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ネバーランド

 2011-01-04
「実家」という言葉と概念は、日本独特のものだと思う。自分の生まれ育った家を、「実の家、本当の家」と称して憚らない国は、世界広しといえ、他に類を見ないのではないだろうか。「実家に帰る」という表現も、「この家こそが、あなたが帰るべき『本当の家』なんですよ」というニュアンスを含んでいる。

英語には、「実家」に相当する言葉はない。しいて言えば、「parents' home 両親の家」だ。成人し、独立して家を離れたら、そこはもう「自分の家」ではない。なので、「帰る」という表現は使わない。例えば、休暇や行事等で親元に戻る時も、「I'm going to visit my parents」なのだ。そこは、あくまでもvisit―訪問する場所であり、go back―帰る場所ではないのだ。

何年か前、アメリカで、親元を離れない子供が増えていることが大きな話題になった。大抵のアメリカ人は、高校卒業、大学入学と同時に実家を出る。そして、それを機にもう親元に戻ることはない。一度独立した後は、あくまでも「親は親、子供は子供」になる。アメリカではそれが一般的であり、「ごく普通のこと」なのだ。

以前、アメリカ人の友人知人に聞いてみたことがあった。「日本では、30代とか40代の息子や娘が親と同居してることも多いんだけど、どう思う?してみたいと思う?」答えは全員が「NO!」だった。「十分大人なんだから自立するべきでしょ」「それぞれの人生を楽しめないじゃないの」一様にそんな言葉が返ってきた。

そして、その子供達の答えも親とまったく同じなのだ。「親と同居?どうして?考えたこともない・・・っていうか、別々に暮らすのが普通なんじゃないの?」「特別な理由もないのに親と同居するの?あり得ないよ。だってお互いの人生があるんだし」

「子供はその時期が来たら親元を離れるのが当たり前」というのが、親と子の双方、ほとんどのアメリカ人に共通する認識なのだ。

だが、ここ最近様子が変わってきた。今までの認識を覆される「あり得ないこと」が起こり始めたのだ。大学を卒業して就職した後もそのまま親と同居を続ける子供や、一度は独立したものの、離婚やリストラ等が原因で、経済的な理由から親元に戻ってきたりする子供が増えてきたのだ。

実家に出戻ってきた息子と年老いた両親との生活を描いたドタバタコメディー映画も話題になった。実家に戻ってくる子供、実家を出ていかない子供―映画の題材になるということは、アメリカでは「今までになかっためずらしい状況」なのだ。同時に「由々しき事態」でもある。メディアもある種の「社会問題」として捉えているし、「独立精神の欠如」「依存心の表れ」等、「弱くなったアメリカ人」を懸念する声も多く上がっている。

日本では、親との同居はめずらしいことではない。男女問わず、結婚するまで親元で過ごす人や離婚を機に同居を再開する人も多い。むしろ、世間もそれを当然と思っている節がある。それがいいとか悪いとかということではないが、「ひきこもり」にしろ、「ニート」にしろ、「パラサイトシングル」にしろ、それもこれも、この国特有の「実家」という言葉とその概念が成せる業だと思うのだ。

良くも悪くも「実家=甘える場所、避難場所」という認識が人々の中に確立されているのは、その言葉のせいではないかと。実の家、本当の家というその響きが、何かを狂わせているような気がするのだ。


先日、友人と話していた時にも話題になったのだが、最近「ひきこもり」の子供さんを持つ人が本当に多い。友人の職場でも、そういった人が数名いるとか。その子供さん達は、特に差し迫った問題を抱えているわけでもないらしい。学校もちゃんと卒業し、健康状態にも問題はない。本来なら、社会人3~4年目として働いているような年齢。

「やりたいことが見つからない」「やる気が出ない」というのが、ひきこもっている理由らしい。バイト先を見つけてきても長続きせず、職を転々とする。親御さん達は、ヤキモキしながらも、その状況を黙認しているようだ。家に住まわせ、食事を食べさせ―そんな子供達の面倒を見続けている。

