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エデンの蛇

 2012-04-15
プロパガンダ、いわゆる「宣伝」の基本は、「一番頭の弱い人を基準にすること」だ。語弊を招く表現だが、要は「誰にでもわかりやすく」ということ。年端のいかない幼児から老人まで―年齢はもちろんのこと、知的レベルを問わず、幅広い層の人々が理解・共鳴できる内容にする。それが原則だ。

中でも、特性や違いをアピールしたい時には、「比較法」が最も手っ取り早い。単純だがわかりやすいその方法は、ある意味「宣伝の原点」だ。つまり、「ライバル役」「悪役」を設定するのだ。

過去に世界的に有名な某清涼飲料水メーカーが、他社の競合商品と自社商品を消費者に飲み比べをさせた時の様子をCMとして使用した時は、大きな反響を呼んだ。実際、そのメーカーは件のCM効果で売り上げを驚異的に伸ばし、ライバル会社に大きな差をつけた。

宗教は、「世界最古の宣伝文化」と言ってもいい。キリスト教や仏教の教義に登場する「天国と地獄」「極楽と地獄」がまさにそう。生前に善い行いをすれば天国や極楽へ、悪事を働けば地獄へ―自分達を「正義」の側に置き、それを際立たせるために、対極の存在―地獄や悪魔、異教徒という「悪役」を設定したのだ。

善と悪、光と闇、天国と地獄―「白か黒か」「二つに一つ」「その二つ以外に選択肢はない」という設定は、単純でわかりやすい。理解力が浅い幼い子供にも十分伝わる。

キリスト教に馴染みがない人でも、聖書に登場する「アダムとイブ」は知っていると思う。神が自分に似せて土から造った「最初の人類」であるアダムとその配偶者であるイブが、蛇にそそのかされて、食べることを禁じられていた「知恵の樹」の実を食べたことにより、エデンの園から追放されたという話。人類に「原罪」である死と罪がもたらされたのは、二人がこの禁を犯した為―と聖書は謳っている。

キリスト教、ユダヤ教、イスラム教において、蛇は「悪魔・悪魔の化身」とされている。多くの生き物が持つ手足がないという、ある種「奇異」ともいえるその姿や長期間餌を食べなくても生きていけるという生命力の強さから、「醜悪で不吉な生き物」「執念深い生き物」と概ね毛嫌いされる傾向にあるようだ。

だがその一方、蛇を「神・神の使い」とする文化圏も少なくない。ギリシャ神話では、「生命力」の象徴とされ、その中に登場する医神アスクレピオスが持つ蛇の巻きついた杖、「アスクレピオスの杖」がWHOのマークに使用されている。

楽園で幸せに暮らしていたアダムとイブを「罪人」にした犯人―不吉なものを運んでくる負の存在のアイコンとして、キリスト教は蛇に目をつけたのだ。多くの人が生理的な嫌悪感をもよおすその奇妙な姿も、まさに「不幸の使者」に打ってつけ。

悪の存在は、決して美しくあってはならない。いかにもそれらしい、禍々しさを感じさせる外見のほうがより効果的だ。なにせ幼い子供にも、簡単にその「違い」が感じられるものでなくてはならないのだから。

聖書において、蛇は「悪の存在」として描かれている。だが、同時に、「知恵・知識」を象徴しているのだ。「それ以外の世界」を見せる者。一つの思想しか認めないその世界に、「異なる新しいもの」を持ち込んだのが件の蛇だ。

聖書では、アダムとイブをそそのかし、禁を破らせたと悪役として描かれているが、別の観点からみれば、「新しい可能性」を提示した存在と言える。

アダムとイブの追放は、いわゆる「見せしめ」として描かれている。だが、二人にとって、禁断の実を食べ、楽園を追放されたことは、果たして本当に「不幸なこと」だったのか?別の見方をすれば、それは「束縛からの解放」「自我の目覚め」であり、「新しい可能性が広がる世界への旅立ち」なのだ。

宗教の最大の目的は「支配」にある。「思想の統一」がそれを可能にするのだ。支配する側にとって、「自我や独自の思考を持つ存在」は邪魔なだけだ。

「それ以外」を持つ者・見た者・知る者が、自分達の思想や教義に異を唱えたり反発するようになれば、組織の瓦解に繋がりかねない。アリの穴から堤も崩れる。たとえそれがごくわずかな数でも、後に取り返しのつかない大事に至ることもある。異なる観点、異なる思考―それらを締め出すのは、自分達の世界を保持するためだ。

