FC2ブログ

スポンサーサイト

 --------
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
カテゴリ :スポンサー広告 トラックバック(-) コメント(-)

セレブ論

 2008-10-17
「セレブ」という言葉が浸透し始めたのは、ここ10年くらいだろうか。

女性誌を始め、テレビ番組等でも「セレブ特集」と銘打った企画をよく目にする。
「セレブのお宅拝見」「セレブ御用達」「「セレブな○○」「セレブの○○」―。

「セレブ」という言葉は、英語の「セレブリティ(Celebrity)=有名人、著名人、名士」の略語。
欧米では、「メディア等に登場することの多い有名人」という意味で使われる。

その定義は、「rich and famous=金持ちで有名」。

各国の王族、芸術家、大富豪、政治家、プロスポーツ選手、俳優、スーパーモデル、ミュージシャン等が該当する。故ダイアナ元イギリス王室妃、マイクロソフト社の創業者ビル・ゲイツなどは、その典型的な例だ。

例えば、10歳の子供から80歳のお年寄りまでの幅広い世代のほとんどが「知っている」と答える人―それが「セレブ」。

しかし日本では、「rich and famous」の「rich=金持ち」の部分だけが強調され、「高級」「優雅」「ゴージャス」「裕福」というニュアンスで使われている。

大体雑誌やテレビの「セレブ特集」に登場する「セレブ」は、「あなた誰?」という人がほとんど。
確かに見るからに裕福でゴージャスな生活をしていらっしゃるが、いわゆる「一般人」。

子供から大人まで、日本国民の多くが「知っている」と答える「全国区レベル」の知名度ではない。
はっきり言って、「地元・業界の有名人」の域。

「成城で歯科医院を経営、ポルシェを3台所有するサイトウさん」「銀座にビルを複数所持して、親の代から買い物はデパートの外商というスズキさん」「外科医のご主人を持ち、プール・ジャグジー付きの8LDKの自宅に住み、週2回高級エステに通い、週末は家族で軽井沢の別荘で過ごす渋谷区のコバヤシさん」はセレブとは呼ばない。それは「ただのお金持ち」。


人の「品格」というものは、所持品や財産、社会的地位と、必ずしも比例するものではない。
「清貧」ということではなく、そういった目に見える分かりやすい「条件」が一切無くなった時、「素」のその人、「ただの人間」という存在になった時、それは表れると思う。

上品に振舞うこと―上品な振りをすることは誰でもできる。

過去に起こった詐欺事件の犯人等がいい例だと思う。元皇族の名を騙った者、名門一族の一員だとすっかり周りを信じ込ませた者・・・その言葉遣いや振る舞いに、周囲は完全に騙された。被害に遭った人達は、口々に同様のことを言う。「てっきりそうに違いないとばかり・・・」

その犯人達は知っていたのだと思う。本来の自分に「欠けているもの」を。

身に備わっていないものを、身につけるのは簡単だ。「ただ勉強すればいいだけ」だから。
勉強すればしただけ「知識」は増えていく。

それと同様に、自分に上品さが欠けていると思えば、「どうしたら上品に見えるのか、上品な人達はどんなことをするのか」―それを学んでいったら、見せかけの、上辺だけの上品さは身につく。真似して、「演技」をしたらいいだけだから。

しかし「本当の上品さ、品格」というものは、実はここからだ。
もともとそれが備わっている人は、「応用」が利く。

そうでない人―インスタントに身につけただけの人は、それができない。「どうしたら上品に見せることができるのか」―その「知識をただ持っているだけ」だから、それをどう使ったらいいか分からない。自分が意識している間は問題ない。しかし、無意識の中や咄嗟の時に、生来のものが出てしまう。

「知識」を活用したものが「智恵」になる。その「活用する」という部分が、その人達にはない。
なぜならそれは、インスタントで身につくものではないから。ただの「コピー」の域を出ない。

例えばそれは、「本物」と「よくできた贋物」くらいの差がある。
よく路上で海外有名ブランドのコピー商品を売っているのを見かけるが、一見そうと分からないほど精巧に作ってはあるのだが、何となく違和感を覚える―それと同じこと。

その「なんとなく違う」という部分―その人自身が全体から放っているもの、「生来のもの」と合致しない時に生じる違和感に、それは表れる。

「本物」は、すべてが調和している。
いくらカジュアルな格好をしていたとしても、乱暴な言葉遣いをしたとしても、それらはその調和を乱すことはない。むしろ、一層の魅力をかき立てるというか、その中にさえ「品格」を見い出すことができる。しかし「贋物」は違う。下品なことをすれば下品にしか見えない。


6~7年前だったと思うが、テレビ番組の中で、セレブ限定のお見合いパーティーに、ある女性タレントが変装し、隠しカメラを仕込んで潜入取材するということをやっていた。

「セレブ限定」というだけあって、男性の出席者は全員、職業・年収等の厳しい条件をクリアした人達だった。医師、弁護士、会社経営者等、玉の輿を狙う女性だったら飛びつきたくなるような条件を兼ね備えた、いわゆる「3高」揃い。女性参加者も同様で、やはりそういったレベルの人達が集まっていた。

