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「一条の鉄」がない真理

 2010-07-13
「スピリチュアルおたく」がぶち上げる「真実」とやらは、結局のところ、自分自身の矛盾を弁護するための「言い訳」かと。所詮は思い込みと付け焼刃の知識の寄せ集めで成り立っているものなので、やがて「ぼろ」が出てくる。それを隠すための「つじつま合わせ」が必要になるのだ。

「無理を通せば道理が引っ込む」と言うが、スピオタのやり方がまさにそう。自分達の矛盾を「正」として押し通す。年がら年中「宇宙の理」とか言っている割に、その「理(ことわり)」を平気で捻じ曲げて、自分達を正当化しようとするのだ。


ある時「宇宙の叡智」を体験し、大きな感動と衝撃を受け、そこで得たものを「同胞」に伝えることが自分の使命だと悟り、ミュージシャンとして身を置いていた芸能界を即時に引退して「スピリチュアル塾」を開いた元ミュージシャンのブロガーさん、めちゃくちゃな論理を展開している。

この人によると、「言葉を超えた宇宙の神秘というものは、矛盾する真実の向こうに存在する」らしい。「真実とは、本来イエスとノー、どちらも含んでいるという矛盾したものなので、『本当のこと』を伝えるには、徹底的に矛盾するしかない」とのこと。

「生きていることは『変化すること』。昨日は『赤が好き』と思ったが、今日になって『黒が好き』と思うことも真実。一貫性がなくてもいい。『その時の自分』を生きていこう」「自分は、理路整然として一貫性を持っている人が信じられない。なぜなら、そこにはある種の『作為』があるからです」

「一貫性があること=作為がある」というその決めつけは、ある意味衝撃的。こういう発想をする人を初めて見た。「作為」ねぇ・・・。この人、本気で言っているのだろうか?こちらからしてみれば、言うことがその都度変わるわ、自分の矛盾を正当化するためには道理を平気で覆すわ・・・という人が多いスピリチュアル業界の人達のほうがよっぽど不思議。その「一貫性の無さ」の理由を、逆に聞いてみたいのだが。

あえて言わせてもらうなら、多分この人は、過去に、自分の言動に「一貫性」を持たせるために、それがあるように見せかけるために、何らかの「作為」を行ってきたのだと思う。そうでなければ、こういった発想は出てこない。

自分の信念や思考に一貫性がある人は、「作為」などというものとは無縁だ。自分の中に揺るがない何か、「核」や「芯」が存在し、それに基づいての言動をする。だからそこには自然と一貫性が現れる。いちいち「あの時自分はこう言ったから今日ははこう言わなきゃ」など、わざわざつじつま合わせをすることもない。中心に存在するものが確固としていれば、必然的に言動も首尾一貫したものになる。

「作為云々」という言葉を持ち出すこと自体、その人自身の中に、何かそれに関連する何か―例えば、「いつも不安定で定まらない自分」や「信念を持たない自分」に対するコンプレックスや、それを持つ人に対する反感や嫉妬心のようなものが存在するのだと思う。この人の「本音」「本質」が、その言葉に凝縮されているように思えて仕方ない。

実際、この方の文章を読んでいて一番感じるのは、厭世観と疲労なのだ。どんなに明るい内容や表現の文章でも、その印象は共通している。簡単に言えば、「悲観主義」。それがすべてのベースになっている。常に「暗さ」を感じるのはそのせいかと。

「若い頃スターになりたかった。売れっ子の同業者の友人が羨ましくて仕方なかった。寝る間も惜しんで曲を書いた。感じの良い笑顔や表情を練習した。でもスターにはなれなかった」「今過去生がどうとか流行っているけど、そんなものは思い出さないほうがいい。それは今生と同じくらい苦しくて惨めで、なんとか日々を乗り切って、最期は失望と未練の中で死んだんだから」「人を非難したくなった時には思い出して欲しいんだ。その人も大きな荷物を背負った孤独な人なんだってことを。その人も本当は愛されたいんだよ」とか。

さすが元ミュージシャンだけあって、言うことも情緒的というか、まるで歌の歌詞みたいだな~と。

「すべては今ここにあるんです」「すべては中立、グレーなのです」と説きながら、「人生は闘うか降伏するしかない」「みんな一つの存在なんだから、競争なんかしなくていいんだ」とか。実際に言っていることは完全な「二元論」。明らかに「偏っている」。全然「グレー」じゃないじゃんと。

傍から見ている人間からすれば、「今ここが大事なんです!」と言いながら、実際は、自分の過去の満たされなかった思いやコンプレックスの「つじつま合わせ」に他人を巻き込んでいるようにしか思えない。いつ撮られたものかは知らないが、ブログのプロフィールに使われている写真も、大勢の観客だかファンだかを前に、ステージに立っているものだし。

「一貫性がなくてもいいんだよ~」というのは、実は「一貫性のない自分」への慰めの言葉であり、自己弁護なのだ。生き馬の目を抜くような芸能界での競争に疲れてレースから降りた自分、貫き通せなかった自分の不甲斐なさを、「スピリチュアル」という高尚な響きのある世界(実際は下世話)を隠れ蓑にして正当化しているだけのように思えるけど。


