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アリとタカ

 2011-03-02
先日、新聞のテレビ欄で「哲学的に物を考えるとはどういうことか?」というタイトルを見つけた。確かNHKの番組だった思うが、哲学者とゲストとの対談番組だったように記憶している。

うっかり見逃してしまったのだが、多分そのタイトルに目を止めた人は意外にいたのではないかと。なぜなら、「哲学的に物を考える」とは具体的にどういうことか、実はみんな知っているようで知らないのだ。

それは小難しい言葉を並べ立ててあれこれ理屈をこね回すことだったり、こじつけするということではない。「哲学的思想」を自称する人のそれは、大抵の場合、何でもないことをただ理屈っぽく言っているだけだったりする。

今の世の中、何でも「哲学」という言葉を持ち出せばいいと思っているような節がある。本や雑誌記事のタイトルには「哲学」という文字が氾濫し、最近では、キリスト教思想にあれこれ仏教思想の要素をくっつけただけの「スピリチュアルという名の新興宗教」まで、「スピリチュアルは哲学です!」などと主張している。

宗教にいたっては、ただの教義の押しつけ―いわば「洗脳」だ。外部との対話を拒否し、すべてを教義に結びつけて考え、それに固執する―意識の広がりがないそれは、「宗教」が持つ偏狭さそのものだ。「哲学」でも「学問」でもない。曖昧な認識をされている言葉を使って誤魔化すのはいい加減やめてほしいものだ。


「ハーバード大学史上最多履修者数を記録した講義」の担当教官である、アメリカの政治哲学者マイケル・サンデル教授は言う。「哲学とは、新たな知識を得るためのものではなく、既に誰でも知っていることについて考えるものだ」

「それは道徳的な観念や自分自身の信念から来る考えを見つめ直すことだったり、現在人々が考えていることを理論的に解析し、そこで得たものを自分の思考や信念の構築に新たに反映させていくためのものである。最終的には、『社会の理想的なあり方』について考えることに繋がっていくものだ」


哲学的に物を考えるとはどういうことか?私自身は、それは「ミクロとマクロの視点を持つこと」だと思っている。微視と巨視―その両方の視点から同じ一つの対象を見つめ、それぞれの視点からの見え方を知ることだと。喩えるなら、「蟻の目」と「鷹の目」を持つこと―そう思っている。

地上に立っている人間を見る時、蟻と鷹ではまったく違う見え方をしているはずだ。わずか数ミリの大きさの蟻が地面から人を見た場合と、鳥類で最も高い高度を飛ぶと言われている鷹が空から人を見た場合、その視界に映っているものはそれぞれ違う。

「人間」という一つの対象に対して、「蟻の目から見た人間」と「鷹の目から見た人間」が存在する。つまり、物事に対する考え方や感じ方は一つだけとは限らない―ということだ。

お互いが見ているものを理解するには、それぞれの視点に立つことが必要だ。蟻の目線から―。鷹の目線から―。違う視点からの景色を知ること。「真理の追究」とは、一つの視点や考えに固執することではない。

99%を占める意見と1%を占める意見、そのどちらについても考えることが必要なのだと思う。「全体」を語るには、多数の意見だけでも、少数の意見だけでもだめなのだ。偏った視点や偏った思考は、偏った答えしかもたらさない。

微視と巨視、少数と多数―ひとつところにとどまらず、いろいろな方向や可能性に対して自由自在に意識を飛ばし、そこから見えるものについて考えてみる。それぞれの視点から見える形を知り、それについて考えること―それが本当の意味での「哲学的にものを考える」ということではないかと思うのだ。




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