いわゆる、世間では「いいとこの人」と評されるタイプの人達が一堂に会した様子は、なかなか興味深いものがあった。

が、しかし、その実情はすごかった。
独断と偏見で言わせてもらうなら、その場に「セレブ」と呼べる人は一人もいなかった。
はっきり言って、「セレブまがい」。そういった振りをしているだけ。

その女性タレントが、イヤホンでいろいろと指示を出され、その通りに実行していく。
例えば「そこでワインをこぼせ」とか「よろけた振りをして、肩にぶつかれ」とか。

出された指示の内容も、「ちょっとそれは・・・」と思うものが多かったが、それよりも驚いたのはそこにいる「セレブ達」の反応。

指示通り、床にケーキを落とし、困った振りをしているその女性タレントに対し、誰もフォローをする人はいなかった。「大丈夫ですか?」のひと言もない。バッグに仕込まれた隠しカメラで、周りにいる人達の表情はすべて撮影されている。みんな冷ややかに、彼女がケーキの残骸を集めている姿を見ているだけだった。その後もいろいろとあったのだが、見ているうちに不愉快になってきたので、チャンネルを変えた。

その人達の様子から感じられたのは、ただのエゴ。
お目当てのパートナーさえ手に入ったら、後は関係ない―というその態度と浅ましさ。
卑しいというか、下品さしか感じなかった。こういう人種が「セレブ」と呼ばれ、もてはやされている今の日本は、一体どうなっているのだか。

30年近く経った今も、私の中に印象深く残っているある話がある。
確か小学校4~5年生の時、道徳の教科書に載っている話だった。

ちょっとどこの国かは思い出せないのだが、多分イギリスかどこか、ヨーロッパの王室の女王が取った行為について書かれたものだった。

ある外国からの使者が、その国の女王の正式晩餐会に招待された。
主賓としての招待なので、席も女王の隣。その席で、フィンガーボールが供された。

フィンガーボールは、手を使って直に食べる料理や果物に添えて出される、水やぬるま湯を入れてある小さな器。汚れた指先を洗うためのものだ。

しかし、その外国からの使者は緊張のあまり、フィンガーボールを手に取ると、一気にその中の水を飲み干してしまった。女王陛下の前で、そんな行為をした使者を、周りの人々は呆然として見つめるしかなかった。

すると次の瞬間、信じられないことが起こった。
その女王は、なんの躊躇いもなく、自分のフィンガーボールを手に取ると、同じように中の水を飲み干した。女王の行為に一同は驚愕したが、自分達もそれに倣って、一斉にボールの水を飲み干した―。

客に恥を感じさせないように取った咄嗟の行動や気遣い―これこそが本当の「品格」であり、「応用力」だと思う。

王室や皇室では、帝王学の他に、そういった対処法も学んでいるとは思う。でも、本当にそれが身についてなければ、咄嗟に反応することはできない。方法を知っていても、いつ、どこで、どんな時にそれを使うのか判断できなければ、何の意味もない。

件の「セレブ限定お見合いパーティー」の参加者達の反応は、インスタントの付け焼刃でしかない、上辺だけの、ペラッペラの「品格もどき」でしかないということを露呈していた。はっきり言って、「成り金」のいやらしさ。

自分のライバルとなりそうな人を、頭から爪先まで値踏みするようにジロジロと見たり、会場ではにこやかに上品に振舞っている「社長令嬢」が、化粧室ではくわえ煙草でメイクを直したり。

「贋物」は、どこかチグハグな印象を受ける。
言動が一致しないのはもちろんのこと、顔は笑っているのに目が笑っていなかったり―わずかな違和感が、実はその人の「本質」を表していることがある。

財産とか社会的地位とか、そういった上辺だけの「条件」に振り回されたり、振りかざしたり―そういった「セレブ願望」「セレブもどき」は、あさましさしか感じない。

「神に祝福された人」という意味でもあるセレブリティ―。
果たして神が祝福しているのは、その人の財産や肩書きなのだろうか。

早かれ遅かれ、「メッキ」が剥がれる時は必ずやって来る。
ボロボロの土台の上に建てられた家は、やがて崩壊する。それと同じこと。

そういったマスゴミが仕掛けたくだらないブームや定義に踊らされ拘っているのは、自分が「上辺だけを重視する人間」だということを露呈しているようなもの。ある意味それは、「大変みっともない」。

自分や相手の「条件」ではなく、自分や相手の「本質」に誇りを持って、敬意を払って生きていこう。




カテゴリ :三位一体―心と体と魂の話 トラックバック(-) コメント(-)
≪ トップページへこのページの先頭へ  ≫
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。