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間違いだらけのスピリチュアルカウンセリング

 2010-08-08
スピリチュアル系のブログ―特にヒーラーや占い師等の形でセッションなりセミナーなりを開催している人達のブログを読んでいていつも思うことなのだが、「カウンセリング」に対しての理解がないと思われる人がかなり多い。きちんと勉強したことがないということも含め、カウンセリング本来の役割からは程遠いものを行っているのがよくわかる。

特に問題なのは、「スピリチュアリズムに基づいたカウンセリング」とやらを行っているパターン。何を勘違いしているのかと。スピリチュアリズムに限らず、「特定の思想や主義」を基準にして行うカウンセリングなど存在しない。前提とするものが存在する時点で、いわば「偏った状態」で行うそれは、もう「カウンセリング」とは呼べないのだ。

端的に言えば、「基づくもの」などそこにあってはいけないのだ。カウンセリングの中心になるのは、あくまでも「人」、クライアント自身。もちろん、カウンセラー自身の主義主張や志向を持ち込むこともご法度だ。何かに基づいての「前提」や、添わなければならない「基準」など一切不要。むしろ「そんなものは絶対に持ち込むな」と。

心理カウンセリングでは、精神医学や心理学の位置から助言を与えることはあるが、それはあくまでも「サポート」するためのもの。クライアント自身に現況に関する情報を伝達し、認識してもらう。現在の自分の状態を客観視してもらうために、「今のあなたは心理学で言うところのこういった状態にありますよ」という「第三者からの視点」を提供するためのものだ。そこには、「~でなければならない」「~するべき」などという押しつけや決めつけ、強要はない。

「基準」があってはならない―それがカウンセリングの大前提であり、基本中の基本。「スピリチュアリズムという名のキリスト教思想」を中心に据えてそれを行うなど、とんでもないことなのだ。「タブー」を犯しているのだから。その認識がないから、「スピリチュアリズムに基づいたカウンセリング」などと平然と謳う。

「基準」が存在している時点で、すべてが崩壊しているのだ。特定の思想や思考方法等、それがどんなものであれ、何かに人を添わせようとすることは「洗脳」や「説得」でしかない。

カウンセラーの役割は「鏡になること」。言うなればまっさらな白紙、ゼロの状態でクライアントと向き合うことが必要なのだ。自分が「鏡」になって、その人の「今のありのままの姿(状態)」を映し出し、クライアント本人にそれを認識してもらう―それがカウンセラーの最大の役割であり、すべての「始まり」となる。それなのに、最初から歪んだものが映った鏡を見せてどうするのかと。


「スピリチュアリズムに基づくカウンセリング云々」と言ってのけるのは、現在のスピリチュアリズムが100%キリスト教の影響を受けて出来たものだと知らないから。現在世の中に蔓延しているスピリチュアリズムは「宗教」であり、「キリスト教思想」そのものなのだ。

そのからくりを見抜けないのは、聖書も読んだことがない、宗教というものの歴史や成り立ちを知らないという「無知さ」と、上辺の良さに騙されて、「自分は大丈夫」と根拠のない自信と共に安易に飛びつく危機管理の意識の低さの表れだ。「スピリチュアリズムに基づいたカウンセリング」というものは、言うなれば、「キリスト教思想の押しつけ」なのだ。

西洋の宗教から生まれたスピリチュアリズムなど、本来日本人には不要なもの。「お陰様で」「お互い様」「お天道様が見ている」「あの人に足を向けて寝られない」そういった精神性がもともとある国に、神だの愛だの光だの「何を今更」なのだ。

実際、キリスト教宣教師のフランシスコ・ザビエルは、来日してまだ間もない頃から「日本人という民族は、今まで出会った非キリスト教徒の中で、最も優れた人々だ」という感嘆の言葉を書いた手紙を何度も本国に送っている。

「スピリチュアリズムに基づくカウンセリング」など、やっていることは、その実日本にキリスト教を持ち込んだ宣教師と変わらない。現在の日本のスピリチュアルブームは、言うなれば、キリスト教の「リベンジ」なのだ。

ちょっと名前を変えただけで、自分達の信仰に簡単に飛びついてきた日本人達を見て、ザビエルさん達はあの世で嬉々としてハイタッチしているかもしれない。時間こそかかったが、彼らの「野望」は結局達成されたのだから。

もしかすると、既に現代に生まれ変わって、妙な論理を振りかざすスピリチュアルブログを書いたり、怪しげなセミナーを開いて信者集めをしているスピリチュアリストとして日本で生きているのかも。


「相手の話を聞いていればいいだけ」カウンセリングとは、そんな単純なものではない。「聞く」ではなく、「聴くこと」を必要とされる。そこには常に「観察者」としての目がなくてはならない。主義主張や思想、感情―いかなる「基準」も設けない、時として「冷徹」とも感じられるような立ち位置に「聴く人」が存在してこそ成り立つものなのだ。

それは、メーカーの品質管理実験とよく似ている。完成した自社製品を、様々な環境や条件設定の下でとことん試す。例えば、時計メーカーでは、ビルの5階の窓からアスファルトの地面に時計を投げ落としたり、パソコンメーカーでは、気温42度に設定された室内で、24時間ぶっ通しで3週間パソコンを作動させ続けたりする。消費者の目線から見た場合の自社製品を、客観的且つ徹底的に検証する。

心理学の分野においても、「スーパービジョン」という場が存在する。カウンセラーとクライアントのやり取りのすべてを、熟練した他のカウンセラー達―スーパーバイザー達が検証し、それに対しての評価や助言を与えたりする機会。その場では、クライアントに対して使用した言葉の一つ一つに至るまで、「すべて」が対象となる。