友人曰く、「あっちこっち専門家に相談に行ったりもしたらしいんだけど、口を揃えて『黙って見守っててあげてください』しか言わないんだって」うーん・・・これってどーよ?と。何というか、「根本から間違ってないか?」と思うのだ。よそ様の家のことをとやかく言う気はないが、何か妙に後味が悪いというか、引っ掛かりがあるというか・・・。

健康で、それなりの学歴を持った人間が、仕事もせず、親に生活のすべての面倒を見てもらっている国。渋々ではあると思うが、そんな我が子を受け入れる親が存在する国。また、そういった子供達を「ひきこもり」と称し、その存在をいろいろな意味で社会が容認している国―「異常」ではないのか?と。それも、ごく普通の一般家庭で起こっていることなのだ。


親元から独立するまでは、特に未成年のうちは、不条理なことだらけだと思う。親の意見が尊重され、子供の意思など二の次。不平不満を唱えても、「子供は黙ってなさい」のひと言で、渋々それを受け入れざるを得ないことのほうが断然多い。

年齢を重ねるにつれてわかってくることだが、世の中には、たとえそれが理屈や割に合わないことであっても黙ってそれに従うことや受け入れることが必要な時もあるのだ。納得は出来ないけれど、あえてそれをしなければならない時がある。「仕方の無いこと」というものが存在する―それを認めることが、「大人」であることの証明でもあるのだ。


以前、アメリカ人の友人とちょっと込み入った話をしていた時だ。当時4歳くらいだった彼女の息子が、私達が話しているところにやって来た。理由は忘れてしまったが、お菓子がほしいとかおもちゃはどこにあるのかという類のものだったと思う。母親の注意を引こうとするのだが、彼女は息子を見向きもしない。相変わらず私との会話を続けている。

そうこうしているうちに、その子が癇癪を起こし始めた。そりゃそうだ。大好きなママが自分を無視して話も聞いてくれない状態は、4歳児には結構なストレスだ。とうとう「マァーーミィーー!!」と金切り声を上げた。横で見ている私のほうが気になって仕方ない。

「話聞いてあげて」と言うのだが、彼女はまったく気にしない。「いいの。で、それでどうしたの?」「う、うん。それでね・・・」と会話を再開したのだが、またもや「マァーーミィーー!」今度はテーブルをバンバン叩く音がおまけについている。

その時彼女がキッと息子を見た。「静かにしなさい。ママは今大事なお話をしているの。終わったら聞いてあげるから邪魔しないでちょうだい」彼女の怖い顔効果もあり、しばらく部屋は静かだったのだが、しばらくするとまた「マミー、まだぁ?」「いつお話終わるの?」「もう待つのやだ」と始まった。

「お話が終わるまで待ってなさい」「あとどれくらい?なんで待ってなきゃいけないの?」「ママは大事なお話をしてるって言ったでしょ?だから終わるまで待ってなさい」「えー、なんでー。ぼくずっと待ってるのにー」と、その時、とうとう痺れを切らした彼女は、今まで見たことのないような怖い顔して立ち上がると、自分の息子にこう言った。「Because I said so!!(なぜならママがそう言ったからよ!)」

「ママが待ちなさいって言ったんだから、言うとおりにしなさい!」子供にしてみたら、不条理以外の何物でもない。「こっちの言い分と都合は完全無視かよ!?そんなのひどくね!?」というところ。

いつも不思議に思っていた。扱いにくさに欠けては世界一とも言えるアメリカのティーンエイジャーが、どうして親の言うことを渋々ではあっても、結局おとなしく従うのか。それこそ185センチくらいのでかい図体の17歳のやんちゃ盛りの男の子が、「与えられた役割」である夕食後の皿洗いを2日連続でさぼった罰として言い渡された「学校から帰った後の外出は3日間禁止」の命令に、ブツブツ言いながらもちゃんと従うのだ。

