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セイレーン

 2011-04-07
スピリチュアル教と自己啓発教に共通する教義に、「頑張らなくていい」というものがある。「今のままのあなたでいいのです」とか。この際はっきり言わせてもらうが、「何言ってんだ」と。そう言う信者達を何人も見てきたが、結局は「口実」なのだ。不甲斐ない自分や周囲に認めてもらえない自分を肯定するための、「頑張らない自分」を正当化するための詭弁。

本人達にしてみれば、願ったり叶ったりだ。正々堂々と開き直れる口実が出来たのだから。そして教義を鵜呑みにして、怠惰な道をそのままダラダラと歩んでいく。「頑張らなくてもいいんだ」「このままでいいんだ」と、ひたすら自分に言い聞かせながら。

それは、ある種の「自己暗示」だ。体のいい言い訳として繰り返し利用することで、自分自身をその状態に導いていく。暗示というものは、本人が望まなければ効力を発揮しない。相も変わらず延々とその言葉を唱え続けるのは、彼ら自身が「がんばりたくない」「変わりたくない」「変わらなくても構わない」と無意識の部分で望んでいるからだ。

人間は、「主観」の生き物だ。物事や人を、自分が見たいように見て、聞きたいように聞く。だが、それを割り引いたとしても、「頑張らなくても云々」を言い訳にする人達は、到底「頑張っている」とは言えない状態にあることが多い。彼らが頑張るのは、「言い訳」をすることなのだ。如何にして自分を正当化するか―力を注ぐのは、自己弁護に対してだけ。

中途半端な力しか出さない割には、諦めが早い。「今やるべきこと」さえ疎かにしているのにもかかわらず、「こんな自分になったのは、周りが理解してくれないからだ」「環境が悪いせいだ」と責任を外部に押し付ける。本人が「努力」と言い張るものが長年報われないことや、「変われない自分」に対しても、いい加減嫌気が差してきている。「頑張ること」に疲弊しているのだ。

そう感じる時期が長ければ長いほど、機会が多ければ多いほど、「出口」への渇望は強くなる。そこに降って沸いたのが、「頑張らなくていい」「今のままでいい」という教義なのだ。否定されることに慣れてきた彼らには、それはまさに「啓示」なのだ。初めて自分を肯定された高揚感に、一気にその世界にのめり込んでいく。

そして、彼らは自分達の世界を更に拡大しようとする。「頑張らなくていい世界」を。誰彼構わず、「頑張っている人」に近づいては、同じ世界に引きずり込もうとする。「頑張らなくてもいいじゃない。今のあなたで十分じゃない」耳元で優しく囁き続けるのだ。一緒に「居場所」を完成させる「仲間」を、一人でも多く増やすために。

「もういいじゃん。一緒に楽しく楽にやろうよ。ね?」相手をその位置から引きずり落とし、自分と同列に並べようとする。だが、「頑張っている人」には、自分が頑張っているという自覚がない。「そんなに頑張らなくてもいいんじゃない?」「頑張り過ぎないでね」誰かにそう言われたとしても、「は?特に頑張っているつもりはないけど?」と本人達は一様に怪訝そうな顔をする。

第三者からすると「頑張っている」ように見えるその状態は、彼らにとっては「普通」「当たり前のこと」なのだ。なぜなら、彼らは「今の自分がやるべきこと」に、自分が持てる力をすべて注ぎ込んで、真剣にそれに取り組んでいるだけなのだから。周囲の目に映る姿とは裏腹に、本人達の内面は、至って淡々としている。

スピリチュアル教と自己啓発教の信者達が、いくら「頑張らなくてもいいですよ。今のままのあなたでいいんですよ」と耳元で囁き続けたとしても、「頑張る人」は意に介さない。人間の女性の上半身、鳥の下半身と翼を持ち、その歌声を聴いた者を死に至らしめるという美しい声を持つ三姉妹の海の怪物、セイレーンに惑わされなかったギリシャ神話の英雄、オデュッセウスのように。

スピリチュアルと自己啓発業界に巣食う現代のセイレーン達も、虎視眈々と狙っているのだ。船を難破させ、遭難者を出すことを。隙あらば、その甘い歌声で、自分達の世界に誰かを引きずり込もうとしている。その声に耳を傾けたら彼らの思う壺。歌声に魅せられて命を落とした者と同様、累々と積み重ねられた屍の一部となる。

同志、共犯、道連れ―「頑張らない人」は、常にそれを求めている。今自分がいる世界が広がれば、ますます生きやすくなるからだ。「頑張らないこと」「変わらないこと」が当たり前のことになれば、もう言い訳をしなくてもいいのだから。正々堂々、努力を放棄することができる。だから彼らは歌うのだ。「頑張らなくてもいい。そのままでいい」と。

ギリシャ神話の中では、その美しい歌声に惑わされなかった者が現れた時、セイレーンは死ぬ運命にある。歌を聴いた者すべてを虜にしてきたことを自慢に思っていた彼女達は、「例外」だったオデュッセウスにプライドを打ち砕かれ、海にその身を投げたのだ。

「頑張る人」を自分のほうに振り向かせたいのなら、彼らと同等、もしくはそれ以上に「頑張る人」でなければならない。のんべんだらりと中途半端に過ごしている人間から、「頑張り過ぎじゃない?」と言われても、まったく説得力がない。どこが頑張り過ぎだと思うのか、なぜ「そのままのあなたでいい」と思うのか―少なくとも、その部分を明確に説明できなければ、彼らは決して納得しない。聞く耳を持つ以前の問題なのだ。

「頑張らなくていい」「今のままのあなたでいい」その言葉は、物事に全力で取り組んで、「もうやれることは何一つない。出来ることはすべてやり尽くした」と息も絶え絶えになっている状態の人に言うものだ。そして、その言葉をかけられるのは、その人と同様、「頑張る人」だけなのだ。

自分の進む道を知る者は、どんな声にも惑わされたりはしない。彼らが聴く声、信じる声は、自分の心の声だけだ。誰かの声に、自分を簡単に明け渡したりはしない。自分の心の声を信じる者だけが、セイレーンの呪いに打ち勝つことが出来るのだ。




【追記】「セイレーン」は、警報や信号を表す言葉、「サイレン」の語源になっている。その怠惰で甘い囁きは、ダークサイドに引き摺りこまれることに対する「注意信号」なのだ。昔から言われている。「悪魔の姿をした悪魔はいない」と。表面は甘く優しく―そういった存在は、羊の皮をかぶって近づいてくる。



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カテゴリ :はい論破!スピリチュアルと自己啓発の矛盾とからくり トラックバック(-) コメント(-)
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