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上から目線のスピリチュアル

 2010-08-21
「自分は悟りを得た」「私は覚醒した」という妄想に取り付かれているスピリチュアルおたく(以下「スピおた」)の人々は、いつも決まって「上から目線」だ。自分自身を「高尚な魂を持つ存在」と思い込んでいるので、言動が傲慢になるのも、ある意味仕方のないことなのかもしれない。

彼らは、その強い自己愛故に他人の目から見た自分、いわゆる「体裁」というものを非常に気にする。評判に傷がつくことがないよう、その傲慢さが表に出ないように常に気を配っている。だが、用心深く振舞っていても、「素」というものは、意識の隙間をついて浮かび上がってくる。口に蜜あり腹に剣あり―それが彼らの「本性」なのだ。

第三者に批判された時に、彼らの「腹の底」が透けて見える。過剰な自己愛から来る「自己防衛本能」が作動し、自分を正当化することに躍起になる。普段意識して隠している「驕り」がそこに出現する。

自分を批判された時に、スピおたが言う台詞は大抵決まっている。「低い波長の人は大きなコンプレックスを持っているから悪口や文句を言うのです」「砂糖が甘いということは、それを舐めた人にしかわからない。真理に到達していない人はそれを知らないから、到達した人に対してあれこれ言うんです」「他人を批判した人にはカルマが発生します。性格が悪くなったりひねくれたりするという形で自分に返ってきます」

話にならない。謙虚さの欠片もないというか、どれだけ傲慢なのかと。本人達がそのことにまったく気づいていないことが、さらにイタさを誘う。「低い波長の人ナンタラ」「真理に到達していないからウンタラ」「人を批判すると性格がカンタラ」すべて「自分のほうが(相手より)上にいる」という前提での発言なのだ。「一体何様?」と。

批判者に対する「上から目線」の発言が彼らから出てくる度にいつも思う。「あなた方が大好きな『宇宙の法則』や『カルマの法則』は、ご自分には適用されないんですかね?」と。

スピおた御用達の「宇宙の法則」「カルマの法則」というのは、いわゆる因果応報、「自分が出したもの・与えたものが返ってくる」ということ。彼らはこの法則が大好物だ。何かにつけて「宇宙のぉ~」「カルマのぉ~」とやっている。

その割には、彼らはその「法則」をまったく理解していない。その時々に応じて、自分に都合よく当てはめたり引っ込めたりしているだけ。本当にそれらを理解しているのなら、まずこう思うはずなのだ。「批判を受ける原因はどこにあるのか?」と。「何が批判を引き寄せているのだろうか?」と。

彼らはこうも言う。「すべてのことには意味がある」「今起こっていることはすべて正しい」だったら、なぜ批判の中に「意味」を見出そうとしないのか?向き合おうともせずに、それを「悪」「攻撃」として締め出すのはなぜか?「いつも正しいこと」が起こるというのなら、自分に対する批判も正しいということだ。だったらなぜその「正しいもの」を恐れるのか?

自分の出したもの―行動や発言が理不尽だったり、矛盾していたり、偏っていたりしていれば、当然それに気づいた第三者から批判や指摘が入って当たり前。内容がどうであろうと、もしそれがきちんと理に適った納得のいくものであれば、「こういう考え方もあるんだな」と誰も何も言わない。「考え方の相違」だけで終わる話。

矛盾や偏見、屁理屈を振りかざし、それを「真理」として他人に一方的に押しつけるという「原因」があるから、批判されるという「結果」になる。自分が出したものや与えたもの返ってくるという「法則」がきちんと働いているではないか。

彼らの場合、その批判が「自分にとって不本意なもの」である時、「原因」はすべて相手側にあると考えるようだ。「レベルの高い自分」に原因があるとは思いたくない。「魂のレベルが低いから」「覚醒していないから」自分はその「レベルの低い人達」に八つ当たりをされている、不満の捌け口にされている被害者くらいに思っている。だが、批判を引き寄せているのは、他ならぬ彼ら自身なのだ。

彼らは「批判」を「攻撃」「悪」としか受け止めない。「ひょっとしたら、そうされる原因は自分にあるのではないだろうか?」という考えに及ばないのは、心のどこかに「スピリチュアルに生きている自分」「スピリチュアルに目覚めた自分」という驕りがあるからだ。