このブロガーさん、元ミュージシャンだけあって、「その時の気分と感覚」を中心にして物事を考えたり、捉えたりする人かと。それに左右される人。その瞬間に感じたことが、自分にとっての「真実」になるタイプ。だから言うことがコロコロ変わる。「好きな色が昨日と違っていてもいいんだよ~」と言うのがその証拠。いわゆる「芸術家タイプ」というやつだ。

その時の体調とか気分とか、何かの拍子に一瞬で変化する不安定な「好み」や「感覚」の問題を、本来不変なものである「事実」や「真実」と同列に並べて語る傾向があるのだ。いつもは「絶対にご飯党」の人が、何かの拍子に朝から晩までパンしか食べたくなくなるようなことさえ、「真実」に組み込むタイプ。「それとこれを同レベルで考えるか!?」という「次元の違うこと」を、すべて一緒くたにしてしまうのだ。

だが、本人にしてみれば、そこには「矛盾」など存在しないのだ。なぜなら、その都度感じたことは、すべて自分にとっての「リアル」なのだから。本人からすれば、「だってあの時は本当にそう感じたんだもん。でも今はこう感じるんだもん。全部本当のことなんだから仕方ないじゃん」となる。これだから「感」で物を言うスピリチュアリストはやっかいなのだ。


そもそも「ベース」にしているものからして違うのだ。「言動に一貫性のある人」は、信念や道理といった、いわば「時間を経て積み上げてきた強固なもの」「ちょっとやそっとじゃ揺るがないもの」「不変なもの」を核としている。だが、「そうでない人」は、一時の、その瞬間の気分や感覚など、「移ろいやすい不安定な要素のあるもの」を中心に据える。だから「一貫性のある人は作為云々」という発言が出てくるのだ。

本人達には、「自分達が正しい」という自負が常にあるので、当然それ以外のものは、「間違っている。おかしい」となる。「悟りを得て覚醒した人間である自分達は、常に思考が変化する。そんな高度な魂を持つ自分達でさえ一貫性を持たないのにおかしいじゃないか。一貫性を持つ奴らは、そう見えるように何か裏で工作をしているんじゃないか?その振りをしているんじゃないか?高いレベルにいる自分達が出来ないことをやれるのは、何か裏があるんじゃないのか?」と。

そして、「常に正しい自分達」を正当化するために、半ば悔し紛れの妙な理屈を捏ね始める。「真理は矛盾を含んでいる」とか「矛盾する真実の向こうに言葉を超えた宇宙の神秘が存在する」とか。ご大層に聞えるが、実際は、自分達の不安定さから来る矛盾、「確固たるもの」を持たない自分自身を正当化するための「言い訳」なのだ。自分達の気概のなさを「綺麗事」にして逃げているだけだ。

仏教に、「万里一条の鉄」という言葉がある。万里の間も一条の鉄で貫通する。すべての現象は時々刻々に変化するが、真理は永遠に連なっている―という意味。「一貫性」に対して「作為」を感じるこのブロガーさんは、これをどう捉えるのかと。こま切れの「真実(とか言っているもの)」を繋ぎ合わせた先には、一体何があるのやら。

「本当のことを伝えるには徹底した矛盾が必要」?そんなことはない。決して揺るがない、何ものの影響も受けない不変のものである「事実」に照らし合わせたらいいだけだ。そこに個人の感情やら感覚を持ち込むから面倒くさいことになる。スピオタの大好物の「法則」とやらも、本来はそういったもの。「法則」や「真理」は、個人の矛盾や感情、感覚などに左右されるものではないのだ。

それはあくまでも「自分の経験」「自分の感覚」から出た言葉。ナントカ塾とかナントカスクールとか銘打って開催している、お互いに群れて慰めあうための「同胞」集めの場所で、それを唯一無二の「真理」として押し付けるのはいかがなものかと。「伝える」と言ってはいるが、実際は「洗脳」だ。


その都度言うことが違ったり、言動が合致しない「矛盾した一貫性のない人」を私は信用しない。ビジネスの場だったら、即取引中止、ブラックリスト入り。それは、過去に企業で働いていた時の経験と、自営業の経営者である現在の立場から得た教訓。そういう人と関わると、まずろくなことがない。

というか、社会人なら当たり前の心構え。絶対に必要なこと。それなのに、「スピリチュアル」においては、そのガードを一気に下げて盲目的にその「教祖」を信じてしまう人があまりにも多いのはなぜなのだろうか?

