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自分LOVEの裏返し

 2010-02-18
カウンセリング中によく聞く言葉なのだが、「自分が嫌い」と言う人がいる。「どうしたら自分自身を好きになれますか?」これはもう「人間の悩みあれこれベスト3」に確実に入る類のものだと思う。

セラピーやカウンセリングを受けに来る人達がどうこうといことではなく、昔から、私が人の意識や心理に関わるこの仕事に就くずっと前、それこそ10代初め等、ほんの子供の頃にも、周りの友達から同じような言葉をよく聞いた。

そしてセラピストになった今、世間では「いい歳」と呼ばれる年齢の40代や50代、もしくはそれ以上のお孫さんがいるような年齢の人からも、同じ言葉を聞く。これは時代や世代といったものは関係ない、すべての人に共通する「普遍の悩み」なのかもしれない。

だが、人は他の誰かになることは出来ない。身も蓋もないことをあえて言わせて貰えば、自分自身を好きだろうが嫌いだろうが、そんなことは「知ったこっちゃない」ことなのだ。自分は自分であり続けるしかない。

「あー!なんで私ってこうなの!?」「オレはなんて馬鹿野郎なんだ!」と頭を掻き毟りたくなるようなこと、「欠点」と呼ばれるものの一つや二つは誰にでもある。時にはそれの度が過ぎて、激しい自己嫌悪に陥ったりすることもある。そういった部分も含めての自分を「丸ごと好き」と言える人は、多分それほど多くない。全否定とまではいかなくても、ちょっとくらい自分を嫌ったり憎んでいる部分というのは、どんな人にもあるものなのだ。

しかし、あえてその部分を口にする人、「自分が嫌い」と自分以外の誰か、例えば友達とかセラピストとか、第三者に向かってその言葉を口にする人というのは、意外と「自己愛」が強かったりする。本人達はなかなかそれを認めようとしないことが多いのだが、わざわざ「自分が嫌い云々」を言葉で伝えるという時点で、「本当は自分が大好きなの♪」と宣言しているのも同じことなのだ。

本当は誰かに自分を肯定してほしくて仕方ない。「なんで!?○○ちゃんは良い所がいっぱいあるじゃない!」と言ってほしいのだ。「本当に自分を嫌っている人」というのは、そのことを誰かに伝えようとすることもしない。むしろ、周りに自分が抱いている感情を知られまいと隠そうとする。その結果、様々な方法で自分自身を傷つけたり、自分の存在を消そうとする。

物質的にも精神的にも、「自分という人間」の痕跡を消そうとするのだ。それは「死」を以って―というだけでなく、故意に破滅的な行動を取ったり、自堕落な生き方をしたり。「本来の自分」とはかけ離れた人生、多くの場合は決して「幸せ」とは呼べないそれを選択しようとする。自らを追い詰めていくというか、自分から破滅に向かって歩いていく。なぜなら彼らの望みは、「大嫌いな自分」という人間の存在が、いろいろな意味で「消滅」することなのだから。

自分にさえ好かれないようなダメな人間の存在を、その「消滅」の時を含めてさえ他の人間に知られたくない。すべて「なかったこと」にしたい―それが本当の「自分が嫌い」ということなのだ。


自分自身への嫌悪感を口にする人を観ていると、そのほとんどは、「自分の人生を自分で引き受けるという覚悟をしていないことによる甘え」から来ているものだ。その人達に共通するのは、「どうして自分に与えられたパーツはこれなんだろう」と、隣の人が持っているパーツを「いいなー」と妬んだり、それをもらえなかった自分を憐れんだり、呪ったり―ということを延々とやっている。

言ってみれば、「諦めが悪い」「往生際が悪い」ということ。「くやしーッ!もし私があのパーツを持っていたら藤原紀香になれたのにッ!」「くそ!なんで俺の手持ちのパーツじゃ福山雅治になんねーんだよッ!」と地団駄踏んでいるのと同じことなのだ。

気持ちは分からないでもないが、仕方ないではないか。今の自分が持っているパーツでは、藤原紀香や福山雅治が完成することはないのだから。だが、自分が持っているもので、それを超えるものが出来上がる可能性もある。紀香ちゃんまではいかないまでも、「あ、これも結構いいかも。意外と好きかも」と思えるようなものが完成するかもしれない。

確かに多少の不満はあるかもしれないが、いつまでも「これが嫌い」だの「あれが欲しい」だの愚痴ってみても仕方ない。手元にあるのは、今持っているものだけなのだから。だったら手持ちのパーツで「よーし!すごいの作ってやるぞー!」と、覚悟を決めたほうがよっぽど潔いではないか。

人は自分以外のものにはなれない。泣こうが喚こうが、自分が嫌いだろうが何だろうが、「自分は自分である」という事実は変わらない。それなら、「どうしたら嫌いな部分をなくせるか?」ということを考えたほうがいい。結局は手持ちのもので勝負しなくてはならないのだから。

例えば、スポーツの世界で、背が低い等身体的に恵まれない選手が、その欠点、不利な部分を優れたジャンプ力や筋力を身に着けることでカバーする―それと同じことなのだ。いくら嘆いても、背が低いという「条件」は変わらない。だったらその身長の低さを生かせるプレースタイルを考えたり、補える他の能力を身につけたほうがいいに決まっている。

「自分が嫌い」と言うのは仕方ない。嫌いなものを無理矢理好きになれとは言わない。だが、そう言う人達の多くは、何もしていない。「どうしたら自分を好きになれるか」ということさえ考えない。「いつか自分は別のものになれるんじゃないか」「待っていれば違うパーツが空から降ってくるんじゃないか」間違った期待をしているだけだ。「いい加減そこに気づきましょうよ」と。

そういった「努力」も「覚悟」も一切なしに、怪しげなスピリチュアルや自己啓発ワークを必死になって試しても、何も変わらない。「自分を愛せるようになるアファメーション?何ですかそれ?」なのだ。一時しのぎにはなったとしても、根本は何も変わらない。「自分が嫌い病」は必ずまたぶり返してくるかと。

「自分が嫌い」と思う自分を、ストイックさや感受性の高さを持った人間と勘違いしている人がいるが、それはまったくの見当違い。本当は「自分大好き」の裏返し。「自意識」が過度に強いだけだ。本当に自分自身のことが嫌いだったら、そんなことで悩んだり落ち込んだりしない。「もうどーでもいいや」そんなふうに投げやりになったり、自分に対してそれ以上の関心を持つことなどないのだ。

だったら自分自身に向けているその「ネガティブな関心」を、別の形で向けようとしたほうがいいんじゃないですか?少なくとも、それを克服する努力をした後で「嫌い」と言ってください。何にもしないうちから愚痴ってばかりは、ただの「幼稚さ」の表れです。





カテゴリ :三位一体―心と体と魂の話 トラックバック(-) コメント(-)
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