親を「○○ちゃん」「○○くん」と名前で呼んだり、また親もそれを許しているような「友達親子」が存在したり、親を小ばかにする子供が増えている日本では、「はあ?マジうぜー」と無視するのが関の山だ。その「違い」は何か?それは、親側の毅然とした態度、「不条理」というものの存在をどれだけ断固とした態度で子供に教えられるかというところにあるのだ。


人生においての意味付け―「生まれてきた理由」とか「人生においての使命」とか「やりがい」とか「生きがい」とか、そういった要素を多くの人は求めるが、自分の都合がどうであろうと、納得しようがしまいが、それを二の次にしてまでやらなければならないことがある。それが「仕事」であり、ひいては「生きていくこと」なのだ。

人生には「不条理」が満ちている。仕事や人生というものは、たとえそこに意味がないとしても、それを見い出せないとしても、ただひたすら黙々と取り組んでいくものなのだ。「理由?都合?ぶつぶつ言ってないでさっさとやれ」という感じで。

多くの人は、その不条理、「四の五の言わずにさっさとやれ!」という類のものは、ある程度の年齢になれば消滅すると思っている。どんなことにもきちんと理由があって、ちゃんと納得できるもので人生は成り立っているに違いない、と。だが、むしろ現実はその逆だ。不条理、グレー―人生はそういったもので埋め尽くされている。

「口ごたえするな!」「いいからさっさとやりなさい!」今まで親が果たしてくれていた役割をしてくれる人は、年齢を重ねるにつれ、どんどんいなくなっていく。今度は自分自身が親の役を兼ねなくてはならなくなるのだ。「そっとしておいてあげてください」なんて他人の言葉に乗っかっていい気になっていたら、あっという間に人生は終わってしまう。

「それが見つかるまで」「その気になるまで」一緒になって「お告げ」が降りてくるのを待っている親も、ある意味ひきこもりの我が子と変わらない。最近「親の権威が失われた」と言われるのは、多分ここなのだ。「because I said so!」と断固として言い切れる親がいなくなってきたということ。

「あんたのやる気だのやりたいことが見つからないだのこっちには関係ないの!ちゃんと学校まで出してあげたんだから後はあんたの責任!何でもいいからさっさと仕事見つけて働きなさい!今後自分の面倒は自分で見ること!」と毅然として突き放せる親がいないのだ。

「実の家、本当の家」という概念が、諸刃の剣になっているのだ。子供はそれを盾に取って親に依存し、親も渋々ではあるが、立場上それを受け入れるのが役目だという意識を捨てられない。

そして、多分その親達自身も、「四の五の言わずに取り組まなくてはならないことがこの世には存在する」ということを、納得・理解できていないのだ。自分が出来ないことを、子供に自信を持って言えるわけがない。そういった親のスタンス―その自信のなさや躊躇い、消化し切れていない曖昧さと日本特有の「実家」という概念―正しくは意味の履き違えが絡み合って引き起こされたのが、今日の「ひきこもり」「ニート」という現象なのだ。

納得のいかない不条理な世界―子供の頃にうんざりしていた世界は、そのまま続いていく。そして、それが「現実」というものなのだ。それを受け入れられないということは、大人になることを拒否している状態とも言える。

そして、そういった状態に陥る人は、多分身近に毅然として、自分の屁理屈をねじ伏せて現実を突きつけてくれる人、「仕方ないこと」に黙々と取り組む姿を見せてくれるような、それを身を持って体験させてくれる人がいなかったのではないかと。

成人年齢をはるかに過ぎて、自立できる要素がきちんと備わっているにもかかわらず、「やる気がでない」とか「やりたいことが見つからない」と家にこもり、おんぶに抱っこ、衣食住の面倒を全部親に見てもらい、いつまでも「子供」でい続けようとするその状態は、まるで永遠の子供―ピーター・パンそのものだ。そして、我が子に「子供」でいることを許し続け、同時に自分自身も「子供」である親が蔓延するこの日本は、子供しか存在しない国―ネバーランドなのだ。








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