「宇宙の叡智」とやらを体験した歓喜と衝撃から「お告げ」を受けて、事前の報告もないまま一方的に「今日で辞めます」のひと言で即日所属事務所を辞めてパワースポットで修行したり、就業中に会社のパソコンで個人ブログ更新していたことが見つかって叱責されたことを逆恨みしたり、「人を裁くな!否定するな!」と言いながら、根拠のない「中傷」を平気でしたり―。

そういう「現実社会で無責任な人」を、どうして簡単に信じるのか不思議で仕方ない。どうして現実世界と精神世界を分けて考えてしまうのかと。試しに、自分がいる組織の中に、その人達がいることをシミュレーションしてみたらいい。

朝出社してきたと思ったら、いきなり「ボク、今日限りで退職します!」と仕事の引継ぎもしないで退職届を出すとか、仕事をほったらかして個人ブログ更新しているとか、根も葉もない作り話や悪口を社内外にばら撒くとか―。

「かなり迷惑な人」であることがわかると思う。実生活では確実に避けるような類の人達を、なぜ「心や意識の領域」では、「教祖」や「メンター」として簡単に受け入れ、熱心に崇め奉るのか?

現実社会をきちんと生きていけない人は、魂の世界でもきちんと生きていけるわけがない。「今ここ=現実・現在」を積み重ねてきたものが「過去」であり、積み重ねていくものが「未来」。それは魂の世界まで続くのだ。「無責任な今ここ」を生きてきた人の「現在」が、きちんとしているかどうかは甚だ疑問。

「その時自分が求めている言葉をくれたから」「感じのいい人だから」そういった「自分の都合」や「甘え」を軸にして、全面的にその人を信用するのはとても危険なことなのだ。「自分だけは大丈夫」「この人に限って」などという根拠のない自信や思い込みは、既に「危機感ゼロ」の状態にあると言ってもいい。「すべてを疑え。何も信じるな」と言っているのではない。「自分のすべてをやみくもに、容易に明け渡すな」と言っているのだ。

スピリチュアルや自己啓発に関わらず、芸能人とか、「人を相手にする職業」には、良くも悪くも「人たらし」の要素が必要なのだ。その人の「パフォーマンス」に全部乗っからないこと。「いい人」を演じることなど、最初から一連の「演出」の中に折り込み済みのことなのだから。感じのいい態度や笑顔、優しい言葉は「仕事の一部」でもある―ということを忘れてはいけない。

スピリチュアルや自己啓発分野の仕事に携わる人は、「公私の境目」が非常に曖昧になる。プライベートと仕事、両方で得たものが心や意識に反映されるので仕方の無いことではあるのだが、いつの間にか「作った自分、演じている自分」と「素の自分」の区別がつかなくなっていくのだ。

だが、本人はまったくそれに気づかない。そして、その間の、「虚像」と「実像」のギャップが特に激しい場合に生じる「矛盾」を打ち消そうと躍起になるのだ。「真実は矛盾を含んでいる」「一貫性がある人には作為がある」などと無茶苦茶な論理を振りかざして。

そういった「張りぼて」に簡単に騙される人が多い日本って、何だかんだ言って、まだ無邪気というか、無垢というか、お人好しの傾向が強い社会なのかもしれない。言ってみれば「幼稚な社会」。そして、「繋がり」や「所属意識」に飢えている人達が、今現在世の中にかなり多く存在しているということでもある。


「一貫性のないスピリチュアリスト」の言う「矛盾する真実の彼方に存在する宇宙の神秘」とか、昔取った杵柄で作ったメッセージソングみたいな戯言を、「教義」として簡単に自分の中に取り入れるのは危険かと。「感覚」や「感情」に全面的に支配されるような「バランス」の悪い人の説く真理や真実は、やっぱり偏ったものだと思うのだ。

欧米の文化やキリスト教の影響下で捻り出された「スピリチュアリズム」とやらを有難がたがったり、「悟りを得た!覚醒した!」と自称する人達の妙な屁理屈を聞いたり読んだりするよりも、一つのことに一心不乱に取り組んできた職人さんの仕事ぶりや、スポーツ選手のプレイを見たりすることのほうが、よっぽどためになると思うけど。

「一貫性」を「作為」として否定したり、「真理は矛盾しているものなんだぜ~矛盾があってもオッケーさ~♪」と意味不明の理屈を捏ねて開き直るようなスピリチュアリストの言うことが通用するのは、「同胞」だけが存在する、彼の狭くて小さい「楽園」の中だけなのだ。そして、その楽園は、「同胞のため」というよりは、むしろ「彼自身のため」に作られた可能性もある。

批判は要らない。競争も要らない。すべては一つ―「ゆとり教育」のような「真理」を掲げるこの楽園の主の真の意図は、どこにあるのか?―それを今一度冷静になって観察することだ。楽園どころか、ただの腑抜けを生産する工場だったりしてね。「競争」や「批判」のない社会が辿る末路―世界の歴史を見ればそれは明らかだ。

自分に都合のいいことしか聞きたくない。見たくない―と現実を締め出すのは、既にそれが「逃避目的」であるという証拠。「同胞、仲間」とちやほやされて、気がついたら「道連れ」にされていて大慌て―とならないよう気をつけたほうがいいかも。

自分の中に確固たるものが存在すれば、誰かが作った「楽園」などを必要とすることはないのだ。




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カテゴリ :はい論破!スピリチュアルと自己啓発の矛盾とからくり トラックバック(-) コメント(-)
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