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コドモの証拠

 2010-12-27
子供は「同じ」が好きだ。「みんな持ってるから買って」「どうしてうちはみんなの家みたいに○○じゃないの?」みんな―多くの人が持っている物を欲しがる。「うちはうち、よそはよそ」その度に親から言われる言葉の意味を理解できない。

先日、繁華街を歩いていて思った。「今の若い子って見分けがつかない」10代や20代の子達―男の子も女の子も、何かにつけて「個性」「自分らしさ」を強調、要求する割には、メイクもファッションも似たり寄ったりのものばかり。カラーリングしている髪の色まで一様に同じなのは「不思議」としか言いようがない。

だが、若い子達の「おんなじ好き」はファッションやメイクだけでない。生き方も、「みんなと同じ」がいいらしい。家族や友達を含めた多くの人がしていること―例えば、結婚とか出産とか、世の中の結構な割合の人達が選択することを、同じように選びたがる。「どうしてそうしたいの?」と聞くと、途端に口ごもる。結局、明確な答えなどないのだ。彼らがそれを望むのは、「みんながしていることだから」なのだ。

「みんながしている=正しい」ではないし、「みんながしている=自分に合っている」ではない。だが、彼らにはそれが理解できない。「同じ」を相手に求め、「同じであること」を自分に課すのは、それを「=共感」と思い込んでいるからだ。

周囲と同じファッションやメイクをして、よく似た生き方をすることで、「自分はひとりではない」「みんなと同じようにしていれば心配ない」「多くの人と同じことをしている自分は幸せなはず」という安心感を得ているのだ。「同じでなければ理解できない」「同じだったら理解してくれるはず」共感と理解を混同している。

共感と理解はまったく違う。むしろ、「違うから」理解できることのほうが多い。意外と「共感している時」というのは、狭い範囲でしかそれを観ていなかったりするものだ。「わかる!わかる!そうだよね!」という共感は、ある意味自分と相手を同一視しているがゆえのものなのだ。「感情移入」であり、「近視眼的な捉え方」と言ってもいい。

だが、そうではない場合、ちょっと上の方から、いわば「俯瞰」して「全体」を捉えている。そうなると、至近距離からでは掴めないものが見えてくる。「真の理解」に至るきっかけは、そういった「俯瞰の位置」に存在している。「全体」を掴むには、それを「理解」するには、あえて「離れてそれを観ること」も必要なのだ。


愛だのソウルメイトだのと騒いでいる人達から一斉に非難されそうだが、誤解を恐れずにあえて断言する。ぶっちゃけ言ってしまえば、人間は、愛や友情がなくても生きていける。得がたい物であるがゆえに、愛や友情は「宝物」と称される。確かに人生をより豊かにしてくれる要素の一つでもある。だが、その反面、たとえそれがないとしても、人は生きていける。あったら素晴らしいが、なくても何とかなる―「宝」とはそういうものだ。

「人はひとりでは生きていけない」と言うが、それが指し示す「範囲」によっては、当てはまらない場合もある。例えば、自分が今食べている野菜は、種を蒔いて育てて収穫してくれた人がいて、それをお店に運んでくれる人がいて―という段階まで含まれるのであれば、確かに「一人で生きている」とは言えない。自分の命や生活が、無数の人達によって支えられているということになるのだから、もっともな話。

だが、そういったことを抜きにした場合、「人はひとりでは生きていけない」というのは、果たして「本当のこと」なのだろうか?「愛こそがすべて」という世界的に浸潤しているその「思想」は、万人に当てはまる「真実」なのだろうか?

年齢的にも社会的にも「中堅」のポジションにいる今、それなりの人生経験を積み、思想や信念を含めた「これが自分だ」という「核」が完成されつつある今思うのだ。「自分自身の価値観」だと信じ込んでいるそれは、自分自身による「完全なオリジナル」ではないのだ。世間や自分以外の人間によってすり込まれたもの、植えつけられたものが大部分。

「友達をたくさん作りなさい」「結婚して家庭を持ってこそ一人前」この国では、物心つくかつかないくらいの頃から、子供に対してそう言い聞かせる。学校や家庭、日常のあらゆる場面で事あるごとに聞かせられるその言葉は、ある種の「洗脳」だ。その結果、「友達がいない自分」や「結婚していない自分」を、「失格者」や「欠陥品」として見なす人が多くなる。それにまつわる悩みを持つ人達の数は少なくない。

