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ボーダーライン

 2011-01-25
人は生まれながらにして善であるか、悪であるか―いわゆる「性善説」と「性悪説」は、人類にとっての永遠のテーマだ。太古から多くの哲学者達が取り組んできたこの課題、未だ結論が出ていないのは、その「区分け」があまりにも単純且つ短絡的なせいだ。「人間」という地球史上稀にみる複雑な生き物を、たった二つの選択肢に当てはめようとすること自体無理がある。

「人は皆生まれながらの罪人である」とキリスト教は説き、現在巷に蔓延するスピリチュアルは、「人は皆光の存在なのです」「すべての人が愛に満ちた存在であり、愛そのものなのです」と謳う。一方は罪悪感や劣等感、不安感を煽って教義に縛りつけておくために、もう一方は「敷居」を低くして、いわば客寄せのために、それぞれの説を利用する。

善か悪か―すべてを二元論で片付けようとするのは、「宗教」特有のやり方。宗教に「曖昧さ」は禁物なのだ。「どちらでもいい」などと言っていては、統制がとれない。中心があやふやでは信者は揺らぐ。「洗脳」にグレーゾーンは不要だ。あくまでも「きっぱりと断言すること」が必要なのだ。そこが「如何にも宗教」らしいところである。

セラピストとして多くの人を観てきて思う。人間は、善でも悪でもない。そのどちらの要素も持っている存在だ。善だ悪だと言われている状態は、どちらかの要素がその一方のものより勝っている状態、いわば一つの要素が強く前面に現れている状態なのだ。もう一方は「隠れている状態」に過ぎず、消失したわけではない。何かの拍子にそれが入れ替わったりすることもある。

多くの人は、「自分の中に存在するダークな部分が許せない」と言う。そして「それを消したい」と。光だけ、愛だけ、善だけの存在になりたい、と。この人達もまた、完全な二元論者だ。光になる。愛になる。善になる―それは、闇や影、悪の部分を消失させることだと思い込んでいる。

だが思う。善と悪、光と影の境界線は、意外と単純なものではないかと。「一線を越える」という言葉があるが、地面にザーッと一本の線が引いてあって、その線から向こうに行くか、それともその手前で踏みとどまるか―それだけの違いではないかと。

「善になる」「光になる」とはどういうことか?例えば、最高に嫌なことがあって、気分もムシャクシャして誰かに当り散らしたい。誰でもいいから自分が受けた仕打ちと同じことをしてうさを晴らしてやりたい―そういった感情が自分の中に湧き上がってきたとする。「他人からどう思われようと関係ない。その人が傷つこうがどうなろうと知ったこっちゃない。とにかく誰かを自分と同じように思いっきり傷つけてやらないと気が済まない」

そんなどす黒い感情に支配された「もう一人の自分」と闘うことなのだ。「ホーダーライン」を越える寸前で思いとどまること。衝動に負けてそのラインの向こう側に行こうとする自分を気力でねじ伏せる―それが、善や光になることであり、そういった感情と闘い続けることが、善や光であり続けることなのだと思う。

結局、「踏みとどまる努力」をすることなのだ。善でいたければ悪の誘惑に負けないように。光でいたければ闇に落ちないように。つまり、必要とされるのは、ダークな部分を消そうとすることではなく、いかにして自分自身を律することができるか―ということなのだ。「克己」と言い換えてもいい。光と闇、善と悪―どちらに自分を明け渡すかということだ。

人間は、光と闇の間、善と悪の間、「あわい」を生きる存在だ。光でもなければ闇でもなく、善でもなければ悪でもない。それを分ける「線」を越えれば、簡単にどちらの存在にもなり得るような、言うなれば「危い存在」だ。「魔が差す」という言葉が、人間の持つその危さを的確に表現している。

常に自分の中の光と闇に対峙すること。どちらの側にいることを選ぶか―人間が取り組む「課題」の一つでもある。そのラインを越えるか、越えないか―自分の人間性、心のあり方を決めるのは、自分自身の「選択」にかかっている。




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