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ドリームキャッチャー

 2010-01-20
「人生は見たり、聞いたり、試したりの3つの知恵でまとまっているが、その中で一番大切なのは『試したり』であるとぼくは思う」(ホンダ創業者 本田宗一郎)

「人生の時間は限られています。他人の人生を生きてはいけない。そして一番大事なのは、自分の心に素直に従う勇気を持つことです。ハングリーであれ。愚かであれ。」(アップル創業者 スティーブ・ジョブズ)

「『したい』と言っているうちは何も起こらない。夢を実現するために必要なのは、『する』っていうことなんだよ」(民間外交官、社会活動家、プロ道化師、俳優でもあるアメリカの医師 パッチ・アダムス)



多くの人が言う。「人生はチャレンジだ」だが、本当にそれを理解している人は、世の中にどれくらいいるだろうか。見ること、聞くことは誰にでもできる。特に身を入れなくても、「受身」であってもできること。しかし、「試す」ということは、本人の意識がそこになければ絶対に成り立たない、いわば「能動的な行為」だ。

セラピーやカウンセリングの最中、自分の夢や目標を語る人は多い。だがその人達の多くは、「でも、しょせん夢物語だと思って・・・」と言う。私からすると、それは不思議で仕方のないことだ。「まだ初めてもいないのに?試す前からもう『叶わぬ夢』にしちゃうんですか?」これまでに何度こう言ったかわからない。

「夢物語」「叶わぬ夢」という言葉は、正直私にはピンと来ない。というより、こういう言葉が存在すること自体理解できない。なぜ語るだけで諦めようとするのか?なぜ初めからそれを「無いもの」として考えるのか?なぜそこに向かって開かれているドアを自ら閉めるようなことをするのか?と。

年齢や身体的制限、天文学的な巨額の資金を必要とする等、「条件」に左右されるものを除いては、それは「永久に有効」なはずだ。自分が「試す」ということを諦めない限り、「それが叶う」という可能性は常に存在し続ける。

世間では、夢や目標を持つことを良しとする風潮が強い。誤解を恐れずに言うが、私はそれが無くても、その人がそれを持っていなくても全然構わないと思う。夢や目標がないということが「悪」ではないのだ。

あくまでも私個人の見解だが、夢や目標というのは、ある種の「不満足」から生まれてくるものだと思っているので、周囲がどう思おうと、その人が自分自身や、自分の人生、環境といったものにいろいろな意味で「満足している」のであれば、夢や目標がないとしても、それでいいと思う。

何よりも、他人が口を挟むことではない。誰に何を言われなくても、放っておいても、自分でそれを見つける人は見つけるし、周りの人達に「夢を持て!」とどんなに熱心に説かれても、本人にその気がなければそれで終わる。あくまでも個人の問題だ。「持たなければ」「持つべきだ」と義務感で行うものではない。どちらかというと、世間で言われている本当の意味というかニュアンスは、「まあ無いよりかはあるほうがいいよね」という程度だと思う。

だが、せっかく「こんなことをしてみたい」「こうなれたらいいな」というものがあるのに、何も始まっていないうちから「やっぱり無理だよね」と諦めるのは、ちょっともったいないことだと思うのだ。

試す前から諦める人というのは、得てして「耳年増」だ。その人達の多くは、「備える」という名目で「情報収集」を行う。しかし、良かれと思って収集したその情報の多さが、その種の人達にとっては、かえって仇となったりする。この夢を実現するためには、こんなこともあんなことも必要なのか―目の前のハードルの高さや多さに竦んでしまうのだ。「やっぱり自分には無理だ」後ろ髪を引かれながらも、その夢に背を向ける。

なぜ彼らは諦めるのか?それは、過去にも、今までずっと、その人達は諦め続けてきたから。過去に「達成した」という実績がないからだ。「諦めてきた」というよりは、「逃げてきた」人達だから。いわば「逃げ癖」が付いている。まめに行う「情報収集」も、実は「慎重さ」からではなく、「臆病さ」故なのだ。

