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続く理由

 2010-02-12
インディアンジュエリーの仕事を通じ、ネイティブアメリカンの人達と関わるようになって8年ほどになる。友人知人の数もそこそこいる。不思議なことに、私は相手を知らないけれど、相手は私を知っているということがある。

居留地に住む友人の家を訪ねた時など、知らない人が挨拶してきたり、「○○の家に行くの?」と親しげに声をかけてきたりするので、「誰?!」と戸惑うこともある。居留地の中にかかわらず、ネイティブアメリカン誰か一人と友達や知り合いになると、その情報はあっという間に他の人にも伝わる。私がどこから来て、どんな仕事をしているのかということも、全部知られている。

以前ナバホの友達の一人が、「ナバホの伝統的なラグを織っているところを見せてあげる」と言って、知り合いのウィーバー(ラグ織職人)の女性の家に連れて行ってくれた。もちろんその女性とは初対面。だが、なぜか相手は私の細かい情報を知っている。自己紹介しようとしたら、「あなた、日本のオサカ(大阪)から来たミラでしょ?」といきなり言われた。「アリゾナには3日前に着いたんですって?時差ぼけは大丈夫?」「あなたが泊まっているホテルね、朝食が美味しいから絶対食べたほうがいいわよ」

「あなた今独身なんでしょ?また結婚する気はないの?知り合いの息子がお嫁さん募集中なんだけど、よかったら紹介するわよ?」「あなたツーソンに住んでるラコタ・スー(族)の○○と友達よね?彼とは以前△△で開いたパウワウ(お祭り)で会ったことがある。いい人よね」

その情報量たるや、「なんでそんなことまで知っとんねん!?」と、こちらが唖然とするほどなのだ。壁に耳あり、障子に目あり。これじゃおちおち悪いこともできやしない。恐るべし、ネイティブアメリカンの情報網・・・。一緒にいた友達に、「ねえ何でこんなに詳しく私のこと知ってるの?」とこっそり聞くと、「さあ。『世界は狭い』って言うじゃない?」と涼しい顔をしていた。

一時が万事そんな調子なので、「まあいっかー」と。べつにやましいこともないので、コソコソ何かを隠し立てする必要もない。それに、この「情報網」が時としてものすごく役に立つ時もあるのだ。

例えば、いろいろなことが「あいつの紹介?よし、わかった」と、そのひと言で片付いたり。逆に、その「見えないコネクション」を通じて、「知らない友達」からいい話が飛び込んできたりとか。

正直最初の頃は、何か監視されているようで落ち着かなく感じることもあったのだが、時間が経つにつれ、だんだんわかってきたことがあった。一連のそれは、いわば彼らからの「信用」の証なのだ。

ネイティブアメリカンの人々の社会や横の繋がりといったものは、いろいろな意味で「昔の日本の田舎」に似ている。良くも悪くも「身内」と「よそ者」をきっちり区別するところなど、特にそうだ。そういった彼らの特性や事情といったものに対して、あれこれ言うアメリカ人も多いのだが、ネイティブの人々にしてみたら、それは「当たり前のこと」であって、彼ら自身、決して「差別」とは思っていない。(まあ中にはそういう意識の人もいるが)

本当に親しくなるまで、受け入れられるまでは時間が掛かるが、一度彼らの信頼を受けたら、付き合いはぐっと濃密になる。「身内のことは知っていて当たり前」になるのだ。その表れが、あの恐ろしく詳細な「情報網」なのである。

ただ、私としては、ネイティブアメリカンの人達と付き合いがあることが「特別」とは思っていない。格好つけるわけではないが、あくまでも「なりゆき上」そうなっただけだと思っている。インディアンジュエリーや工芸品を扱う仕事をしていれば、いつの間にか友達の一人や二人はできて当たり前。「すごーい」と感心されることではない。

