FC2ブログ

スポンサーサイト

 --------
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
カテゴリ :スポンサー広告 トラックバック(-) コメント(-)

不毛な論争

 2012-06-06
今年初め、自殺対策強化月間のPR用に内閣府が考案した標語が、世論を賑わせた。今現在大人気の某アイドルグループの名前をもじって名付けられたそれは、当初の「あなたもGKB47宣言!」から「あなたもゲートキーパー宣言!」に変更された。

変更の理由は、国会審議中の答弁及び世論の大半を占めた「深刻で重いテーマを扱っているのに軽過ぎる。不謹慎だ」という意見を受けてのこと。そのアイドルグループを宣伝広告の類に起用することを念頭に置いての、いわば「その人気にあやかること」を前提にしての「あえてのもじり」だったのか、それとも逆に世論の大きさに「開き直った」結果のものなのかはわからないが、イメージキャラクターとして、件のアイドルグループがCMに起用されている。

内閣府が提唱する「ゲートキーパー」とは、「その人が発している自死のサインに気づき、話を聴いて、専門の相談機関に繋ぐ役割を担うことを期待される人」を指す。それを「国民みんなでやりましょう」と呼びかけているわけだ。国を挙げて、大々的に自死防止に取り組もうとするその姿勢は評価したい。だが、率直に言って、この啓蒙運動によって状況が変化する可能性は極めて低いと思う。なぜなら、問題の本質を完全に履き違えているから。この国特有の価値観や思考、民族性といったものを考慮せずに作られたそれは、結局表面的なものでしかない。

「ゲートキーパー」は、いうなればボランティア的なものだ。「強制」「義務」という言葉には敏感且つ従順だが、自主性を求められると途端に腰が引ける人が多いこの国で、果たしてどれくらいの人が自ら進んでその役割を担おうとするのか甚だ疑問だ。

ましてや人の命に関わることだ。「自分には荷が重過ぎて無理」「敷居が高い」となるのは目に見えている。もうその時点で、世の中のほとんどの人が及び腰になる。そして、それは「ふさわしい人がやればいい」「自分がやらなくても誰かがやるだろう」という、この国の人達にありがちな思考へと繋がっていく。

「本音と建前」「事なかれ主義」「よそ様」多くの日本人に見られる思考や感覚の特徴を考えれば、そういったやり方はかえって逆効果だ。良くも悪くも、「特別な役割」を自分が背負わされることを重荷に感じたり、避けたがる人が多いこの国では、任命制度も強制力も何もない、自覚を促すための宣伝に使用された「単なる標語」、いわば便宜上のものだったとしても、「ゲートキーパー」などとわざわざ固有名詞化されたそれに対し、無意識に警戒心を抱く。

人気絶頂のアイドルのグループ名に引っ掛けて、いい意味での「気軽さ」や「親しみやすさ」を狙ったのだろうが、「ボランティア=奇特な人」という意識が根強いこの国では、個人の自主性に訴えようとするやり方はそぐわない。かえって「裏目」に出る可能性が高い。

定義されている「ゲートキーパー」の役割が非常に曖昧であることも気にかかる。「死んでしまったほうが楽だと思う」「生きていくのが辛い」「いつも死ぬことばかり考えてしまう」そういった希死念慮(きしねんりょ)を持つ人に対応するには、細心の注意が必要だ。専門の知識を持った精神科医やカウンセラーでさえ困難を伴うもの。ただ本人の話を聴いていればいいというものではないのだ。話を聴く側が、精神的に引きずられることもある。たとえプロであってもそれは同じだ。

そういった一筋縄ではいかない要素を含む役割を、知識も経験もない一般人、いわば「素人」に丸投げして、果たして本当に大丈夫なのか?と。企業によっては、ゲートキーパー育成のための研修制度を設けているところもあるようだが、わずか数回、数時間の研修で身につけるもので十分な対応が出来るとは到底思えない。下手をすれば、「二次災害」の可能性も起こってくるのだ。政府の見解が安直過ぎるような気がしてならない。


この件を審議していた国会中継を、その日たまたまリアルタイムで見ていた。「軽薄だから変更すべきだ」「遺族の心情を考慮してない」「作成者は誰だ?許可者は誰だ?」等の批判や非難、標語の発案趣旨に始まり、その決定までの経緯説明等が行われていた。

それらの一連のやり取りを最後まで見ていたのだが、自死遺族として、個人として、セラピストとして―どの立場からしても、ただ「不毛」としか思わなかった。「本当にこれで成果が出るのか?」疑問や違和感しか残らないのだ。何というか、そもそもの出発点からして間違っているような気がするのだ。その実体や状況をよく知らない人達が想像力だけで練った政策と現実との「ずれ」というか。

