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象を撫でる

 2012-05-03
【群盲象を撫でる(ぐんもうぞうをなでる)】多くの盲人が象を撫でて、それぞれ自分の手に触れた部分だけで巨大な象を評するように、凡人が大事業や大人物を批評しても、単にその一部分にとどまって全体を見渡すことができないことをいう。「群盲象を評す」(広辞苑より)

「すべてやり尽くしたので、これからは自分のためでなく、家族や周りの人達のために生きていこうと思うんです」「やりたいことが見つからないんです。ほとんどのものには手を出してきたんですけど」時々、こんなことを言う人達がいる。だが、そういった言葉を聞く度に思う。「ちょっと待った」と。

「すべて」「ほとんど」「やり尽くした」彼らは簡単に口にするが、実際のところは、「自分が満足する範囲の程度で」なのだ。「その人が今までいた世界の中に限っての―」ということ。そもそも、何を以って「すべて」「ほとんど」と見なすのか?「やり尽くした」とはどの程度を指すのか?ということになる。

結局、「自己申告レベル」「自己満足レベル」のものなのだ。「もうやれることは何も残っていない」と思っているのは、本人だけだったりする。「思い込み」と言ってもいい。

生き方を含め人生に関わることについて、「すべて」「ほとんど」「やり尽くした」と言う人ほど、実は限られた視点からでしかそれを見ていない。それにまつわる体験も、実は非常に乏しいものだったりする。そうでなければ、こういった言葉は出てこない。それは、本人の決めつけから出たものであって、実状からのものではないのだ。


「見るべき程の事は見つ。今は何をか期(ご)すべき」平家一門の栄華と没落・滅亡を描いた「平家物語」の中にある一節だ。平清盛の四男で、「平家屈指の知将」と謳われた平知盛の言葉。「我らが平家一門の行く末、見届けることはもうすべて見届けた。この後何を期待することがあろうか」源平最後の合戦の地である壇ノ浦の戦いでの勇戦後、知盛はこう言って入水(自害)する。

平均寿命が30歳位だったと言われるその時代、33歳の知盛は人生の最晩年期だったと言える。現代のように科学も医学も文明も発展しておらず、海を渡った先には、肌や目や髪の色が違う人々が暮らす国が数え切れないほど存在することさえ考えつかないような、人間の生き方が非常に限られていたその時代において、多分彼の言葉は真実だったのだと思う。「見るべき程のことは見つ」そういった時代に生きた人の言葉だからこそ、重みを持って響くのだ。

今現在、科学や医学の進歩に伴い寿命も延び、文明も発展の一途を辿っている。それを良しとする向きもあるが、その分「長く退屈な時間」も増えることになる。人間は、それをやり過ごす方法、「暇つぶし」を見つけることが必要になったのだ。

800年前には、ごく当たり前の日常―労働や育児、家事等、人間の生活の最低限度の要素をこなすだけで慌しく過ぎていった日々や人生が、今や大きく様変わりしている。スイッチ一つでお湯が沸いたり電気が点いたりする便利な生活。表立った身分制度もなく、自由に職業を選択でき、国内外問わず好きな場所を行き来できる。世界中の情報が瞬時に手に入り、内戦や紛争等もなく、日常深刻な生命の危険に晒されることもない。

生き方が多様化し、それが許されている今、この国の人々は飽き飽きしているのだ。「自由」や「選択肢」が多過ぎて、逆にそれをもてあましている状態。それを扱いあぐねている。人間というものは勝手なもので、制限があれば「自由がほしい」と言い、逆に身に余るくらいのそれを与えられると、「どうしていいかわからない」と困惑する。

「家族のために」「世の中のために」「地球のために」今後、自分以外の誰かや何かのために生きると口にする人達というのは、その「無制限の自由」に疲れているのだ。ある種の「燃え尽き症候群」。だが、本人達にその自覚はない。自分以外の誰かや何かに対して「生きる動機・口実」を見出さなければ、「間(ま)」が持たない状態に自分があることに。

その人達に共通しているのは、非常に狭く小さい枠の中に生きているということだ。自ら「根拠のない限界や制限」を設ける人達。自分だけにしか通用しないルールや常識に囚われ、融通が利かない。悪い意味で、諦めが早く、決めつけも強い。多角的に物事を観ることが苦手でもある。その表れが、「誰かの為に」「何かのために」という言葉なのだ。

現代の「退屈している人達」が言う「見るべき程の事は見つ」は、「極めた」という意味ではない。It's not all but a part of it―彼らが「見たもの」は、その中の「ごく一部」でしかない。「すべて」「ほとんど」「やり尽くした」あくまでも、「限られた範囲内での」という前置きが付く。実際は、「ほんの少し覗き見た」「表面だけ齧った」「一例だけを知っている」という程度。

喩えて言うなら、たかだか2~3種類の業種での数年間の職歴、せいぜい数日から数ヶ月程度の駆け足で主だった観光地を巡る海外旅行、家と職場とその周辺内の人間関係だけで、社会や世界、人間というものを知り尽くした気になっているようなものだ。

平均寿命80年、地球上には約70億の人間がいるこの時代、「見るべき程の事は見つ」としたり顔で言うには早過ぎる。見たいものだけ見、見たいようにしか見ない彼らは知らないのだ。自分達の「勘違い」に。自分が「見た気」「知った気」になっているだけだということを。

この世界は、「未だ見ぬもの」で溢れている。「すべて見尽くした」いとも容易くそう言い切るのは、多分彼らが「見るべきもの」さえ見ていないからなのだ。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。モラルを守ってくださるようお願い致します。

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