FC2ブログ

サッカー小僧に覆されたエセスピリチュアル

 2010-07-04
「人を裁いてはいけない」「人を否定してはいけない」「人を批判するのは受容性がないから」「愛のない言葉は聞く必要がない」巷に蔓延するエセスピリチュアルの常套句だ。一連の言葉を突き詰めていくと、結局根底にあるのは「自己保身」かと。

こういうことを言い出す人は、大抵ブログなどで、過去の人間関係にまつわるトラウマを切々と語っている。裁かれ、否定され、批判され、「愛のない言葉」を言われて傷ついた経験を持つ人が多いようだ。「同じ思いは二度としたくない」「もしまた同じことが・・・」という恐れや不安を常に抱えている。それを意識させられるような言葉や態度に過度に反応する。

議論や批判を含め、どんな形であれ、「人とぶつかり合うこと」を極度に避けようとする。「=悪」と思い込んでいる人もいる。本人達は、そういった自分達の言動を「和」を尊んでいるが故と思っているようだが、それは違う。それは「和」ではなく、「回避」なのだ。

「あなたのことは悪く言わないから私のことも悪く言わないで」「私を傷つけたり嫌な思いをさせたりするようなことはしないで」という思いが、先の言葉になる。「人を云々」と言ってはいるが、実は自分自身がそうされたくないのだ。否定されたくない。裁かれたくない。批判されたくない。「愛のある言葉」しか聞きたくない―結局ベースとなっているのは、自分の中にある恐れや不安なのだ。

彼らの様子を観ていればよく分かる。場の空気が悪くなろうが、誰かに嫌な思いをさせることになろうが、「その時言わなければならないこと」を決して自分から言い出そうとはしない。お互いの顔色を窺いながら、自分以外の誰かがそれを言ってくれるのを、ひたすら待ち続けるのだ。自分は決して「悪者」になりたくないから。そうしなければ自分が傷つくことになる。

誰かがその役を買って出た時に見せる、彼らの安堵したような一瞬の表情と空気―それが何よりの証拠。とりあえず「悪役」になることから逃れられると、途端に態度は一変する。自分が安全圏にいることを確認できると、例の定義を持ち出して、あれこれ言い出すのだ。その場ではだんまりを決め込んで、後で陰口や根拠のない中傷をし始める者もいる。

お互いに耳ざわりのいい言葉しか口にしない馴れ合いの関係。表面だけの「仲良しごっこ」。それをもっともらしい言葉を持ち出して正当化しようとする。そうやって自分達の「魂胆」を隠そうと小細工するところがいやらしい。「人とぶつかり合うこと」にトラウマを持つスピリチュアルかぶれの人によく見られるやり方だ。


そういった意味不明の定義を駆使して、ひたすら「仲良しごっこ」に終始したがるスピ系ブロガーさん曰く、「心が萎縮するようなメッセージ、気分が暗くなったり重くなったりするメッセージには愛がありません」「心や気持ちが軽くなるメッセージこそが愛であり、宇宙の真理なのです!」

ふーん・・・面白いこと言うね。それじゃ、本当に相手に必要なものが、あなたが言うところの「愛のないメッセージ」のほうだったらどーするわけ?「良薬は口に苦し」っていう言葉もあるし。明るく軽く楽しげな響きのものだけが、愛や真実を伝える―っていうその「決めつけ」は何が根拠なわけ?「愛」って、本当にそれだけの要素で成り立っているものなの?

