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あとだしの国

 2011-05-19
この国の人達のコミュニケーションの取り方は独特だ。じゃんけんをする時、相手よりも遅れて手を出す―俗に言う「後出しじゃんけん」とよく似ている。相手の出方を見てから自分の出方、態度を決めるというこのやり方、私はこの国に生まれ育った人間だが、これが非常に面倒くさい。というより、まったく性に合わない。

戸の隙間からこっそり相手の様子を伺って、無害な相手だとある程度確信してから外に出て行く。そしてまた、そこで慎重且つ無難なやり取りがあって、お互いの腹の底を探って―と、非常にまどろっこしい。「向こうがここまで見せてくれたから」と自分も同じ程度のものを見せる。延々とそれの繰り返し。「あーもう!ちゃっちゃっといこうよ!ちゃっちゃとさぁ!」と思う。

多くの人は、それを「慎重さ」「大人の振る舞い」などと呼びたがるが、単に臆病なだけ。未知との出会いで、自分が損をしたり痛い目に遭うのが怖いのだ。「よく知らない人は怖い」そう言う人がいるが、何言ってんだよと。それはお互い様でしょ、なのだ。自分が怖けりゃ相手も同じくらい怖くて不安に決まっている。結局自己中心的なのだ。自分のことしか考えていない。

「怖いし不安だから、まずは様子を見て・・・」そう言って、後出しじゃんけん方式に固執する人ほど、「本当に心を開いて話せる友達がいない」などと嘆く。当たり前ではないか。「心を閉じた人間に、誰が心を開きますか?」と。

なんというか、ある意味ずるいやり方だと思うのだ。自分からは何もアクションを起こさず、相手にばかりそれを求めるのは。何かと物騒な今の時代、自分の身を守るために慎重になるのはわかる。だが、友人や恋人等新しい人間関係を築く時というのは、自分から扉を開かなければ何も始まらない。


「自分が痛い目に遭ったり損をするのは嫌だけど、気の置けない付き合いが出来る友達がほしい」今の世の中、こんなことを言う人が結構いる。「人付き合いは煩わしい。でも孤独は嫌」とか。何虫のいいこと言ってんだ、と。両極端のものを同時に欲しがるとか、自分がどれだけ矛盾したことを言っているかという自覚もないようなのだ。

それを自分と相手、双方でやっているものだから、一向に埒が明かない。ちょっとだけ開けた戸の隙間から、「早く向こうから出てきてくれないかな」とお互いをチラ見している。そんなことやっているヒマがあったら、さっさと自分が出て行けよ!なのだ。「友達になりたいって思ってるんだから察してよ。そっちから来てよ」大人から子供までがこんな調子の「一億総ヒトミシラー状態」、それで大丈夫か?と。

こんなことを言うと、「ここは日本だ!」などと言い出す人が必ずいるが、そうやって開き直れる時代は終わったのだ。「以心伝心」「察する」「汲み取る」日本人は、何かとこれらの言葉や概念を人間関係に持ち出してくる。だが、その言葉が日本で通用したのは、戦後間もなくの頃までだ。

かつて、日本には階級制度が存在した。皇族や貴族、士族等の特権階級と平民―それぞれ「住む世界」が決まっていた時代だからこそ、「以心伝心」「察する」という言葉は有効だったのだ。自分が所属している階級以外の人間との接点はほとんどなく、付き合いがあるのは同じ階級の人間ばかり。当然似たような価値観や思考を持った人間ばかりが集まることになる。何も言わずとも、お互いの胸の内を読み取ることは簡単だったのだ。

だが、戦後に階級制度が廃止され、すべての国民が「平等」になった今、思考も価値観も多様化した。「その身分特有の」というものがなくなり、文明も進み、ネットや電話で瞬時に世界と繋がれるようになった今、「以心伝心」「察する」などという言葉は通用しない。「語り合うこと」「開示すること」が必要とされる時代なのだ。ただ待つだけの「受け身」の時代は終わったのだ。

「阿吽の呼吸」も「察する」ということも、さんざん語り合った末に初めて出てくるもの。ひたすら相手の出方を待ち続けるやり方が通用する国を、私は日本以外知らない。

世界の国々の多くは、そんな特殊なコミュニケーションスタイルが「普通」になっているこの国を、「理解しがたい奇妙な国」と見ている。なかなか腹の内を見せない。打ち解けない。ぶつかり合うことを極端に嫌う。その場では何も言わないのに、後で不満を口にする―本来のコミュニケーションの定義から大きく外れた人々を扱いあぐねている。

