FC2ブログ

根付かない理由

 2010-10-21
先日、ホームレス自立支援等いくつかのボランティア活動に従事している方と、プライベートでお会いする機会があった。私自身、自分の体験がきっかけで、現在自死遺族のメンタルサポートをボランティアで行っているのだが、こういった活動をしていると、分野は違えど自然と「横の繋がり」というものが出来てくる。その方とも、そういうご縁で知り合った。

その最中、「なぜ日本にはボランティア(活動・参加)が根付かないのか?」という話題になった。その方がおっしゃっていたのだが、長く続ける人は少ない、と。「疲れた」と言って去っていく人が多いらしい。「私のような者には敷居が高くて・・・」と関心を持ちつつも参加を躊躇う人がかなりいるとか。

あれこれ話しているうちに、それは「ボランティア」というものに対する「誤解」が起因しているのではないか―という結論にたどり着いた。

実際にボランティア活動に関わってみると分かることなのだが、多くの人が「誤解」をしている。「ボランティア=崇高で強い使命感と共にそれを行っている人」という印象を持っている人が圧倒的に多いのだ。中にはそういった志を持った人もいるかもしれない。だが、私自身に関しては、「ただ『やろう』と思ったことをやっているだけ」に過ぎない。

私にとってそれは、「21年前の恩返し」なのだ。「崇高」とか「使命感」とか言われると、非常に居心地が悪い。単に自身の体験から得たことや、現在の仕事のスキルを通じて「今自分ができること」「やろうと思ったこと」をしているだけの私には、「違和感」があるのだ。この先もずっと続けていくかもしれないし、数ヵ月後にはやめているかもしれない。今後のことはわからないが、わずかであっても「自分の時間」を同じ体験をした人達に提供するのもいいかもしれない―そう思っただけなのだ。

身近な人が自死するという状況を経験する人は、まだ世の中にそれほど多くない。タブー視されている領域のものであるがゆえ、遺族等関係者達は多くを語らない。そのため、世の中にはそれにまつわる誤解や偏見が蔓延している。特に、その後遺族が経験する感情の揺れや心身に及ぼす影響等に関しては、ほとんど情報がない状態だ。自死遺族達は、いわば手探りで暗闇を歩いている状態なのだ。だったら、それを「先に経験した者」として、今その状態に置かれている人達に対して、何かやれることがあるのではないかと思ったのだ。

国や地方自治体に文句を言うだけで何もせず、誰かがアクションを起こすのをやきもきしながら待っているより、さっさと自分で何かを始めたほうがいい―そう思っただけだ。気負いや使命感などは一切ない。逆に、そういったものが必要不可欠の要素として求められるなら、多分私はやろうとさえ思わなかったはずだ。というより、ボランティアというものに、そんな「大義名分」が必要なのか?と。自分の行動にいちいち意味付けをしたり、もっともらしい根拠を見つけようとしたり、そんなの必要ないじゃん、と。それをやりたかったら、やろうと思ったら、さっさと取り掛かればいいのだ。ボランティアとは、本来そういうものなのだから。

だが、世間の大半の人が「ボランティア」というものに対して抱く考えとは、どうも大きくかけ離れているようなのだ。期待や要求、使命感―本来不要なものであるその要素を求められることが、多くの人をボランティアから遠ざけている元凶だと思うのだ。「出発点」から既に間違っているような気がしてならない。


20代の頃、日本語教師として在住していたアメリカは、ボランティア活動が盛んな国だった。もともとキリスト教圏の国なので、「奉仕」の精神は日常に根付いている。アメリカに旅行したり在住した経験のある人ならわかると思うが、公共のあらゆる場所で「ボランティア」と書かれた腕章やバッジを着けた人々を見かけることが出来る。

例えば、空港では荷物の受け取り場所や搭乗口の位置を教えてくれたり、美術館や博物館では展示物の説明や案内をしてくれたり―こちらがちょっと困った様子をしていると、「May I help you?(お手伝いしましょうか?)」とすぐに声を掛けてきてくれる。施設の「関係者」というわけではなく、その大半が「一般市民」だ。

言うなれば、その土地に住んでいる「普通のおじさんやおばさん」「普通のおにいさんやおねえさん」が、自分の時間を割いて社会奉仕活動をしているのだ。そして、それは決して一部の人達に限って―ではない。


当時勤務していた小学校で、校内にいつも父兄の姿が目立つことをずっと不思議に思っていた。「参観日でもないのに何だろう?」と。ある時、同僚の先生に理由を聞いて謎が解けた。その父兄達は、「スクールボランティア」として学校に詰めていたのだ。

家事や仕事の合間に、自分の子供が通う学校で、「ちょっとしたこと」をお手伝いするのだ。テスト用紙を印刷したり、先生達に郵便や印刷物を配ったり、子供達が授業中に描いた絵を壁に貼ったり、課外授業に引率者として付き添ったり―時間帯やその長さ、曜日等はすべて父兄次第。出勤前の30分をそれに当てる人もいるし、家事の合間にやって来る人もいる。

生徒のお父さんがコピー機の前に立って算数のテストの問題用紙を印刷していたり、お母さんが教室の隣の準備室で、図工の授業で使う予定の画用紙を数えていたりする。そういった光景は日常茶飯事なのだ。参加の強制といったものはなく、一切の選択が本人達に任されている。参加しなくてもべつに文句は言われない。父兄達は、自分達の「空き時間」を、「あくまでも自主的に」提供している。

