FC2ブログ

不勉強の害(1)

 2010-10-14
「スピリチュアリズム」という、実はキリスト教が名前を変えただけの「新興宗教」にどっぷりはまっているスピリチュアルおたく曰く、「魂が高い波動を持つようになると、他人を批判したり裁いたりしなくなる」スピ系ブログでは「定番」の台詞と言ってもいい。中には、そのことを万人が認める唯一無二の、不変の「真理」と言い切る人もいる。

暗に、「他人をあれこれ批判したりする人は魂のレベルが低いのです」と言っているわけだ。それじゃあ、スピおたの中に「ファン」が多い、ダライ・ラマはどうなんですか?と。「最高の覚醒者」と呼ばれるチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世は、チベット問題や今回ノーベル賞を受賞した劉 暁波氏に対する処遇を含め、折に触れて中国政府を「批判」してますけど?

「中国の振る舞いは子供のよう」「違う意見を持つ人を逮捕するという中国の日常は、真の超大国が備えるべき道徳的権威の欠落」「中国政府は個人が政府と異なる意見を持つことを認めないが、中国の人々を救う唯一の方法は、透明性のある開かれた社会を作ることだ。中国は変わらなければならない」「審判のすべてに政治的動機がある」

彼らの「定義」に基づけば、こういった一連の「批判」を述べるダライ・ラマの魂の波動は低い―ということになる。「ダライ・ラマと一般の個人を一緒にするな!」という「逃げ」は無しだ。「観音菩薩の化身」とされる身分でも、パスポートも持っているし、食事もする。「人間」としてカウントさせていただくのが「筋」かと。

ダライ・ラマ級の「大物」が絡んでくると、途端に「わ、私知りません!」と我先に逃げ出して説明を放棄するスピおたが圧倒的に多いが、「それが真理なのです!」と言うのなら、なんで逃げんの?と。それを体得したと言うのなら、きちんと説明できると思うけど。まあ結局のところ、「受け売りで言っているだけで、実はなーんにもわかっちゃいない」というのが真相なのだ。

日本に蔓延しているスピリチュアリズムという名の新興宗教は、キリスト教が名前を変えただけのもの。発信元はアメリカやヨーロッパ、いわばキリスト教圏の国。「宣教」の中心になっている欧米のヒーラーやチャネラーの大半はクリスチャン。当然ベースになる思想はキリスト教になる。

その手の人達は、ほぼ100%の確率で、仏教をはじめとする東洋思想にはまる。カルマ思想や瞑想等が取り入れられているのはその影響。だが、その「主体」はキリスト教だ。「大天使」だの「守護天使」だの、キリスト教でお馴染の存在が主役を張っているのはそのせいなのだ。

そういった、どこかリリカルな響きのある存在は、「なんかおしゃれ」な感覚をもたらす。「地蔵」とか「天狗」よりは断然スタイリッシュ。ファンタジーの世界だ。西洋文化に対する憧れもそれに拍車をかける。

数珠を持って正座して、線香臭い寺の本堂の仏像の前で「南無~」とやっているよりは、マリア様やら天使やらが描かれたキラキラのステンドグラスから差し込む光の下、十字架の前で跪いているほうが絶対に様になる。それに言っていることも「いいこと」だし―そうやって、設定された「低い敷居」を跨いで、多くの人は「スピリチュアル」と呼ばれるものにはまっていく。実はそれがキリスト教そのものだということも知らずに。

「スピリチュアルの定義からすると」「スピリチュアルの観点から言うと」スピおたは、やたらとそれを多用するが、それは「キリスト教の定義からすると」「キリスト教の観点から言うと」と言っているのと同じことなのだ。

自分達の信仰する宗教の親玉が何なのか、どこに由来しているのか―それさえも知らない人間が説くスピリチュアリズムとやらは、誤解と間違いに満ちている。結局、彼らが言い張っている「真理」とやらは、妄言に等しいということだ。その「核」になっているキリスト教とその教えを、まったく理解していないのだから。