エデンの園からの追放の件(くだり)は、いわば「脅し」なのだ。神の教えに逆らった者がどんな運命を辿るか―その他の思想や思考、自我を持つ者を「悪」「反逆者」として位置付けることで、本能に働きかけていく。人間なら誰しもが持つ不安や恐怖といった「弱み」につけ込むことで、支配はより簡単になる。

キリスト教において、人間は単なる「コピー」でしかない。「神に似せて造った」ということが、それを示唆している。つまり、「本体」である神と「完全に同じ」であることを要求されているのだ。

思考も行動も、すべて神のそれと合致していなければならない。寸分の狂いもあってはならないのだ。本体をそっくり写し取ったものでなければ、コピーとは言えない。過不足なく、完全に神と「同じ」であることが、人間に与えられた役割なのだ。

楽園追放の箇所は示しているのだ。「信仰に個人としての思考や自我は不要だ」と。「それを捨てろ」と、「神のコピーであれ」と強要しているわけだ。蛇という悪役を登場させ、それとなく匂わせている。「神以外のものを信じれば、罪人になる。不幸になる」と。

恐怖や不安を煽り、それによって信仰に縛りつける。恫喝による支配―それが「宗教」の根本だ。その実は、かなり下世話な世界なのだ。

神の不興を買うことを恐れる者ほど、「蛇」を頑なに拒むようになる。異なる思想、異なる意見―「神以外のもの」を完全にシャットアウトするやり方は、楽園追放の件によって刷り込まれたものだ。

「コピー」が「本体」を超えた時に何が起こるか―彼らが恐れているのはそこなのだ。自分達の世界が崩壊し、「コピー」である自分自身の存在意義さえ失われることに対する恐怖と不安。だから「蛇」を恐れる。

彼らの「不幸」は、ただ一つの思想しか受け入れないことにある。もし彼らが物事を多角的に観た時、別の視点から同じ物を観た時、気づくはずなのだ。物事には、必ず「両面」があるということを。一つの物事や事象の中には、必ず対極の二つの要素が存在する。

例えば、「慎重さ」は別の角度から捉えれば「優柔不断」となり、「安定」は「停滞」となる。愛だけ、光だけ―そんなことはあり得ない。宗教は、そういった矛盾を「真理」という言葉を使って煙に巻こうとする。だが、それは完全な詭弁だ。ただ「見ないふり、見えないふり」をしているだけ。

そういった宗教の子会社ならぬ子宗教であるスピリチュアル教・自己啓発教は、「親」の体質をそっくりそのまま受け継いでいる。「コピー」というより「クローン」と言ったほうが適切かもしれない。異なる思想や意見―「蛇」を恐れ、自分達の世界に侵入させまいと躍起になるところなど、本当によく似ている。

別の観点からの見え方や思考である「批判」を、自分達の信仰にけちをつけられた腹いせに、「知識をひけらかしたいだけ」とほざく者もいる。挙げ句の果てに「いじめだ!攻撃だ!」と煩いことこの上ない。

そういう輩が「自称 覚醒して得た真理」と得意げに語るものなど、胡散臭くて仕方ない。そんな程度のものならいらねーよ、と。本当にそれが万人に共通する唯一無二の「真理」なら、堂々と批判を受け止めるはずだと思うが。

何の道、彼らに「蛇」は不要なのだ。単なる「コピー」なのだから。コピーに「知恵」は要らない。刷り込まれたものだけを、何も考えずにただひたすらなぞり続けていればいい。自分達の「楽園」の中で。それが彼らに与えられた役割であり、何よりも、彼ら自身がそれを望んでいるのだから。

「私達は高い波動を持つ覚醒した魂の存在」と嘯く「コピー」のみで構成された虚構の世界で、身内同士せいぜい馴れ合っていればいい。だが、その実は、単に「宣伝広告」にまんまと乗っかってしまったミーハーでしかないのだ。裸の王様状態の自分達の姿を認識させてくれる「蛇」は、彼らの楽園にはいないのだ。

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カテゴリ :はい論破!スピリチュアルと自己啓発の矛盾とからくり トラックバック(-) コメント(-)
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