その人達の多くは、いつも「受け身」だ。自分で新たな道を切り開いていこうとするような「フロンティア」タイプではない。誰かの真似や、与えられたことをするのは得意だが、「自主性」に欠けている。「既存のもの」に頼ろうとする意識も強い。「なかったら自分で作ってしまえ!」「自分が第1号になってやる!」という気概がない。そのくせ不平不満は多いのだ。自分自身の自主性や気概のなさを、条件や環境、果ては自分の身の上のせいにする。

だが、いざ「好きなようにやりなさい」といった「自由」を与えられると、途端に躊躇する。結局それを持て余してしまうのだ。それをどう扱っていいかわからない。だからまた、長年慣れ親しんだ制約の多い檻の中に自ら戻ろうとする。

ちょっとうまくいかないことがあるとすぐに投げ出したり、何だかんだ理由をつけては、自分がそれを放棄することを正当化したり。「本当にやる気あんのか!?」そんな言葉を投げつけたくなるような態度の人が多い。言い訳と自己保身に終始するその態度は、彼らの「本心」でもある。狭い檻の中に戻りたがっているのは、結局彼ら自身なのだ。

その夢を叶える気など、最初から到底ないということ。「ちょっと言ってみただけー」という程度なのだ。何だかんだ言いながら、「夢を叶えられない自分」でいることが、ある意味心地良い。ぬるま湯でぽちゃぽちゃやりながら愚痴っているほうが断然気楽だから。夢が実現しない理由を、さも自分の外にあるもののせいにしてはいるが、その実何の努力もしていない―それがその人達の共通項。


夢を叶えることに本気な人は、言い訳なんかしない。その夢を自分があきらめなくてはならない理由を探す前に、「どうしたらその夢に近づけるか?自分は何をしたらいいのか?」その方法を考えている。そして貪欲に、チャレンジし続けるのだ。たとえ周りから「愚かなことを」と笑われたとしても。

一度や二度の失敗は、既に勘定の中。周りが何と言おうと関係ない。他人があれこれ好き勝手言うのは、「所詮他人の人生だから」だ。自分に何の責任もないから口を挟める。そんな無責任でいい加減な外野の声を気にしたり、真に受けるのは愚の骨頂だ。それこそ無駄以外の何物でもない。そういったものは右から左に受け流し、ただひたすらそれに向かって、少しでも近づこうとする熱意や信念があればいい。

夢を実現してきた人、今全力でそれを追っている人になら多分わかるはずだ。辛いのは夢を諦めることではない。その実現に向かって懸命に取り組んできたものがなかなか形にならない時、ただひたすら「待ち続ける」しかない時、この先に何も待っていないような不安や恐怖に襲われたとしても進み続けるしかない時―本当に辛いことがやって来るのは、それに向かって「スタートを切った後」なのだ。

「しょせん無理な話だよね」「やっぱり夢物語だよね」そう言い訳する人は、スタートラインにも立っていない。「夢を諦めるのが辛い云々」と愚痴る以前の問題なのだ。そういった言葉が出てくるのは、「まだ何も始めていない」から。


自分の人生の持ち時間を正確に知る人はいない。それがいつ終わりを迎えるのか、その時が来なければわからないのだ。それは2年後かもしれないし、明日かもしれない。ひょっとすると数時間、数分後―ということもある。

だったら、形振り構わず、貪欲に、心のままに夢を追い求めてもいいではないか。たとえ他人に愚かと哂われようとも、自分の中にそれを本気で求める気持ちがあるのなら。 夢に向かって歩き始める人、それに向かって行動を起こす人が、やがては夢を掴む人―ドリームキャッチャーになれるのだ。




カテゴリ :三位一体―心と体と魂の話 トラックバック(-) コメント(-)
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