとしても、そこには「強い何か」が確実に存在したのだ。「永劫に続く約束された未来」より、「始まり」が持つきらめき、その刹那が放つ輝きを、私は信じる。

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カテゴリ :Mの心象―あれこれ思うこと・感じること トラックバック(-) コメント(-)
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