先日、サッカーワールドカップに出場した選手団が帰国した。今回活躍が目立った本田圭佑選手が、インタビューの際、こんなことを言っていた。「チームメイトは仲間であり、親友です。でも、自分達はただの仲良しこよしの集団じゃないんで、お互いにきついことも言うし、雰囲気が悪くなることもあります。でも、試合に勝った時なんか、そんなことは全部吹き飛んでしまう」

帰国前日にも、代表選考から練習風景まで、ワールドカップ出場までの彼らの様子を1年間記録したドキュメントをテレビで放送していたが、練習時の様子など、鬼気迫るものがあった。罵声や怒声が飛び交い、ピリピリした緊張が漂う。否定や批判は当たり前。フォーメーションの練習中、飲み込みの遅いチームメイトに苛立って、「あのフォワード変えて!イライラする!」と本人を前に怒鳴ったり。そんなことはしょっちゅうだ。

相手を否定しない。批判しない。裁かない。愛のない言葉を言わない―スピリチュアリストが定義するように、それが真の愛だというのなら、日本チームには「愛」などなかったと言える。

だが、ベスト8進出を賭けたパラグアイ戦で、惜しくもPK合戦の末敗れた時の彼らの様子を見れば、スピリチュアリスト達が説く「愛」の定義など、完全な嘘っぱちだということが分かる。無言で抱き合ったり、肩を叩いたり―お互いを気遣い、労うあの場面には、そんな安っぽい定義などは当てはまらない。シュートを外したチームメイトにも、くどくどと「心や気持ちが軽くなる言葉」など掛けていない。だが、彼に対する仕草や表情から、心の内は十分伝わってきた。

チームメイトとなってからの1年、その間彼らはさんざんぶつかり合ってきた。「あんな奴すぐ交代させろ!使えない!」「おまえのやり方じゃ通用しないんだよ!」とお互いを否定し、批判したこともある。相手を萎縮させたり、またその逆もあった。いわば、スピリチュアルの定義とはまったく逆のことをしてきたのだ。だが、そこにはちゃんと「何か」が生まれ、存在していた。

私には、「愛とは何か?」ということは、未だによく分からない。だが、彼らの姿を見ていて、これだけは思うのだ。否定しないこと。批判しないこと。裁かないこと―巷で言われている定義は、ただの「逃避」であり、自己保身のための「言い訳」に過ぎないと。

例えそれらをしたとしても、「愛」、もしくは「そのようなもの」、もしくは「それに値する何か」は、何物の影響も受けることはない。むしろ、何かの影響で崩れるような脆いものなら、それは多分「愛」ではないのだ。

彼らは、「全力を出し尽くす」という決意の下、ひたすら全力でトレーニングに取り組む。チームメイトが出すパスに反応できない自分自身への苛立ちを、「その感情をただ感じつくす」などという妙な修行で誤魔化したりしない。即座に次のパスを取りに走る。シュートが成功した時のイメージトレーニングをすることはあっても、ボールを蹴る前に、「シュートを決めさせてくれてありがとうございます」などという「先取りの感謝」はしない。ハイヤーセルフに「どんな作戦を立てたら勝てますか?」などと尋ねたりはしない。

スピリチュアルとは多分無縁の、「他の物には興味ねーし」とサッカー一筋に打ち込んできたサッカー小僧達が証明してくれたものこそが、限りなく真実に近いものではないだろうか。

「このチームでもっと戦いたかった」口々に言う彼らの様子を見れば、それが口先だけの言葉でないことが分かる。たとえ相手を否定しようが、批判しようが、「愛のない言葉」を連発しようが、スピリチュアルの世界で「タブー」とされていることをしたとしても、「本物の関係」は作れるのだ。

セミナーをはしごして身に着けた上っ面だけのエセ定義は、ひたすら一つのことに全力で取り組んできた人達が放った「事実」によって覆された。甘くて優しいものだけが「愛」ではない。それに該当しないものはすべて排除するその姿勢、「逃避」以外の何ものでもない。


こんな明白な事実を目の当たりにしても、それでもまだエセスピリチュアリズムにしがみついて「仲良しごっこ」を続けるんですか?「スピリチュアリスト」を自称する皆さん?





■関連記事

勘違いの被害者意識

愛は「愛」でしかない

スピリチュアリスト達の矛盾

スピ系支配者の手口

「甘口」に徹する日本のスピリチュアル

口だけ系自己満足型スピリチュアリスト



カテゴリ :はい論破!スピリチュアルと自己啓発の矛盾とからくり トラックバック(-) コメント(-)
≪ トップページへこのページの先頭へ  ≫