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都合の賜物

 2010-06-23
セラピストの仕事をしていていつも思うのだが、世の中には、「いい人」になりたがる人達が本当に多い。「周りの人全員から『いい人』って言われるような人間になりたいんです!」と言い切る人もいる。こうなると、「目標」というよりは、もはや「執念」に近い。

「○○さんてどんな人?」誰かの人となりを尋ねた時、最も多く使われる表現は「いい人」だと思う。「いい先生」「いい生徒」「いい上司」「いい女」もそう。それを聞く度に思うのだ。箸にも棒にもかからない答えだと。「やさしい」「面白い」も同様。

大体「いい人」とか「やさしい」とか、何を以って判断するのかと。人間というのは、結局は「自分の都合」を最優先する。言ってみれば、それを判断する基準は、「その人が、自分にとってどれだけ都合のいい言動をしてくれたか」という部分にかかっている。同一のことや人物に対する評価が人それぞれに異なるのはその証拠。

自分の期待通りの反応をしてくれて、自分の欲しているものを与えてくれて、自分を心地良い気分にさせてくれて―言ってみれば、「自分の好みに合った」というだけのことなのだ。それをどう感じるか、どう感じたか―中心は、あくまでも「捉える側」にある。ある意味、非常に利己的で公平さに欠けるものでもある。

「いい人」「やさしい人」とは、そういった「相手側の勝手な思い込みや都合」に基づいて、「一方的に下される評価」でしかない。「認定証」や「称号」のようなものだ。「あなたは私の期待に応えてくれた人です。私の好みに合う人です」と言われているに過ぎないということ。そして、それは「=自分という人間の価値」ではないのだ。

「いい人、やさしい人と呼ばれること=自分が上等な存在である」と思い込んでいる人が、世の中には本当に多い。「そうなることが自分を高めることであり、自分を磨くことに通じるのだ。自分がそういった存在になったという証なのだ」と、本人達は固く信じている。「修行」の成果―といった感じで。

だが、それは「他人の目、他人からどう思われているか」ということを気にしているだけ―という場合も多々あったりする。自分以外の者の中に、自分の存在価値を見出そうと必死になっているだけなのだ。


「いい人」になりたがる人達というのは、程度の差こそあれ、大抵自分自身に対して何らかの形でコンプレックスを抱いている。それは、「過去の人間関係」と関連していることが多い。職場や学校でのいじめや孤立、不仲―そういったことにまつわる嫌な思いや記憶を持っている人達だ。どちらかというと、「嫌な思いをさせられた側」。

彼らにしてみれば、自分以外のほとんどの存在は「格上」だ。かつていじめられたり無視されたりした「格下」の自分に自信がない。「劣った存在」である自分が、評価とか、決断とか、たとえそれが自分自身に関することであっても、何かを決めることに対して躊躇いがあるのだ。だから他人からのそれで自分の価値を測ろうとする。

「いい人」と呼ばれることは、彼らにとってはある種の「許可証」なのだ。ちゃんと周りの承認も得て、自分自身も「ここにいていいんだ」と安心して堂々と存在できる場所を確保できたという証明でもある。


「そんなことないです!私はもう過去から立ち直ったし、見返りを求める気持ちやコンプレックスは微塵もありません!私はそんな小さい器の人間じゃありません!」とその人達が必死になって言うことが事実なら、「『いい人』を卒業します!これからはわがままに生きます!」という「宣言」や、「あれだけ一生懸命やってあげたのに」と、自分の努力に関わらず、他人から思うような評価や反応が返ってこないことに疲れたり、落胆したり、逆ギレすることはないはずなのだ。

もっともらしい言葉を引き合いに出して、自分の打算を正当化しようとするのは止めて、もういい加減全部を認めちゃえば?と思うのだ。「今まで人に親切にしてきたのは、『いい人』って言われたかったからです」「また嫌われて昔と同じ思いをしたくないからです」と。

その人達は、「見返り」を求めるような浅ましさが自分の中に存在することや、過去のコンプレックスを未だに自分が引きずっていることを認めようとはしない。自分がそういった狭量な要素を持つ人間であると思いたくないのだ。「自分はそんな下世話なことからはとっくに卒業した」と信じ込んでいるから。

自分のダークな面や感情から目を背け、一切をシャットアウトして完璧な人格者を装おうするから、話が余計にややこしくなる。自分の中に、正と負の両面が存在することを認めず、あくまでも「正」にこだわるから、「自分には「正」の部分しか存在しない」と思い込んだままだから、「自分はいつも被害者」という意識を持つようになる。その結果が、「脱いい人宣言」や逆ギレや落胆、疲労感なのだ。


コンプレックスというものは、自分でそれを認めないから、いつまで経ってもコンプレックスのままなのだ。「劣等感」というように、いつまでも「感情」が伴う。だが、「なるほどー、自分ってこういうことを気にする人間なんだ」と認めれば、それは単なる「事実」になる。ただの「事柄」になるので、感情に振り回されることがなくなるのだ。

「いい人」と言われたいがために自分を殺して右往左往して、一喜一憂したり・・・一瞬で覆ることもある価値観や好み―しかも他人のそれに振り回されてどーするの?と。自分が良かれとしたことでも、その時の相手の「都合」次第で、まったく逆に働くこともある不確かで不安定なものに執着するのは、ちょっと筋違いだと思うのだ。

自分の評価を上げたいがための上っ面の親切は、相手に敏感に伝わるものだ。自分がしたいから親切にする―本当の「いい人」というのは、相手の評価など気にしないし、求めもしない。そこに妙な計算がないからこそ、相手の心を打つのだ。


結局「いい人」「やさしい人」というのは、自分がその人に対して満足感を与える言動を取ったというだけのこと。自分自身の存在や意味といったものをすべて委ねる先ではないのだ。




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【追記】最近よく耳する「やさしい味」っていう言葉も、「いい人」と同様、なんだかぼやけた言葉だな~と思います。聞くと思わずイラっとするのは私だけ??



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