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イン アンド アウト

 2010-07-08
スピリチュアルや自己啓発系のブログを読んでいると非常に疲れる。一番の原因は、「筋が通っていないから」。論理が破綻しているので、書いている内容を把握するのに何回も読み直さなくてはならないことも度々だ。共感とか反論以前に、「何を言ってるのかさっぱりわからん」というレベル。

大半がセミナーや関連書籍等からの受け売り―いわば、そこから得た知識を切り取って、自分に都合の良いように繋ぎ合わせただけのものなので、一貫性に欠け、矛盾に満ちている。それに加え、「自分は悟りを得た!覚醒した!」という自負や、そこから来る優越感を前提に物を言うので、余計にやっかいなのだ。

その人の発言に基づいた根拠のある批判をしても、ネタにされた腹いせに「人のことをあれこれ言うのは受容力がないからです!ヒマだからです!そういう人こそ自分を棚に上げて何もしない人です!」等と、実際会って話したこともないのに「見えない部分」を妄想で決めつけて中傷してくるような類の人はご遠慮願いたい―というのが正直なところ。

「他人を裁くな!否定するな!」と言う割には、自分がそれをしていることさえ気づかないような、妙な選民思想に囚われている幼稚な人とは、出来れば関わり合いたくもない。そんなヒマがあったら、好きな作家の小説でも読んでいたい。「だったら読まなきゃいいじゃないか」と言われそうだが、そうはいかない。そうせざるを得ない理由がある。


カウンセリングの最中、「これはこの人の中から出てきた発想じゃないな。何かの受け売りだな」と感じることがある。それはその時々、人によって異なるのだが、簡単に言えば、「違和感」や「矛盾」のようなものだ。使う言葉やその時の表情等、そういった表面的なことを含め、「何かおかしい」という感覚が沸き起こってくる。

その人自身とそれらがマッチしないというか、どこかちぐはぐなものを感じるのだ。話の前後も噛み合わないし、妙な引っ掛かりを感じる。本来そこには存在しないものを、無理矢理ねじ込んだかのような。精進料理の中に、ステーキの皿があるような感じで。そして、その部分こそが、クライアント本人の悩みや苦しみの「原因」になっていたりする。

その原因の「元」は、十中八九、スピリチュアルや自己啓発系ブログ。特に、ブログランキングなどの上位にあったり、書籍の出版や講演会、セミナー主催等メディアに露出している度合いが多かったり、熱心な「ファン」がついているようなものであることが多い。

人間は、どうしても「多数の側」を重んじる傾向がある。「これだけ多くの人が読んでいて、良いことを言っているし、マスコミにも出ている人のブログだから間違いない。きっと正しいことを言っているに違いない」という感じで。

最初からそのブログを、「正」として位置付けてしまうので、内容に共感できなかったり、正反対の考えを持つ自分を、無意識に「自分が間違っている。共感できない自分は問題がある」と思い込んでしまうのだ。

コメント欄が肯定的な意見で埋め尽くされている場合などは特にそうだ。「少数派」の自分は間違っているのではないか?人として欠陥があるのではないか?と、自分に対してネガティブな意識を向け始めてしまう。そして結果、自分の意識や思考を、他人のそれに無理矢理合わせるようになる。

輸血の際に、適合しない血液型を体内に入れれば、当然「拒絶反応」が起きる。それと同じことが、意識や心の部分に起きるのだ。だが、既に「自分が間違っている」という意識に囚われている人からすると、その血液型に適応できない自分のほうがおかしい―ということになる。だから自分のほうを「矯正」しようとするのだ。


「それはご自身の考えなんですか?どういう経緯でそういった考えに行き着いたんですか?」と聞くと、大抵「実は○○っていうブログに書いてあったことなんですけど・・・」という答えが返ってくる。「いい人そうだし、大勢の人がその人の意見に同意してるから、多分それが正しいことなんだと思って・・・」あまりにもそう言う人が多いので、必要上いろいろとチェックするようになったのだが、まあ驚いた。

これだけ多くの人がスピリチュアルや自己啓発系ブログを読んでいるということもさることながら、何よりもその内容が・・・。論理は破綻しているは、言動は矛盾しているは、正直「なんだこれは・・・」と呆れるようなものが蔓延している。正直「これはやっかいだぞ」と。その大半は、自説の「押しつけ」「強要」なのだ。

多くの人が、その押しつけられたものによって、更に深く落ち込んでいく。だが、「後付け」の、自分を無理矢理押し込めようとしたその「自分には適応しない教義」を取り去った場合の視点を提供すると、その人達皆が見違えるように変化する。今後自分はどう行動したらいいのか、どう考えたらいいのか―それを自分自身で見つけることが出来るようになる。

そもそも、それぞれ背景や原因が異なる人達に、同一の思考を適用しようとする時点でおかしいのだ。それは単なる「洗脳」だ。

自分から進んでそういった分野のブログを検索して読むということは、「心身共に弱っている時」がほとんどだ。特に、自分が求めているもの、欲しかった言葉をそこに見つけた場合、人は一気にのめり込んでいく。そのブロガーが救世主に、ブログがバイブルになる。人は、心のどこかで「絶対的なもの」を求めている。そこを突かれるのだ。

一度そこにはまり込んだが最後、多くの人はそこから出ようとしなくなる。「もっと違う考え方があるかも。もっと違う世界(視点)があるかも」などとも思わなくなっていく。やっと見つけた「安住の地」。ちょっとぐらいの不都合は、自分が我慢すればいい―そう思うようになる。それにたくさんの「仲間」を発見したことで、心強さや「所属する場所」があるという安心感も得られる。