そうして貼られたのが、「日本人はコミュニケーション下手」というレッテルなのだ。ある意味、日本は「マイノリティー」なのだ。コミュニケーションに関しては。そして、そのことを日本人が自覚する必要がある時期に来ている。


文化や民族性の違いと言ってしまえばそれまでだが、特に初対面の時、大抵の日本人は、相手の表情を確かめてから自分の表情を作る傾向がある。相手が笑顔だったら、自分も笑顔になるとか。どうしても表情が一拍遅れてしまうのだ。無表情の瞬間が必ずある。タイムラグというか、奇妙な間(ま)が存在する。

同じ日本人の私がそう感じるのだから、外国の人だったら尚更だと思う。どうして自分主導で行動できないのかな、と思うのだ。「あなたに会えて嬉しいです」相手への好意を示したいのなら、躊躇わずに、それを表せばいいのだ。そういう部分さえ、相手の出方を見てから―というのは、既にその時点で「コミュニケーション」とは言えないのだ。

既に日本語化したと言える「コミュニケーション」という言葉、そもそもの原義は、「他人と共有する」ということだ。コミュニケーションギャップというのは、情報の不足から生まれる。自分はどんな人間なのかということに始まり、自分の感情や思考を相手に示すこと―「自分に関する情報」を相手に与えないことから発生するのだ。

例えば、人と話すことが苦手なら、それをまず相手に伝えることが必要なのだ。何かとええかっこしいの日本人は、「いやー、私実はものすごい人見知りでして」などと初対面の相手に言うことはまずない。だが、あえてそれをするのだ。自分が人見知りをする人間であるということを相手に最初に伝えておけば、その後会話が途切れて多少気詰まりな瞬間があっても、相手は納得してくれる。何よりも、それをすることで自分が楽になる。

自分がどんな人間なのか、どんな思考をして、今どう思っているのか、好きなものや嫌いなものは何なのか―それを相手に知らせることが、「自分をオープンにする」ということなのだ。相も変わらずクローズした状態で、「見たらわかるでしょ」とばかりに、相手が察してくれるのを当然のように待っているだけの日本人のやり方は、不親切極まりないものなのだ。

「私ってこういう人だから。それでもよかったらよろしくね~」最初に自分を開示して、相手がそれに対してどう反応するのかはわからない。だが、所詮人間関係なんて、「人には添ってみよ。馬には乗ってみよ」のいちかばちかの領域だ。実際に付き合いが始まってみなければ、本当のところはわからない。仲良くなれたらそれでいいし、ダメだったとしても、それはそれでいいんじゃね?と。

ただ「自分からオープン方式」の人間から言わせてもらえば、そのほうがいろいろと話は早いよ、と。恐る恐る腹の探り合いをしながらおっかなびっくり進んでいく関係なんて、いつまで経っても表面だけの付き合いの域から抜け出せない。ぐちゃぐちゃうじうじやっているヒマがあったら、その分他のことをしたほうがいい。

ここは一発、堂々と先にこちらの手の内を見せちゃえば?と。「相手は自分の鏡」と言うのなら、自分の態度が相手にも反映されるはず。しちめんどくさいことは抜きにして、お互い最初からガチンコでいけばいいのだ。

時代が変われば、人も考え方も変わる。古くからのやり方を尊重するということは、それにしがみつくということではないのだ。自己保身のための執着は、結局何も生み出さない。



【追記】「そんなの無理!」と思うヒトミシラーさんは、今までそれをやったことがないから怖いだけかと。未知の世界に踏み出す時は、誰だって不安だし怖い。でも、せめてそれを試してから「やっぱり無理」って言ってほしいかも。何でもやってみなくちゃわからない。意外と簡単にいっちゃうかもよ?

小学校2年生くらいまで「超」がつくほどのヒトミシラーで、今はセラピストなんていう「接客業」に就いて、日本人だろうが外国人だろうが、初対面だろうが、どんな相手とでも平気で話す人間が言うんだから、結構信憑性あると思いますけどね。ま、どうするかはそれぞれの自由です。




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