逆に、彼らからしてみれば、日本人の私のほうがめずらしい存在なのだ。友人の7歳の息子が、自分の遊び友達に、「ミラは日本からきたんだぜ。ママの日本人の友達なんだ」と、得意げに紹介したりする。居留地から出たこともなく、片言の英語しか話さないナバホのお年寄りに、「生まれて初めて日本人を見た」と、しげしげと顔を見つめられることもしょっちゅうだ。まあ「お互い様」というところだ。

べつに彼らを「聖なる人々」「スピリチュアルな意識が高い人々」と崇め奉っているわけでもないし、いちいち彼らのやる事為す事を有難がることもない。分類上、お互い「日本人」「ネイティブアメリカン」といった名称は付いてはいるが、それを取ったら双方「ただの人間」だ。それほどの違いはない。「学校で友達ができた」くらいの感覚でしかないのだ。


昨今の世界的なスピリチュアルブームで、ネイティブアメリカンの思想や儀式等がよく引き合いに出されている。彼らの伝統的な儀式、「スウェットロッジ」や「ヴィジョンクエスト」が、「スピリチュアリスト」を名乗る人々によって世界各地で行われるようになった。もちろん例外なく日本でも。その中には、ネイティブアメリカンのメディスンマンやメディスンウーマンを日本に招いて、そういった儀式を行っている団体もある。

先日も、そういった団体の一つから、国内某所で「スウェットロッジ」の儀式を開催する旨を案内するメールが来た。その儀式を司るために、ある部族のメディスンマンが来日するとか。「参加費用」と書かれている部分を見て驚いた。そこそこのランクのホテルのツインルーム1泊分くらいの金額が書いてある。結構奥まった不便な場所なので、交通費や宿泊代等を入れたら、近場の海外旅行に行けるくらいの費用になるのは確実だ。

メディスンマンを招くための経費―日本とアメリカ往復のための飛行機代や宿泊費、その他の掛かり等を捻出するには、多分それくらいの参加費を徴収することが必要なのだとは思う。その団体が「ビジネス」としてそれを行っているのなら、やはりそれは仕方がないというか、当然のことだ。

だが、原則として、ネイティブアメリカンの儀式は「すべて無料」だ。金銭のやり取りは発生しない。メディスンマンやメディスンウーマンに、個人的に特別な祈祷を上げてもらったり、儀式を行ってもらう時は、あくまでも「寄付」「お布施」「心づけ」といった感じで、特に「料金」といったものは決められていない。決められている場合も一部あるようだが、それでも20ドル程度と聞く。

それが、場所が日本に変わっただけで、「料金」が設定され、べらぼうな値段が付けられる。その他の国、例えば、やはりネイティブアメリカン熱が高いヨーロッパにおいても、多分状況は同じようなものだろう。

ネイティブアメリカンの社会では、他の国で、自分達の伝統的な儀式を有料で行うメディスンマンやメディスンウーマン達に強い憤りを持っている人が多い。「文化や精神性の切り売り」「冒涜」真正面から非難する人達もいる。その人達が「にせもの」というわけではないが、すべてのメディスンマンやメディスンウーマン達が高潔な人物とは限らない。「なまぐさ坊主」という言葉があるように、「なまぐさメディスン」も存在する。

その中には、「ネイティブアメリカンのメディスンマン」というだけで、他の国でチヤホヤされて調子に乗ったり、高額な報酬に味をしめて、本来の自分の役割を完全に忘れて金儲けに走る人が実際にいるのだ。彼らは自分の「ブランド力」を十分に知っている。欲のために、それをとことん利用することもあるし、自分のダークサイドを上手く隠し、それらしく振舞うことにも長けている。外国で儀式を行うメディスンマン達の中には、そういった類の人達が紛れていることがあるのだ。