自死防止に全力で取り組んでいる方達の努力や苦労を重々承知の上で、敬意を払った上で、あえて言わせていただくが、本気で自死を考えている人を止める術はない。それは、私自身の経験とこの4年間グリーフケアでお会いした多くの遺族の方達とお話させていただいた中で得た実感だ。

本気で死を覚悟した人というのは、それを決して周囲の人に悟らせない。「そんな気配はまったくなかった」遺された多くの人達は言う。それだけ自死者本人は「本気だった」ということだ。それを止められないように、確実に遂げられるように―本気で死を覚悟した人達が望んでいることはそれなのだ。彼らにとってそれは、唯一自分に残された「希望」であり、「救い」なのだ。いわば「最後の砦」。それを守るために必死になるのだ。自分の目的を悟られないように、全力でそれを隠そうとする。

万が一、周囲の人が何らかの変化に敏感に気づいて、その時は未然に食い止められたとしても、大半の人は別の機会を見つけて目的を遂げる。本人が「本気の覚悟」を捨てない限り、それは時や場所を変えて、必ず起こりうる。そして、それは誰にも止められないのだ。たとえ「ゲートキーパー」が身近にいたとしても、国中総出で防止に取り組んだとしても、だ。

実際、親身になってくれる親族や友人に恵まれた人でさえ、それを悟らせることなく逝っている。決して「自死をする人=希薄な人間関係」にあった人達ではないのだ。あえて身も蓋もない言い方をするが、周囲による防止活動には「限界」があるということだ。

自死遺族のグリーフケアに関わり始めてから特に思うことだが、この国の人々の「自死」というものに対する認識は、20数年前から何も変わっていない。国策の重要課題として取り上げられるようになった現在でも、それは以前と変わらず「遠巻きにされるような類のもの」なのだ。「何か特殊な事情や問題を抱えた人や家庭にしか起こらない事」であり、「タブー視される領域のもの」という思い込みが根強い。

国民に大きな影響を及ぼす立場にあるメディアでさえ、そういう認識なのだ。毎年、国の統計で自死者の数が発表されれば、その時は「一大事!」という姿勢を取るものの、それも一時のもの。数日経てば、見向きもしなくなる。そして翌年、また統計が発表されると、前年とまったく同じ事が繰り返される。

ニュース番組で自死や心中のニュースが流れる度に、解説委員やコメンテーターが「死ぬ勇気があれば生きられたはず。もっと頑張れたはず」という使い古された筋違いの精神論を持ち出して、その話題を締めることがお約束になっていることからもそれは明らか。結局、すべてが上っ面なのだ。自死者本人の精神状態や置かれていた状況に焦点を当てたとしても、そこから先を深く掘り下げようとはしない。

「ゲートキーパー宣言」等の啓蒙運動を通じて国民の意識へ訴えかけるやり方は否定しないが、如何せん時間がかかり過ぎる。それは、この20数年間の様子―自死に対する世間の認識、メディアの取り上げ方等を見ていればわかるはずだ。受け取る側に「所詮他人事」という感覚しかないのであれば、そういった取り組みのすべては無駄に終わる。

「防止」を最優先課題にするのであれば、「死を考えている人」を中心にして考えるべきなのだ。自死者の8割以上が、いわゆる「鬱(状態)」であったということに焦点を当てたほうがいい。調査の結果として、根拠のある数字として報告されているその事実に目を向けようとしないことが不思議で仕方ない。ほぼすべての自死者に共通するその特徴を、なぜ掘り下げようとしないのかと。

国民の意識の変化を促すなどという、いつ結果が出るかもわからない茫洋としたものに期待をかけるより、自死に至る寸前の段階、その心身の状態―「鬱病(状態)」を改善する手段を講じるほうが、現実的なのではないかと思うのだ。

この国では、鬱病に対する誤解や偏見が蔓延している。「心の弱い人や真面目な性格の人がなる病気」「気の持ちようでなんとかなるもの」と思い込んでいる人が大半を占める。

その言葉がいつ使われ始めたのかは不明だが、鬱病は、「心の風邪」とも称される。「誰でも罹る可能性のある病気」「決して特殊ではない病気」という意味合いで、「風邪」という言葉が当てはめられているのだが、意図に反して、あらぬ誤解を招いているのだ。「風邪?だったら病院に行かなくてもそのうち治るだろう」という思い込みを人々に与えてしまっているのだ。そして、その思い込みが、無知の状態が、いつのまにか「本当のこと」として変換され、人々の意識に定着してしまっている。

