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あわいのゆらぎ

 2010-04-24
公私問わず、たまに「なんかこの人『嘘っぽい』な」と感じる人と会うことがある。べつに詐欺師とか、犯罪者の匂いがするというわけではない。良い意味で「普通の人」。しかし、何というか、全体的に「作り物」めいている印象を受ける。端的に言えば、「不自然」なのだ。

「常に相手を見る(観る)仕事」に就いている今、仕事柄とはいえ、人の「顔(表情)」というものを間近で見ているとわかってくることがある。人間には、もともと『ずれ』が存在している。「バグ」と言い換えてもいい。

人間の顔というものは、次の表情へと変わる時、ある種の「時差」が生じる。それはコンマ何秒というような、ほんの一瞬にも満たないものだが、「AでもなくBでもない瞬間」が必ず存在する。例えば、笑顔から一転して泣き顔に変わる時、そこには「笑顔でもなく泣き顔でもない顔」がほんの一瞬現れるのだ。

表情と表情の合間にある表情。私は勝手にそれを「ゆらぎ(揺らぎ)」と名付けている。それは本人の意識が及ばないところからやって来るものであり、自身が認識しているということは多分ない。

そういったものが自分の中にあることなど、大抵の人は知らずに、気づかずに日々を過ごしていく。たとえ相手の中にそれを認めたとしても、たちまち意識の外に追いやって気にも留めない。取るに足らないような一瞬の現象。しかし、「ゆらぎ」は確実に存在する。人間が人間たる証拠でもある。

「嘘っぽい人」には、この「ゆらぎ」がない。その人達の、「ゆらぎ」がまったく存在しない顔を見るたび、私は文楽の人形を連想する。若い娘の顔が、一瞬のうちに夜叉のそれに変わる―まるで精巧なからくりの技を見せられているような気分になる。

本来あるべきはずのそれがないということは、「不自然さ」だけが強調されることになる。「違和感」と言い換えたほうが分かりやすいかもしれない。特に理由はないが、「なんか変」というような。人によったら、その人に対して居心地の悪さや、理由のない不信感のようなものを覚えるかもしれない。それは、本能が「欠如」を感じ取っているからだ。

彼らは総じて「理想主義者」だ。そして、いろいろな意味で「自分を嫌っている」。「ありのままの自分では愛されない、受け入れてもらえない」と思い込んでいる。「本来の自分の要素」をことごとく消そうとするのだ。

多くの人は、「作った自分」を気に病んだり、罪悪感のようなものを感じたりする。だが、それは「ごく当たり前のこと」だ。立場や状況等によって「顔」を使い分けるのは自然且つ必要なことであり、「作った自分」を意識しているということは、言ってみれば「健全な状態」なのだ。

だが、その意識がない人というのは、妙に整然としている。「し過ぎている」と言ったほうがいいかもしれない。あまりにも「隙」がなさ過ぎて、ある種「機械的」なのだ。

彼らを観ていると、「こういう時にはこういう顔をする」と正確にプログラミングされたかのような表情の切り替わりをする。まるで電気のスイッチを点けたり消したりするかのように、「どちらでもない顔」「どちらでもない一瞬の間」といったものが存在しない。本来人間に備わっているはずの「曖昧さ」が見られない。

「明るくて親切で人から好かれる人は、きっとこういう態度をするに違いない」「頼り甲斐のある人は、こういう表情でこんな言葉を言うに違いない」彼らは、その時々応じてに身に着ける「仮面」をいくつも持っている。それを着けたり外したり―ということを、延々と繰り返しているのだ。

だが、いつしか「仮面」が先行するようになる。着けたり外したりという動作の頻度や速度に、やがて「感情」が追いつかなくなっていく。「仮面の装着」と「仮面と符合する感情を作るタイミング」が合わなくなるのだ。当然その「ずれ」は「矛盾」を生む。この種の人達によく見られる「言動の不一致」は、そこから生まれる現象なのだ。

しかし、もともと「本来の自分」を消失させることを強く望んでいる彼らが、自身の状態を認識することはない。なぜなら、彼らにとっては「仮面を着けている自分=本当の自分」なのだから。自分に対する嫌悪や「求めるもの」への欲求が強過ぎて、「理想像」に対する憧れのほうが勝ってしまう。強烈な自己暗示の状態にある―と言ってもいいかもしれない。「これが自分。これが『本当の自分』」と常に自身に向かって言い聞かせている状態なのだ。

そして、自ら「プログラム」を作動させる。いつでも「適切な仮面」を選ぶことができるプログラムを。いつでも「理想の自分」でい続けられるように。瞬時に「求められている自分」を見せられるように。「完璧な人間」には、「どちらでもない」などという「中途半端さ=ゆらぎ」などあってはならないのだから。

彼らはまったく気づいていない。その「精巧さ」「緻密さ」が、かえって自分の「不自然さ=矛盾」を際立たせることになっていることを。

「どちらでもない」という一瞬の間、「あわい」に出現する「ゆらぎ」があってこそ、人は初めて「生身」の、「本物の人」となり得るのだ。



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カテゴリ :三位一体―心と体と魂の話 トラックバック(-) コメント(-)
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