聖書をまともに読んだこともないような人が大多数を占めるこの国で、キリスト教の教義やそこで言われている「真理」というものの意味が正確に伝わるわけがない。文化的背景や民族性といったものも関係するので、「異教徒」「異邦人」がそれを読み解くには、「勉強」が必要なのだ。その「勉強」を手助けする役割をするのが、牧師や神父といった聖職者だ。

言い換えれば、教義を正しく理解した者の助けがなければ、大きな誤解や曲解を招くという類のもの。素人が自分独自の解釈で読み解くには「危険」が伴うものなのだ。導き手がいない独学がもたらすものは、結局「害」でしかない。その影響がどれほどのものかは、スピおた達を観ていればよくわかる。「批判をする人の魂のレベルは低い」「批判する人は愛がない」という発言は、異教の教えを自分勝手に解釈した結果なのだ。

「裁くことなかれ」聖書に書かれている有名なこの言葉、当然巷で流行中のお気楽スピリチュアルにも含まれている。スピおた達の大半は、それを完全に誤解している。それを「=他人を一切裁いてはならない、批判してはならない」という意味で捉えている。この時点から、既に「間違い」なのだ。

もしそれを正確に理解しているのなら、「批判する人は魂のレベルが低い」「人を裁くとカルマが生じる」等という発言も出てこないし、「批判=悪口・中傷」といった曲解をすることもないはずなのだ。完全に見当違いの解釈をしている証拠。

「自分以外の人を一切裁いてはならない」イエスはそんなことはひと言も言ってない。実際、聖書には、彼が行った「批判」や「裁き」の場面が多数出てくる。

「祈る時には偽善者達のようであってはいけません。彼らは人に見られたくて、会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなた方に告げます。彼らは既に自分の報いを受け取っているのです」「ものの見えない案内人、あなた達は不幸だ」「あなた達偽善者は不幸だ」「偽預言者には気をつけなさい。彼らは羊のなりでやって来るが、内は貪欲な狼です」

福音をまったく受け入れずに拒絶する者や異邦人を、当時のユダヤの「野蛮で穢れた動物」に喩えて「犬、豚」と呼び、間違った真理を説く者を家に招き入れることや挨拶することを禁じたりもしている。こういった批判や非難の箇所は山ほど出てくる。キリスト教は、「自由と平等と博愛だけの宗教」ではないのだ。

「汝の敵を愛せ」「右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい」博愛精神を謳っている箇所ばかりが取り上げられることもあり、聖書を知らない日本人は「裁くことなかれ」と言われれば、「=お互いに批判し合わないでただひたすら仲良くすること」と解釈する。

前後の繋がりや真の意味も知らず、切り取られたごく一部の言葉から受ける印象だけで、「慈愛に満ちた微笑と共に、すべてを優しく受け入れてくれる宗教」と勝手に思い込んでいるが故だ。だが、聖書を最初から読み解いていけば、キリスト教というものが、そんなエセヒューマニズムめいたことを掲げる宗教ではないということがわかるはずなのだ。

そういった不勉強による無知が、今の日本のスピリチュアルに蔓延している気持ちの悪い「仲良しごっこ」を生み出している。批判する相手を「愛がない」だの「魂のレベルが低い」だのと言って貶めるその態度は、自分の無知を曝け出しているようなものだ。愛だの光だの、キリスト教の常套句を持ち出してくるのなら、聖書を全部読んで正しく理解してからにしろ、と。

大体、「魂のレベルが低い人がする批判という行為」を行ったイエスについてはどうなのか?と。やっぱり愛がなくて、魂の波動が低い人なんですかね?