「友達がいないとダメ」「結婚にこそ幸せと成長の機会がある」そう断言する人ほど、その根拠を尋ねると、途端に曖昧になる。「友達がいたほうがいいに決まってる」「結婚できるのであれば、しないよりしたほうがいいでしょ」所詮はこんな程度のものなのだ。そして、その根拠さえ定かではない概念に、多くの人が振り回されている。

現在、地球上には66億の人間がいる。それこそ「価値観」なんていうものは、それと同じ数だけ存在する。国や民族性の違いもさることながら、「これこそが幸せなのです」という定義は、個々によってまた異なってくる。「友達がいること」「結婚していること」が、「=幸せ」にならない人も必ず存在するのだ。

例えば、性格的に「誰かと交流を持つこと」「家庭を持つこと」を苦痛に思っている人は、世の中に結構いるものだ。そして、本人もそれを十分認識している。「自分ひとりでいるほうが気が休まる」「ひとりのほうが楽しい」「誰かと一緒にいることで自分のペースを乱されることが嫌」「自分は結婚には向いていない」むしろ、世の中で「いい」とされている概念に自分が当てはまらないことや、多くの人が欲しがるものを欲しない自分、「みんなと違う自分」を冷静に分析している。

だが、そんな自分を認めながらも、「やっぱり友達がいたほうがいいのかもしれない」「結婚したほうがいいのかも」と彼らは迷う。子供の頃から植え付けられてきた「洗脳」が解けていないのだ。それに背こうとする自分に対し、罪悪感や不安が芽生えてくる。「やっぱり自分は間違っているのかもしれない」無理矢理自分を既成の枠にはめようとする。

時々、「結婚するべきかしないべきか」「友達を作るべきか」と言う人達がいる。その言い方でわかるのだ。彼らは、本心ではそれを望んではいない。「結婚したいのに出来ない」「友達がほしいのに出来ない」と言うのならまだわかる。「~すべき」と考える時点で、「そうすることが正しいこと」「しなくてはならないもの」と位置付けられているということなのだ。本来個人の自由意思で決定されることが、いつの間にか「課せられた義務」「従うべき掟」になっている。

「ひとりでいるほうが幸せ」と感じる自分を、彼らは信じ切れない。「世の中の多くの人がやっていることをしない自分」を受け入れることを拒むのは、自分自身に対する不信感のせいなのだ。だから、本心とは裏腹に、「みんなと同じこと」をしようと四苦八苦する。それは、彼らの「恐怖」の表れでもある。「みんなと違う自分」が怖いのだ。

子供の頃に、友達みんなが持っている物を自分だけが持っていないと気づいた時に覚える「疎外感」や「ばつの悪さ」、そういったものを味わうことを恐れている。そして、「持っていない自分」が周りからどう見られるのか―ということも。

「個性」「自分らしさ」そういったものを求める反面、「人と同じ」にこだわるのは、「子供」であることの証拠なのだ。実は子供社会のほうが、「異端」に対する目は厳しい。いじめの原因も、突き詰めればそこなのだ。そして、自分を曲げてでも多数に添おうとするそのやり方は、「子供のやり方」以外の何ものでもない。

「大人」とは、相手の言い分を聞く耳を持ちながらも、自分の意思を明確且つ穏やかに、堂々と主張できる人だと思う。そして、相手と自分の「違い」を尊重することが出来る人。「そっか。でも私にとっての幸せは違うんだよね」と、人と違う選択をする自分に対して覚悟を決めることが出来る人。どんな結果になろうと、自分の下した選択とそれを選んだ自分自身を信じられる人。自分の心の声を聴くこと、それに正直になることが、大人というものだ。

「みんながそう言ってるから」「みんがやってることだから」それだけの理由で、社会が形作った観念に盲目的に付き従い、そこから外れることに恐怖や焦りを感じるのは、「子供」であることの証なのだ。たとえ「同じ」でないとしても、「大人」だったら、お互いの「違い」を尊重し合い、「共感」と「理解」を混同することはないはずなのだ。自分にとっての幸せの形―それを知っている人こそが、本当の意味での「大人」なのかもしれない。





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