それだけ「精神的な拠りどころ」を求めている人が多いということなのだが、多くの場合、そこはただの「避難場所」や「逃げ道」になってしまっている。

一見居心地の良さそうなその場所は、実は「牢獄」なのだ。鉄格子も無く、明るくて楽しげな雰囲気。否定も裁きも存在しない。和気あいあいとした繋がりだけがある。「同調」だけが存在する世界。だがそこは、気づかないうちに魂を抜き取られる場所でもある。永遠にそこから抜け出せない恐れもあるのだ。


「スピリチュアルや自己啓発が嫌いなんですか?」「宗教否定派ですか?」批判記事を書いているせいか、そう聞かれることがある。まあこれだけ「なんかおかしくね?変じゃね?」とか言っているので、そう思われても当然。だが、べつに「アンチ」ではないし、存在自体も否定しない。というか、「あり」だと思っている。むしろ、そういった世界とは馴染みが深い。

父方は、神社の神主を代々出している家系で、別次元の存在が見えたり、聞えたり、話せたりする人が多い。未来のことがわかったりとか。いろいろな意味で「神道」色が強い家なので、日常には、それに関連した祭事等が多かった。

母方の血筋は武家なのだが、武士から修験僧になった先祖が何人かいる。世間で結構有名なお寺のいくつかが、その先祖と深い関わりを持っていたり。離婚した元だんなさんの実家はお寺で、まあ一応「寺の嫁」だった過去もあるわけで。結構宗教色の強い環境にいたと思う。

プロの占い師やチャネラー、ヒーラーの友人知人もいる。スピリチュアルや自己啓発、宗教関係のお仕事をされている方達もこのブログを読んでくださっているようで、感想メールをいただくことも多い。

興味を持ったものにはまず手を出してみる性質なので、20年以上前から、そういった分野が世間ではまだよく認知されていなかった頃から、スピリチュアルや自己啓発のセミナーやセッションも国内外でいろいろ受けてきた。

だが、実際にその「内部」に入ってみて思うのだ。「おかしいものは、やっぱりおかしい」と。変なものは変―それは、「内部」にい続けている限りは絶対に分からない。いくら居心地が良くても、少しでも「あれ?」と違和感や矛盾を感じるのであれば、一度「外」に出てみることだ。たとえそれが9:1の割合だとしても、そのわずかな部分が、「本質」を告げている場合もあるのだ。


「人を裁いてはいけない」とか「人を否定してはいけない」とか、愛とかワンネスとか、そういったことを声高に主張する人というのは、言動を観察するかぎり、どっぷりとその「中」にい続けている人だ。批判を含め、自分に都合の悪いことはすべて排除しようとするのがその証拠。「狂信的」と言ってもいい。

「スピリチュアルは哲学だ」と言う人達もいるが、少なくとも、現在世の中に出回っているスピリチュアルの類は「哲学」とは言えない。哲学とは、本来「学問」だ。肯定と否定、両方の面が存在するべきもの。だが、巷に溢れるスピリチュアルにはそれがない。なぜならそれは、キリスト教の教義がベースになっているものだから。その偏り、排他的な姿勢や思考、同調の強要―それは「宗教」そのものなのだ。学問としての片鱗もない。

「いいとこ取りをすればいい」「まずは形から」といったことも詭弁。新興宗教によくある手口。「最初から偏ったもの」の中から選ぶ「いいところ」や「真似」は、やっぱり「偏ったもの」でしかない。最初の段階からずれているわけで、そこには本当の姿、「本質」など存在しないのだ。

そういった妙なスピリチュアリズムが今の日本にもたらしたものをよく見ればいい。受け売りの知識を切り貼りした矛盾に満ちた妙な教義を都合よく使い分け、「本来向き合うべきものから逃げ続ける人」、真似しただけで満足して、「結局何もしない人」を大量に生み出しただけではないか。セミナーを次々にはしごしたり、特定の言葉を唱えて「ナントカの儀式」を行ったり。そんな「他力本願」な人達が世の中に溢れかえっている。

「いいとこ取り」「形から」「否定してはいけない」「裁いてはいけない」所詮そんな言葉は、正当化のための言い訳なのだ。教義に反する者の迫害、信者の洗脳、「家畜」の増産―過去にキリスト教が行ってきたことが現在でも行われている。「歴史は繰り返す」という言葉通り、やっていることは今も昔も同じなのだ。

狂信的な信仰で構成された世界の中でしか、その「教義」は通用しない。「異端」を締め出すのは、それによって自分達の「聖域」が崩壊するのを防ぐためなのだ。風通しの悪い澱んだ狭い世界の中で生まれる教義は、むしろ「妄言」と言ってもいい。

内と外、その両方を知らなければ、知ろうとしなければ、物事の全体像、「本当の姿」や「本質」というものを掴むことは出来ない。「どちらか一方だけ」では、真理には到達できない。偏った教義を信仰し、盲目的に付き従う―そんなふうに自分自身を明け渡し、降伏する必要などないのだ。




【追記】スピリチュアルがどうとか騒ぐ割には、自分達が主張するものの由来や背景といったものを全然知らない人が多いようで正直呆れます。スピリチュアリズムを説いたり持ち出したりするのなら、キリスト教や仏教をはじめ、まずは「宗教」を知れと。聖書も読んだことがない、キリスト教の成り立ちや背景、歴史も知らない・・・そんな状態で、よくあれこれ語れるなと思います。受け売りの知識だけで通用しちゃう日本のスピリチュアルって、やっぱり「その程度」なんでしょうね。



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