同時に、彼らを担ぎ出したり、イージーに儀式に参加する「部外者」達に対しても、同様のものが向けられている。彼らからしたら、自分達の領域に土足で断りもなく入り込んできて、その「上澄み」にちょっと触れただけで、すべてを理解したような気になっている「よそ者」に許しがたいものを感じるのだろう。観光ついでに、訪れた京都の禅寺で、数十分のプチ座禅を体験しただけで、「ゼン」だの「サトリ」だのとはしゃいでいる外国人を見ているような感じなのだと思う。そこにあるのは「浅薄さ」や「自己満足」でしかないのだ。

ネイティブアメリカンの人々と関わるようになってから今まで、私が貫き通していることがある。それは彼らの領域、例えば伝統的な儀式等「アイデンティティー」に関わるようなことには決して立ち入らない、踏み込まない―ということだ。

「ミラだったらいいよ」「ミラもおいでよ」どんなに彼らが勧めてくれても儀式への誘いはすべて断ってきた。彼らの言葉はとても嬉しいし、ありがたい。体験したくないと言えば嘘になる。だが、その見えない「ボーダー」を越えた瞬間、何かが違ってしまうような気がしてならないのだ。この言い方が適当なのかはわからないが、しいて言えば、これは彼らに対する私なりの「けじめ」なのかもしれない。

「親しき仲にも礼儀あり」ではないが、やはりどんなに親しくても、「ノンネイティブ」である自分の立場をわきまえるべきだと思うのだ。

「有料の」ネイティブアメリカンの儀式に参加する人達を非難する気はない。そういった機会に恵まれることは、とても貴重で幸運なことだ。だが、くれぐれも肝に銘じておいてほしいのだ。それが「すべてではない」ということを。「部外者」が興味半分で自分達の伝統に入り込んでくることを、多くのネイティブピープルが、自分達の「核」を弄ばれたり貶められているように感じていることを。

ネイティブアメリカンの儀式―彼らの多くが「邪道」と呼んで憚らない、彼らの土地以外で行われる、「値段」が付けられたそれを、「選ばれた人しか体験できない」などと得意げに、自分の「選民意識」を満足させる道具としてひけらかすことは、「謙虚」を美徳とする彼らが最も嫌うことの一つでもある。

スウェットロッジにしろビジョンクエストにしろ、伝統の儀式は、彼らの日常に「普通に」組み込まれているものだ。日本人が神社仏閣に参拝したり、家を建てる時に地鎮祭をしたり、七五三や厄払いの時にお祓いを受けたり―そんな感じで気負いも衒いもなく、時期やタイミングが来た時や、必要性がある時に「それじゃやりますか」という感じのもの。

確かに儀式の意味合いからしたら、滝行や座禅等に通じる部分もあるのだが、そこあるような「修行!鍛錬!」といった張り詰めた気合や緊張を必要とするものではない。もっと穏やかな、「一部」「根付く」というような、「自然にそこにあるもの」「元から組み込まれいるもの」なのだ。

以前、ナバホの居留地でスウェットロッジの準備をしているところを横で見ていたのだが、みんな淡々としていた。熱狂や高ぶりといったものもない。時々笑い声も聞えたりするのだが、普段とまったく変わらない様子だった。

そもそも「平等」を重んじる彼らの文化では、「これは選ばれし者しか参加できない儀式なのじゃ」などと、もったいぶったり偉そうにする儀式などは存在しない。それを有難がっているのは、妙なスピリチュアルかぶれのノンネイティブだけだ。結局彼らの思想や伝統を変な形に曲げて、本来のそれとはかけ離れたものにしてしまっているのは、ネイティブアメリカンとは縁もゆかりもないその手の「部外者」なのだ。


なんだかんだ彼らとの付き合いが続いているのは、私が「ワナビー」ではないこと、「インディアンになりたがる人」ではないからかもしれない。儀式に参加しないのはなぜか、彼らにその理由を説明したことはないし、その必要もないと思っている。そのことについて特に話をしたことはないが、彼らは理解してくれているようだ。

相手がネイティブアメリカンだろうが何だろうが、友達でいることに「尊敬」以上の「媚び」は要らないのだ。



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