「上辺だけで裁くのを止め、正しい裁きをしなさい」イエスは言っている。「一切の裁きを行ってはいけない。裁きや批判は悪だ。罪だ」とは、ひと言も言っていない。スピおた達が勝手にそう解釈しているだけだ。

キリスト教において、「裁き」は存在する。不信仰等そういった傾向のある信者は、その段階に応じて「訓戒」「陪餐停止」「除名」という処分を受ける。無条件にすべてを受け入れ許し合う―キリスト教は、そんな甘っちょろい宗教ではないのだ。大体何をやっても許されるなどという都合の良い話があるわけがない。

どんな宗教も、「服従」と「戒律を守ること」が厳守される。甘やかされて受け入れられて―というような、「何でもあり」の世界ではないのだ。身内にこそ厳しい―それが「宗教」だ。批判も裁きも存在する世界なのだ。

身内同士で群れて、ひたすら和気あいあいの仲良しごっこに終始して、勝手に捻じ曲げた解釈を自分達の都合の良いように振り回す。挙げ句に「上から目線」の中傷で批判者を貶める―そんなぬるさと甘さと愚かさにどっぷり浸かったスピおた達が「真理」を語るとは、まったくもって片腹痛い。

「日本に蔓延するスピリチュアル=キリスト教」という認識がまるでないスピおた達は、何も知らぬまま、嬉々としてその教えに従っている。まるで見当違いの解釈と、「真理」だと思い込んでいるものを得意げに振りかざして。「アナタハ 神ヲ シンジマスカァ?」実際のところは、ただキリスト教の「勧誘」に引っかかっただけなのだ。

「批判=悪」と決めつけるスピおたは、真理どころか、何も理解していないということだ。えらそーにあれこれ説いてはいるけれど、実際は、イエスの言うところの「偽預言者」「羊のなりをした貪欲な狼」なのかも。「人を裁くな!批判するな!」なんてヒステリックに叫んでいたら要注意だ。まあある意味わかりやすい特徴かもしれない。間違った解釈の上に成り立つスピリチュアリズムなど「無」に等しい。所詮「虚構」なのだ。

イエスは言う。「狭い門から入りなさい。滅びに到る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです」

天使だのオーラだのパワースポットだの、そういった馴染みやすいお気楽なものを取っ掛かりにして深みにはまっていく―日本で流行中のスピリチュアルへの入り口は、まさに「大きな門」「広い道」そのものだ。果たしてそれは、どこに続いているのだろうか?

不勉強が招く無知と曲解がどれだけ歪んだ価値観を植えつけるのか―スピおた達は自分自身と照らし合わせてみるといい。少なくとも、あなた方が信仰する「スピリチュアル」という新興宗教の「親」、キリスト教は、「批判・裁く=悪」とはひと言も言っていない。浅薄な受け売りの知識と、「真理」を体得したと自称するその傲慢さが生み出すものは、ただの「害」でしかないのだ。

【追記】「批判=悪」とか、妙な理屈を唱える人が世の中に増え始めたのは、日本に「スピリチュアル」が入ってきた時期(24~5年前くらいから)とリンクしている。第二次世界大戦で敗戦国となった後、「今後天才を出さないために」行われた洗脳教育で「下地」が出来ていたところに、更に追い討ちされたわけだ。

「どうしてみんな比べたがるのぉ?争わなくてもいいじゃーん。ナンバーワンにならなくてもいいんだよー。だってもともと『特別』な存在なんだからぁ」なんて言っている歌が大ヒットする時点で、この国は「もうあきまへん」な状態なのだ。そんな曲を子供の頃から繰り返し聞かされていたら、そりゃあ「批判・忠告=悪」と思うようにもなるわな、と。

「裁き」や「批判」を拒絶し、耳ざわりのいい言葉しか聞かない―そんな人間が増えたから、今この国は「無法地帯状態」なのだ。まあ結局、いろいろな意味で「キリスト教に屈した」ということだ。

ノーベル平和賞選考中、あれこれ圧力をかけていた中国に対し、ノーベル賞委員会は「大国であればあるほど、批判に耳を傾けるべきだ」と声明を出していたが、スピおたにそのまま進呈したい言葉かと。だってやっていることは中国とまったく同じですから。


■関連記事

尊異論

「甘口」に徹する日本のスピリチュアル

サッカー小僧に覆されたエセスピリチュアル

スピリチュアリスト達の矛盾

外来の弊害

イン アンド アウト

スモールワールド

上から目線のスピリチュアル

無知の無知

解けない洗脳



カテゴリ :はい論破!スピリチュアルと自己啓発の矛盾とからくり トラックバック(-) コメント(-)
≪ トップページへこのページの先頭へ  ≫