FC2ブログ

スポンサーサイト

 --------
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
カテゴリ :スポンサー広告 トラックバック(-) コメント(-)

マイノリティー・レポート

 2012-05-06
「あの人、変わってるよね」日常でよく聞く言葉。その「変わってる」は、良い意味でのものなのか、それとも悪い意味でのものなのかは、話し手の表情や口ぶりから判断するしかない。だが、多くの場合、それは話し手の感情論でしかない。そこに明確な道理や理屈はない。思考や行動、外見等相手を目の前にした時にどう感じたか―という、いわば「感想」なのだ。

セラピストの仕事に就いて以来、「変わっている」という言葉を怖がる人が多いことに驚いている。「人がどう思うかを考えたら怖くて・・・。変な人って思われたら嫌なんです」その言葉が自分に向けられることがないよう戦々恐々としている。言いたい事ややりたい事があるにもかかわらず、人の目を恐れる余り何もしない。フラストレーションを抱え、ただ悶々としている状態。一般の多くの人々と同様の程度や状態であること、「人並み」という言葉とその概念が「基準」となり、至るところで幅を利かせている社会ならではの悩み。

多くの場合、この国では、「変わってる」ということは、「=変(へん)」を意味する。「異常」「奇妙」というネガティブなニュアンスで使われることが圧倒的に多いから。誰かから「変わってるね」と言われれば、それは自分がその場所にふさわしくない排除されるべき「異物」「異端」の存在であること、ある種の「マイノリティー」のレッテルを貼られたも同然のことになる。

「変わった人」この言葉を耳にする度に思う。そもそも、何を以って「変わっている」というのだろうか?と。正確には、「違っている」「違った人」なのだ。何と?誰と?勿論「自分と」だ。人間は、常に「自分」を基準にする。あくまでも「正常」なのは自分であり、自分こそが「標準」なのだ。自分と比べてどうなのか―結局終始するのはその部分。

言ってみれば、人間にとって、「自分以外の人間は、全部変でおかしい」のだ。親兄弟であってもそれは同じ。「自分以外のすべての人=変わった人」になる。反面、相手からしてみれば、自分のほうこそが「変わった人」なのだ。まあそれはお互い様というところ。

他者との、何かとの「違い」というものに対して、この国の人々は独特の感覚を持っている。思考や行動、好み等自分が大多数の人のそれと違うことに強い恐怖や不安を抱く反面、突出した存在になることにも憧れる。「違った人」を羨みながら、それに反発する。「変わっている」という微妙なニュアンスを持つ言葉で、その相反する思いを表現する。憧れ、羨望、嫉妬、非難、侮蔑―この国では、「変わっている」は、忌み言葉でもあり、褒め言葉でもあるのだ。

20代の頃在住していたアメリカは、「個性を重視する国」だった。日本とは正反対の、いかに自分をアピールするかという文化。学校や職場でも、「人と違うこと」が求められる。誰かや何かの「コピー」「受け売り」ではなく、いろいろな面で「ユニーク」であること―思考や行動を含め、その人自身の「核」から出た独自の「何か」がそこにあることが重要なのだ。幼いうちから、「人と違う点=自分の個性」を見つけ、それを大切に扱うことを教えられる。同時に、自分以外の人達のそれを尊重することも。

「違っている」がポジティブに捉えられ、歓迎される文化なので、それに関する褒め言葉や表現には事欠かない。「人と違って当たり前」なので、日本のように「人と違うこと」が、即「マイナス要素」「好ましくないもの」と結びつけられることはない。たとえその人の「違い」が自分にとって受け入れ難いものでも、理解し難いとわかっているとしても、その人がそこに至るまでに辿った「プロセス」を知ろうと試みる姿勢がある。

少なくとも、日本のように、現在表面に出ている部分をちらっと見ただけで、「変わっている」の一語で片付けて、後は遠巻きにヒソヒソコソコソ言いながら見ているだけ―ということはない。「なぜあなたはそう思うのか?なぜそうするのか?」と必ず問われる。

「出る杭は打たれる」「多勢に無勢」の感があるこの国で、「マイノリティー」になることを躊躇する気持ちはわからないでもない。だが、「変な人」と思われるのが嫌なばかりに、自分の気持ちや思考を曲げたり諦めたりするのはちょっと違うんじゃないの?と。「個性的と言われる人になりたい」「飛び抜けた存在になりたい」と言うのなら、人の目を気にしてる場合じゃない。「どっちもほしい」は通用しない。ほしい物を手に入れたいなら、それに伴うリスクを背負う覚悟も必要になる。

どうせ「自分以外はみんな変でおかしい」のだ。だったらいいじゃん。腹をくくれば?「結果」を思いわずらうよりも、「動機」を優先させたら?と。「違った人」になりたいのなら、「変人上等!奇人上等!」と自分から開き直ってやればいいのだ。他人が勝手に設けた「基準」に自分を合わせようと右往左往して、挙げ句に疲労困憊して―あなたは一体何がしたいんですか?何がほしいんですか?と。「他人から見た自分」を知ることも大事だが、それは「=気にする」「気に病む」ということではないのだ。

「でも日本にいる限り、やっぱりそれは難しい」と言う人は、多分どこの国に住もうが、今とまったく同じことを言っているはずだ。そんな今の自分の状態を作った原因を「環境」のせいにしているうちは、何も変わらない。「原因は自分」でしょ?と。マジョリティーのグループから外れて孤立することを恐れて、その場に留まっていることを選んでいるのは、他ならぬ自分自身なのだから。

「変わった人」と呼ばれる側の人間からしてみれば、そちら側の人達のほうが、よっぽど不思議で変わっている。自分の思考や感情より、自分以外の人達のそれを優先させることを選ぶなんて、一体誰のための、何のための人生なのかと。

「変な人」と呼ばれることが「不幸」なのではない。そういった曖昧な言葉に囚われていることが「不幸」なのだ。そして、最大の不幸は、そうやって不安定な他人の価値観や感情に迎合して、どんどん自分の核を切り捨てていった挙げ句、最後に残ったものは虚しさと後悔だけだった―という状態に陥ることだ。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。モラルを守ってくださるようお願い致します。

■関連記事

「普通」の定義

肩書き

あとだしの国

スモールワールド

鎖国

解けない洗脳

自由と覚悟

嫌われる勇気

求めよさらば与えられん

あれこれ考える前に

ショックの真相

【お願い】ここ最近、メールで悩み事の相談等を送ってこられる方が増えています。中には、「セラピストやカウンセラーの仕事に就いている者は、何をおいても絶対に世の為、人の為に奉仕しなければならない」というお考えの方もいるようで、返事を「強要」「催促」される方もいらっしゃいます。

カウンセリングは、原則として「五感」を使って行うものです。いくら詳細に述べてあったとしても、文章だけでは限界がありますし、当然こちらの対応にも限りがあります。結果として「不誠実」になるという思いから、メールやFAX、電話での相談事の受付及び回答は一切行っておりませんので、その旨ご理解ください。お近くの、直接対面のカウンセリング機関等をご利用になることをお勧め致します。*記事に対するご意見・ご感想は、今まで通り歓迎します。


カテゴリ :三位一体―心と体と魂の話 トラックバック(-) コメント(-)
≪ トップページへこのページの先頭へ  ≫
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。