「批判」とは、言いっ放しや言い逃げが可能な匿名の掲示板やコメント欄に書き込まれる根拠のない「中傷」とは訳が違う。「この部分が矛盾している」「ここがおかしい」きちんと論理と根拠に基づいたものだ。それを一方的に排除しようとするのは、狭量さの表れだ。有り体に言えば、「正しい自分」が意見されることが我慢ならないのだ。

「謙虚さを持つ人」は、常に自分を客観視することが出来る。批判を「別の視点からの見え方」として、自分を省みる材料にする。「批判する人はコンプレックスを持った波長の低い人」とか「他人を批判したカルマは、自分の性格が悪くなることで返ってくる」などという相手を貶めるような発言をする前に、まず自分自身の言動をチェックする。それは「卑屈さ」とはまったく違うものだ。

「自分は正しい」という思い込みをベースに物事を捉えるから、「正しい自分を批判する相手がおかしい。間違っている」となる。当然、批判や指摘を「自分を否定するもの=攻撃」としか受け止められない。どれだけ自分達が偏った位置にいるか、物事を偏った視点で見ているか―彼らはそのことにまったく気づいていないのだ。そして、そういった部分は、彼らの価値観や本音、本質といったものの表れでもある。

そして、「批判したり否定するのは愛がない」などという妙な定義の下に繰り広げられる気持ちの悪い仲良しごっこが、更にその「無知」を増長させるのだ。その結果、「裸の王様」が溢れかえる。「本当の自分の姿」を知らない、知らされない、知ろうともしない人々が。


逃避願望と自己愛が強く、自分を省みる謙虚さを持たないスピおたにかかったら、「宇宙の法則」も「カルマの法則」も、簡単に捻じ曲げられてしまうのだ。なぜなら、彼らにとってあくまでも「正しいのは自分」なのだから。自分が正しくあるためには、自分のプライドを守るためには、どんな手を使ってでもそれ以外のものを捻じ曲げる―それが彼らの流儀なのだ。




【追記】「他人を批判すると、そのカルマは自分の性格が悪くなるということで返ってきます」「低い波長の人が他人を批判するんです」とか、何言ってんだかの世界です。「他人の目を気にして言いたいことを言えない人」が言うに事欠いて、悔し紛れに「おまえのかーちゃんでーべーそー!」と悪態ついているようにしか思えません。

そんなこと言ったら、学校の授業にも取り入れられているくらい議論が盛んなアメリカなんて、波長が低くて性格の悪い人だらけじゃないですか。議論には批判が付き物ですからね。白熱してくると、そりゃあものすごい状態になります。

どうして「批判=悪」となるんでしょうね??完全に個人の価値観というか、思い込みです。まあそう決めつけるのは、意識の中に、「はっきり物を言う人」に対しての妬みや憎しみのようなものがあるということです。過去にそういったことにまつわるトラウマがあったりとかね。その人の「こだわり」から、その人の「過去」や「恐れているもの」などが推測できるわけです。

自己愛が過剰な人の文章というのはすぐ判ります。くどくどと言い訳がましいですから。「これはこういうことであってこういう意味ではありません」とか。「懇切丁寧」とは全然違います。媚びも目立ったり。自分のブログなのに誤解されないように気を使ったり、好かれるようなことを言おうとするあまり言いたいことも書けないなんて、一体意味があるんですかね?ある意味気の毒です。

「自分が何を言いたいか」ということより、「どう言ったら他人に受け入れてもらえるのか」「気に入られるにはどんなことを言ったらいいのか」ということが大事なんでしょうね。

「人を批判すると性格が悪くなる」って言いますけど、性格が悪くなるというカルマを恐れるあまり、言いたいことを溜め込むほうが、よっぽど「歪んだもの」をもたらすと思いますけど。表面上は「いい人」に徹して、実は腹の中では「上から目線」全開で、人を小ばかにしているスピおたさんを見ていると特にそう思います。

傲慢さと、自分に都合の悪いことから逃げ回って相手を攻撃するということから生じる「カルマ」は、当然スピおたさん自身に返ってくるんですよね?だってそれが「宇宙の法則」ですもんね。

どちらにしろ、自分を批判する相手を「理不尽な因縁を吹っかけて絡んでくるチンピラ」扱いした挙げ句、「上から目線」を装って逃げるのは、卑怯者のやり方です。




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