基本密室で、1対1で行われるカウンセリングというものは、時としてその特性が裏目に働くことがある。第三者の不在が、カウンセラー自身が気づかない「盲点」を作り出すことがあるのだ。

「中立」「鏡」の存在でなければいけないカウンセラーが、無意識に独善的になったり、私情で反応するとか。カウンセラーといえども「人間」なので、やはり無意識に自分に対しての「緩み」「甘え」が出てくるのは否めない。自分の状態を、第三者の立場から確認してもらうことは欠かせない。惰性から来る「慣れ」を作らないためにも、自分自身を省みるためにも。

カウンセラーの「観察者」「批判者」としてのその目は、自分自身にも常に向けられていなくてはならない。第三者の視点で、常に自分自身を観察する―それが出来なければ、誰かの「鏡」にはなれないから。カウンセラー本人が、自分自身に最も厳しく鋭い「観察者」「批判者」でなければならないのだ。

どんな形であれ、「カウンセリング」というものに関わる人間には、「カウンセラーの自分」という製品の品質チェックを常に行うことが必要なのだ。公平で客観的な「第三者の目」を以って、自分自身でそれを行うということが。


術者個人の感情や価値観、精神状態等によって左右される可能性もある不安定な要素を持ったチャネリングやリーディング、特定宗教の思想や道徳が適用されるカウンセリングは、本来の形から大きく外れたものだということを忘れてはならない。

自分の「スピリチュアルカウンセリング」にものすごく自信を持っている人もいるようだが、それは「たまたままぐれのラッキー」といったところ。クライアント自身も、自分と同様に「スピリチュアルおたく」である場合などは特に「まぐれ当たり」が増える。「同じ宗教」に洗脳されている状態であれば、同意・共感可能な部分が多くて当たり前なのだ。

勘違いしている人も多いようだが、自分達が信仰している「定義」が当てはまるのは、自分達の「テリトリー」の中だけだと思ったほうがいい。もともとそこは「狭い世界」、集まる人の大半は、必然的に「同志」となる。世間の多くの人達もその思想や定義を理解しているはず、共有しているはず―という錯覚は捨てたほうがいい。

実際、「スピリチュアリズムに基づいた云々」という妙なカウンセリングを受けたり、関連書籍を読んだ結果、余計に混乱して収拾がつかなくなってしまった人達が大勢いる。それは、本来「中心にあるべきもの」が蔑ろにされた結果だ。その現実をどう受け止めるんですか?と。

スピリチュアリズムは絶対的なものではない。ましてやそれが唯一無二の「真理」でも「正しいもの」でもない。所詮人間が作り出したもの。「完全」ではないのだ。矛盾、歪み―生じるものの存在を、どれだけ謙虚に認識し、受け止め、真摯に向き合っていくか―その姿勢に、そのスピリチュアリスト個人の「器(うつわ)」が反映される。

外部からの「批判」を、「悪口「中傷」「攻撃」「憂さ晴らし」としか捉えず、それを常に排除する狭量さだけが目立つスピリチュアリストなど、器以前の問題なのだ。「カウンセラー」として必要不可欠な「自分自身に対する第三者としての目線」を持ち合わせていないということなのだから。

スピリチュアリズムの限界と真実―それらから目を背けようとする時点で、彼らの「本性」は既に明白だ。信念と謙虚さを持った人、「観察者・批判者の目」を持ったバランスの取れた人であれば、批判を「自分を省みるための材料」としてそれを捉え、活用しようとするはずなのだ。

「相手を否定しない」という「掟」に基づいて、気持ちの悪い「仲良しごっこ」に終始するスピリチュアリストの皆さんには、到底受け入れ難いことなのだろうけど。「自分が見えていない人」がスピリチュアルの世界に多いのはそのせいかと。


「歪み」と「偏重」に基づいた「スピリチュアルカウンセリング」がどんなものをもたらすのか、それにどう対処していくのか―「自称スピリチュアリスト」の人々の器がどれだけのものか、今後もお手並み拝見といこうではないか。



【追記】オーラの浄化だのヒーリングだのの前に、まずは「本当のカウンセリング」を基礎からびっちり学んでくれよと思います。「基礎」も出来上がっていない状態なのに、魂や心の領域にズカズカ踏み込んでいくのは、無謀としか思えません。小学校の算数レベルで、高校の数学を解くのと同じようなものです。

西洋の宗教が名前を変えただけの「思想」など、本来不要なものです。「スピリチュアリズムがなければ問題は解決できない」などと言っている人もいますが、そんなことはありません。「カウンセリング」の力を軽く見ないでいただきたいですね。「なめんなよ」と。要らないのは「スピリチュアリズム」とやらのほうなんで。

本来無用の長物であるものに固執するのは、カウンセリングだけで問題を解決できる能力がないからです。「=人間力の低さ」とでも言っておきましょうか。他人様にあれこれ説く前に、まずは自分自身を磨いたほうがいいかもしれませんね。

あ、言い忘れました。最後にひと言。「逃げんなよ」と。「私の使命は終わったようです」とか「古い役割は卒業します」とか「すべては自己責任です」とかあれこれ都合のいい理由を持ち出して、自分の蒔いた種から出来た物を無責任に放置して、スピリチュアルの世界からトンズラする人って結構多いので。そのへんはきっちり筋を通してくださいね。

あなた方の説くスピリチュアリズムに基づくなら、それはあなた達の「カルマ」でしょ?大好物である「宇宙の法則」にきちんと従ってください。その覚悟がないのなら、この業界からさっさと足を洗ったほうがいいかもしれませんね。




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