鬱病というのは、セロトニンやノルアドレナリンといった脳内神経伝達物質の減少や機能の低下によって引き起こされると考えられている。いわば、「脳の病気」「体の病気」なのだ。決して「気の持ちよう」でなんとかなるようなものではない。投薬等適切な治療が必要とされる、れっきとした「体の病気」なのだ。

「心の弱い人がなる病気」「放っておいてもそのうち治るもの」等という鬱病にまつわる様々な誤解を正すことから始めたほうがいい。先日、知り合いの心療内科のドクターが言っていたが、最近健康番組等で鬱病が取り上げられることが増えてきたせいか、鬱病の症状を訴えて受診する人が増えたとか。一様に、「今までは気持ち的なものだと思っていたんですが、体の病気だと知って診察してもらおうと思ったんです」と。

心療内科や精神科を受診することが、長い間「恥」「怖いこと」「忌むべきこと」とされてきたこの国では、そのことに対し、いまだに強い抵抗感を覚える人が少なくない。「鬱病は体・脳の病気であること」「鬱病が心と体にどんな症状をもたらすのか」等といった正確な情報を与えることによって、自死を覚悟する人が必ず通る段階でもある「鬱病(状態)」に対する認識を高めるほうがいいのではないかと。

自死というもの・それに伴う心身の状態、そういった事態に繋がる可能性のある主な疾患と症状、心と体の深い関係性、心療内科や精神科が担う役割、誤解や偏見の是正等年齢に応じた内容で行う学校での教育、入社時の研修内容に必須項目として取り入れる等「義務化」して周知徹底させるとか。

心身の不調を感じている本人やそれに気づいた周囲の人が、「病院に行ってみよう」「病院で診てもらったら?」と抵抗なく思えたり言えたりする環境作りが最優先課題だと思うのだ。それが「当たり前のこと」「自然なこと」という意識が定着した時、初めて「防止」に結びつくのだ。多分そういったことが、自死者の数に反映される。

わざわざ国家予算を使って、人気アイドル達にただキャッチフレーズを言わせるだけの、わずか十数秒程度の訳のわからないCMを流すより、よっぽど確実で効果があると思うのだが。肝心なものが伝わらないCMなど、一体何の役に立つのかと。件のそのCMを、私は今日まで一度しか見たことがない。

そもそも「ゲートキーパー」という言葉自体、まったく世の中に浸透していない状態なのだ。例の騒動で、ようやく知ったという人がほとんど。そしてその後、現在も、その制度に関心を持つ人はほとんどいない。「あー、この前なんか騒いでたやつね。でもあれってどういうこと?いまいちよくわからないんだけど」その程度だ。時間も予算も使って、あれだけ大騒ぎした挙げ句がこの状態。結局あの騒動は何だったのかと。軸の外れた政策や20数年間変わらない世の中の認識―今まで個人の関心度や自主性任せにしてきた結果がこれなのだ。

本気で社会全体で自死防止に取り組むのであれば、一層のこと、自死やそれと関連性が深い疾患等について学ぶことを「義務化」したほうが確実だ。人間は、物事を見たいように見て、見たいものだけを見て、思いたいように思う生き物だ。元来、「トップダウン方式」「長い物には巻かれよ方式」に慣れているこの国の人達には、「押しつける」くらいの強引なやり方で丁度いいのかもしれない。それぞれの個人の自主性への期待やそれを重んじることは大事だが、時と場合によっては、「スパルタ式」が必要なこともある。

何よりも、真実と実状を知らない人が世の中の大部分を占める今の状態では、自主性云々の話ではないのだ。それは「土壌」が完成してからの話。荒れて雑草だらけの土地に種を撒いても、芽は出ない。政府はいい加減そこに気づけよと。だからいつまでたってもこの問題は、「他人事」と「偏見」の域を出ることがないのだ。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタ 樫田ミラに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を、無断でそのまま用いる方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

■関連記事

自死遺族グリーフケアの会発足のお知らせ

「あの人」が逝った理由

沈黙の悲しみ(1)その衝撃

沈黙の悲しみ(2)それぞれの孤独

沈黙の悲しみ(3)偏見

沈黙の悲しみ(4)流説と虚妄の害

沈黙の悲しみ(5)不幸につけこむ人々

沈黙の悲しみ(6)あなたは悪くない

沈黙の悲しみ(7)遺族が受ける傷

清水由貴子さんの死について思うこと


カテゴリ :自死遺族としての声 トラックバック(-) コメント(-)
≪ トップページへこのページの先頭へ  ≫
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。