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ジキルとハイド

 2009-12-20
相手に対して抱く印象、自分が心の中に思い浮かべる像である「イメージ」というものは、あくまでも「主観的なもの」でしかない。、いわば自分ひとりだけが感じたもの、考えたものであって、それが唯一無二のものであるとか、その人のすべてを余すことなく捉えたものであるとは言えない。「イメージ」とは、あくまでも「想像」であり、「実像」ではないのだ。

にこやか、ソフトな、社交的な、優しい、女らしい、明るい、協調性がある、几帳面、、敏感、素直、穏やか、冷静な、理知的な、思慮深い、さっぱりしている、男っぽい、短気、一本気、激しい、情熱的、大胆、、大雑把、厳しい、マイペース、淡白、リーダーシップのある、忍耐強い、飽き性、フットワークが軽い、好奇心旺盛、学者肌、楽天主義、緻密、丁寧、こだわらない―。

これは、家族や友人知人、仕事上等で関係のあった人達が私に対して抱いているイメージだ。実際に今まで言われたことを思い出せる限り書き出してみたのだが、こうして改めて見ると、なかなか興味深い。

「緻密」と「大雑把」、「飽き性」と「忍耐強い」、「優しい」と「厳しい」、「女らしい」と「男っぽい」等、相反する性質のもの、対極にあるものがいくつもある。だが、それは「どれも私」なのだ。


子供の頃から、通知表の「評価」の欄が不思議で仕方なかった。担任の先生が学期や年度を通じて見た生徒の人柄や性格、生活上での改善点等が書き込まれているのだが、それを読む度に「学校にいる間の私しか知らないのに」と思ったものだ。特に「最悪」と言ってもいいほど相性の悪かった小学校4年生の時の担任の先生(男)が書いたものを読んだ時には、「勝手に決めつけんな!ボケ!」と心の中で毒づいていた。

中学校入学からしばらく経った頃、通知表含め、小学校時代の物を整理していた。1年生から6年生までの通知表を並べて見ていた時に思った。「人って、相手を自分の見たいように見るんだな」と。それぞれ違った先生達が受け持った6年間、通知表の「評価」の欄に書かれていることが、6人の先生ごとに全然違うのだ。

ある先生が短所、改善点として指摘していることを、別の先生には長所として書いている。また、その逆もあった。しかし、良くも悪くも先生達が指摘している点は「同じ」なのだ。つまり、同じ一つのものを、それぞれ別の角度から見て、それぞれが思ったことや感じていることを言っているだけ。

例えば、その子のある時の態度を見て、ある先生は「内向的で協調性がない」と短所として捉えたとする。しかし別の先生は、その同じ態度を「落ち着きがあって思慮深い」というように、長所として見ていたりする。だが、結局それぞれの先生達が見ているのは、「同じ態度」なのだ。

それを短所として捉えるか、長所として捉えるか、結局その人自身の裁量というか、「好み」なのだと思う。相手に対する感情というものにも大きく左右されるものだ。

学生の頃、ある合コンで、一人の男の子に対する評価、印象がほぼ真っ二つに分かれたことがあった。ある子達は「無愛想で近寄りがたいよねー」と言い、別の子達は「チャラチャラしてなくて男らしいじゃん」と言う。

結局そういうことなのだと思う。人間というのは、自分が見たいように相手を見、思いたいように思うのだ。相手に対するイメージというのも、まさに英語の「image」の意味の通り、「心に描く、想像する」「~の像を造る」というように、「見る者の側の都合で、勝手に、自由に描くもの」でしかないのである。そして「自分が抱いたイメージ=その人自身」ではなく、あくまでも「その人の一部分」に過ぎないのだ。

そして、その人に対して抱いたイメージの対極にあるもの、いわばまったく正反対の要素も、同時にその人の中には存在している―ということも「道理」なのだ。

カウンセリング中に、よく「自分の中にダークな面があることが許せない」と言う人がいる。だが、私からすれば、それは極めて「自然な」ことだと思う。というよりも、それは「当たり前のこと」なのだ。その人達のほとんどは、そのダークな面を人に知られたくないばかりに、自分は「いい人」の振りをしている―と思っている。だが、それは「猫を被っている」ということでも、「偽っている」ということでも、「腹黒い」ということでもない。

この世のすべては「バランス」の上に成り立っている。もちろん人間も例外ではない。性別にかかわらず、一人の人間の中に、男性性と女性性、2つの異なる要素が存在するように、必ず対極の要素が同時に存在するものなのだ。光があれば、そこには必ず闇が存在する。光だけ、闇だけ―という、どちらか一つのものしか存在しないということはあり得ない。なぜならそれは「偏り」であり、「異常」なことだから。良くも悪くも「人ではない」のである。

光だけでは、もはや神や仏だし、闇だけでは、無差別に大勢の人を殺しても平然としているような、悪魔のような「異常者」になる。対極の存在ではあるが、どちらも「人間」の域ではないということだ。

多くの人は、自分の中に「光」だけが存在することを望む。だが、その望みが強ければ強いほど、闇を嫌えば嫌うほど、自分の中にある「闇」を意識しているということなのだ。その「闇」が、いつか「光」を食い尽くしてしまうのではないかという恐れの大きさや強さに、それは比例している。

美しいものだけ、優しいものだけ、明るいものだけを人は求める。だが、それらを求める時には、「その対極にあるもの」も常に一緒に、同時にやって来るのだ。好むと好まざるにかかわらず、それは必然の「法則」だ。

人は、多分一生をかけて、自分の中に存在する光と闇との「折り合い」のつけ方や、そのバランスの「加減」というものを学んでいくのだと思う。闇が光を凌駕しようとする時、どこまで踏みとどまれるか。どのように光を大きく育てていくか―それは延々と繰り返される。だが、それをやり続ける、向き合うことこそが「人間である」という「証拠」でもあるのだ。


今自分がその人に対して抱いているイメージだけが、「その人のすべて」ではない。そこには必ず、「自分が見ようとしていないもう一つの顔」が必ず存在する。なぜならそれは、「法則」に基づいた二つで一つの「セット」のようなものだから。

自分が「見たくないと思っている顔」を相手に発見した時、「そんな人だと思わなかった」と、自分の勝手な「期待」を押しつけたり責めたりするのは、お門違いのことなのだ。なぜならそれは最初からそこにちゃんと存在していたし、何よりも「自分が見ようとしなかった」だけなのだから。


人が自分に対して抱くイメージ、それが強ければ強いほど、凝り固まっていればいるほど、私はそれをぶち壊したくなる。「あなたが知っているのは、私の『ほんの一部』でしかないから」自分の「もう一つの顔」を見せる時、相手の「期待」が裏切られる瞬間が大きいほど、私は快感を覚える。

多分、私という人間のすべてを、全部知り尽くしていると勝手に思い込まれることが好きではないのだと思う。大体、自分の知らない所で勝手に枠が作られ、勝手にそれにはめられている―なんとも屈辱的ではないか。その屈辱に、私の中の「ハイド」が反応する。「その期待を裏切ってやりたい」と。もしかしたら私は、「私」という人間を誰にも理解してほしくないのかもしれない。

光と闇、正と負―対極の要素、「ジキルとハイド」は、どんな人間の中にも存在している。もちろん例外なくあなたの中にも。






カテゴリ :Mの心象―あれこれ思うこと・感じること トラックバック(-) コメント(-)
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