日本の学校では、参観日や面談、学校行事以外の時に、校内で父兄の姿を見ることはまずない。保護者会の役員選出も嫌々渋々といった感じで、学校と父兄の関わりが消極的だ。その一方、アメリカでは父兄が「自分の空き時間」を学校に気軽に提供することが日常になっている。驚くと同時に「このスタイルはいいな」と。

何よりも、気負わずに、ごく自然にそれを行っている人達の姿が印象的だった。「生活の一部」といった感じで、ボランティアというものが、個人それぞれの中にしっかり「根付いている」のがよくわかる。

街や学校等、地域に対して自分の時間や能力を、それを必要とする誰かや何かに自主的に、気軽に提供する―「ボランティア」の定義とは、本来こういったものなのだ。非常にシンプルで、決してガチガチに構えてするものではない。

それが日本では、何か「大袈裟なもの」として捉えられている。「滅私奉公」というか、国家や社会のために自己を犠牲にしてまで他人に尽くす。献身的に行われなければならないもの―そんな感じの、ある種の「重たさ」を感じさせるものとしての印象が浸透していることが、足を踏み入れるのを躊躇わせるのだ。

そういった「自発的に行われるサポート」に対する「受け手の意識」も大きく関係している。もともと「ボランティアをする人は奇特な人」という強い思い込みがあるせいか、妙な誤解が生じるのだ。「本人が好きでやっているのだから」と、そこにつけ込むというか、過剰な依存をする人が出てくる。

最初は遠慮がちでも、時間が経ってその状況に慣れるにつれ、「してもらって当然」「なんでダメなの?だってやりたくてやってるんでしょ?」という意識が芽生えてくるようなのだ。常識の範疇を超えた「要求」をしてくるようになる。「無料」ということで気が緩むのか、「利用しなくちゃ損」とばかり、その度合いがどんどんエスカレートしてくるのだ。

「おまえらは金儲け目当てなんだろ!?医は仁術じゃないのか!」などと医療現場で理不尽な要求や言いがかりをつけるモンスターペイシェントと重なる部分がある。「サービス=無条件に仕えること」を強要してくるようになるのだ。

早朝深夜こちらの都合を問わず電話をしてきたり、メールやFAXを送ってきたり、金品の無心をしたり。「1年365日24時間この人のために待機していなければならないのか?」と思うくらいに、ボランティアを「こき使う」人もいる。頻繁に起こることではないが、実際にある話だ。

「困っている自分」を盾に、いわゆる「仁」の部分、思いやりや慈しみといったものを、「相手が行うべき当然の義務」として押付けてくる。ボランティアをする人間を、「四六時中何をおいても自分の希望を聞き入れるべき存在」と思い込んでいるのだ。「自分は許されて当然」という意識がどこかにあるのかもしれない。「人としての良心」が大きく関わってくる領域であることが、どちらにとっても「諸刃の剣」になる。

そういった「勘違い」、「ボランティアとは自分を犠牲にしてまで行うべきこと」という思い込みが社会、「提供する側」と「受ける側」双方に根強く存在するうちは、この国には習慣や精神としてのそれは育たないかもしれない。

少なくともそれは、「強制労働」や「義務」ではなく、それをする人の自由意志に基づいて行われるものなのだ。そして、そこには思いやりや慈しみといった「仁」の一方的な要求や、「~しなければならない」「~すべき」といった「犠牲」や「義務」など存在すべきではないのだ。


【追記】「医は仁術:医術は単に病気で苦しむ人を治すのみでなく、相手に人徳を施す術でもあるということ。『仁術』は、深い思いやりを以って、人に恵みをかける行為・方法の意。(広辞苑より)」という言葉を持ち出して、病院や医療従事者に理不尽な要求をする輩が最近増えているようだが、この言葉が出来た当時の時代背景をよく考えてみなさいよ、と。

江戸時代とか、昔は医者にかかることが出来たのは裕福な人々等、一部の人だけだった。それこそ治療費や薬代が払えずに何の手立てもなく亡くなる人達のほうが圧倒的に多かったような時代だ。そういった人達に「お金はいいから」「払えるようになったら持ってきてください」と無償で治療を行ったり、薬を与えた医者がいるような時代に出来た言葉なわけで。

健康保険制度も確立されて、病院側と患者側、双方に「医療=サービス業」という認識が出来つつある今、そこに「仁術」まで持ち出すのはちょっとおかしくないですか?と。ちょっと図々しいという感がある。

確かに現場の医師や看護師の方達の思いやりや優しさがあったら嬉しいが、それはあくまでも「おまけ」のようなものだ。当然の義務のように要求するのは筋違いかと。

観ていると、伝家の宝刀のようにその言葉を振り回す人というのは、大抵は「自分は患者だぞ!金払ってる側だぞ!」というタイプだ。その人達が満足するサービスは、正直「限界」がない。相手が自分の都合や要求をすべて受け入れてくれて、自分が望んだように振舞ってくれて―と相手を「奴隷」か何かのように思っている人が多い。あんた何様だよ?と。

「仁」には、基本、それを行う側にも受け取る側にも「礼」が必要とされる。それが今では・・・。「わきまえる」「慎み」「礼節」といったものを忘れた人間が増えた社会がどうなるか―という例だ。日本に古来から根付いていたものがどんどん失われていく今日この頃。本当にこの国は大丈夫ですかね??


■関連記事

共に歩む人

「ヒプノセラピスト」という仕事

愚問

「できること」よりも「やりたいこと」

お門違い

やては海へ

野暮天

情けは廻る

パズル

礼節

衣食足りても、足りなくても

逆恨み





カテゴリ :Mの心象―あれこれ思うこと・感じること トラックバック(-) コメント(-)
≪ トップページへこのページの先頭へ  ≫