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観察者

 2010-03-13
数日前、ミュージシャンの男性が覚醒剤所持の現行犯で逮捕された。逮捕に繋がる職務質問のきっかけとなったのが、「車を運転中のその男性が、すれ違った警察官から目を逸らした」という些細な行為。

「やっぱり『刑事の勘』ってやつ?」「さすがプロだねー」視線が合った他人から目を逸らす―という、誰もが日常に無数にしているであろう「当たり前の行動」を不審に思って職質をかけた警察官に、「やはり仕事柄人を見抜く能力が優れている人が多いのか」と驚嘆する人は多い。

確かに、職業柄から来る「勘」というものは存在する。経験に裏打ちされたものの影響というか、磨かれ、鋭さを増していく部分は絶対にある。今回の場合はまさしくそれ。「何か引っかかる」その警察官の「勘」が反応した結果だ。逮捕された男性の「何か」が、その「勘」を刺激したのだ。

だが意外なことに、警察官が「人を見抜く」という能力に飛び抜けて優れているというわけではない―という研究結果が報告されている。いわゆる世間一般の、「普通の仕事」に就いている人達のそれと、それほど大きな差は見られないらしい。

「え?それじゃ『刑事の勘』とかってどうなるの?」と思うかもしれない。それは間違いなく存在する。分かりやすく、誰もが納得できるように、「勘」という言葉が当てはめられてはいる。だがそれは、世間の多くの人達が思い浮かべているようなもの、「直感」とは違うものなのだ。

別の言葉で言い換えるなら、「観察眼」「観察力」。「相手、物事の姿をよく見る」その行為を、多くの人よりも緻密に行っているということなのだ。「だって見てるだけでしょ?誰にだって出来るでしょ」それを簡単に感じる人はいると思う。だが、その「観察する」という行為を、真の意味で出来る人は決して多くはない。


例えば、目の前に犬が1匹いるとする。「あ、犬がいる」誰でも最初はそう思う。犬の存在を自分の視野に認識するのだ。犬好きの人なら「わー可愛い」と思うかもしれないし、反対に、苦手な人は「うわ・・・どうしよう」と思うかもしれない。犬の存在に対して、好き嫌い等の「感情」が伴う。自分の中で、それを基にした「ジャッジ」が始まる。「触りたい」とか「あっちに行ってくれないかな」とか。「自分の都合」で、犬の存在を測ろうとする。

どちらも「犬を見ている」ということには変わりない。だが、そこに自分の好き嫌いや都合、価値観等が入った時点で、それはもう「観察」ではない。「観察」という行為には、私情や主観は不要なのだ。


それでは、「観察する」ということはどういうことか?

今「観察者」の目の前に、1匹の犬がいる。観察者はその犬の存在を視野に捉える―ここまでは同じ。だが、犬を確認した後の「違い」はここからだ。

「飼い主と思しき人物は見当たらないが、首輪をしているため、飼い犬と思われる」「体長は約60センチ、体高は約50センチ。中型犬に分類される」「毛並みや毛艶、歯の状態から推測にあたって健康状態は良好」「さまざまな身体的特徴から雑種と思われる」「しっぽを振って近づいて来たので攻撃する気はないようだ。人懐っこい性質と推測」

そこには「事実」しかない。「可愛い」とか「苦手」とか「触ってみたい」とか、そういった「個人」の価値観や感情の類は一切入らない。「そこに犬がいる。そしてその犬の様子はこれこれこうである」という事実を、「個人の要素」を交えず、淡々と、ただ見る。確認する―それが「観察」ということなのだ。件の警察官も、逮捕された男性を「観察」していたということ。


人は嘘をつく時、何か隠し事があってそれを疚しく思っている時、「普段しないこと」をする。例えば、子供がお小遣い目当てに親の肩を揉んだり、自分から進んで手伝いをしたりする―というのは、その典型だ。世間一般の多くの人達が示す確率の高い反応や言動とは違うものを示す―というのも、それに含まれる。

多分あの男性が視線を逸らせた時、多くの人が同様の行為をする時とのわずかな違い―それは目を逸らす時の眼球の動きや角度だったり、速さやタイミングだったり、顔の筋肉の動きだったり、ほんの一瞬浮かべた表情だったり―大抵の人には見られない反応を示したのだと思う。その「違い」に目を留めた結果だと。それは感情等に作用される「直感」ではなく、事実や真理に基づいた「直観」なのだ。

セラピストの仕事でも、そういった「勘」は存在する。たとえクライアントが初対面の相手だとしても、「何か隠してるな」という場合はピンと来る。肝心な事、核心部分を隠しているクライアントというのは、やはり「普段しないこと、他の多くの人達がやらないこと・言わないこと」をする。隠しているものが深刻であればあるほど、「不自然な部分」が目立つ。

わかりやすいところでは、こちらが何も聞かないうちから、カウンセリングの初っ端からいきなり「自分は悩みなんて1つもないんですよ!スーパーポジティブに生きてるんです!」と言い出したり。脈絡のない話をダラダラ続けて、なかなか本筋に入らなかったり。こちらの質問をはぐらかして、違う方向に話を持っていきたがるとか。本人達はうまく隠しているように思っていても、結果、「すみません。実は・・・」という展開になる。

クライアントとは別に、同業者からの「偵察」が入った時も同様だ。「OLですー」「自営業ですー」と、正体を隠しても、明らかに他のクライアント、「同業者以外の人達」とは違う言動をする。「失礼ですけど同業の方ですよね?」と聞くと、「どうしてわかったんですか!?」とギョッとされることがよくある。「多分そうだろうなー」と確信はあっても一切それには触れずに終わっても、後日「ほらやっぱり」と事実が判明したり。もう最初からバレバレなのだ。

極端な話、たとえポーカーフェイスで押し通そうとしても、仕草や目の動き等、「ちょっとした部分」からすべてが明るみになる事もある。結局人間というものは、「無意識」に支配されている部分のほうが多いのかもしれない。自分が気づかないところで、想像以上に、「自分についての情報」を自分自身で開示しているものなのだ。


「人を見抜く」ということは、結局そういうことなのだ。「観察者」になるということ。冷徹な、時には「非情」とも言えるような目で相手を観察すること。それが「真理」に迫る入り口。

ただ、「人を観察するということ」は、「観察されること」でもある。「この人の本質を見抜いてやれ」と思っている自分も、同時にその相手から観察されている。「観察」という行為は、決して一方的なものではない。

「あなたが鏡に映った人を見ている時、その人もあなたを見ている」うろ覚えだが、確かアガサ・クリスティーの作品の中に、こんな感じの言葉があった。観ることは観られることでもある―それを理解していなければ、相手の本質を見抜くことなど到底出来ないのだ。

例えば、最愛の人に先立たれて号泣している最中であっても、「自分はこういうことで泣くんだ」「この悲しみの大半はどこから来ているのか?」と、「鳥の目線」から自分自身を捉え、客観視、分析できる冷酷さがある人間が、「真の観察者」になれるのかもしれない。




カテゴリ :三位一体―心と体と魂の話 トラックバック(-) コメント(-)
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