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自分らしさ症候群

 2009-10-22
サラリーマンやOL等、世間で言うところの「一般的な仕事」に就いている人達に特に見られる傾向なのだが、「自分らしく生きたい」「自分らしさを生かした仕事がしたい」と口にする人が多い。

「それでは、あなたが言う『自分らしさ』『自分らしい』って何ですか?」そう尋ねると返ってくる答えは様々で、人それぞれ違う。だが、その人達の多くに共通していることをざっくりまとめてみると、どうやらそれは「個性」ということらしい。

「自分の個性が生かせる仕事」「自分の個性が表れた人生」という意味合いのようだ。「組織の中にいると、その歯車の中に自分が埋もれていって、自分という存在が失われていくような気がして仕方ないんです」多くの人は言う。

私自身、かつては会社組織の中に身を置いていたので、そういった気持ちは理解できないでもない。実際同じように感じた時もあった。だが、属する組織もない、他からの何の制約も受けない、すべて自分の采配で行っていく「自由業」に就いている現在、私は思う。

「何をしているか、どこに所属しているかっていうことと、『自分らしさ』には、それほど大きな関係はないよ」と。

「組織の中にいるから自分らしく生きられない」「組織の中にいるから自分らしさが出せない」そう思っているうちは、多分どんな仕事に就いて、どんな場所にいたとしても、その「自分らしさ=個性」というものは出てこないと思う。

他の人とは違う、その人個人にしかない性格や性質、特徴―いわゆる「個性」というものは、置かれている状況や条件等には左右されない。なぜならそれは、「自然と滲み出るもの」だから。

例えば、学校の制服。みんなと同じ格好をしなくてはならないことを嫌がる子は多い。「だって全員が同じ服を着るなんてつまらないし、自分らしさがなくなる」思春期の場合は特にそうだ。

だが休みの日、制服を脱いで『自分らしい服』を着て、街にいるその子達が「個性的」か?というと、そうは思えない。同じような髪型やメイク、服―正直見分けがつかない。自分が嫌がっている「みんなと同じ」状態になっていることを、本人達はまったく気づいていない。だが当の本人達は、至ってご満悦の様子。

結局それと同じこと。みんなとまったく同じ制服を着ていても、誰だか分かる、見分けがつく―それが「個性」というものなのだ。「自分らしさ」「自分らしく」ということは、結局本人達の自己満足や願望、言い訳の域を出ないものに過ぎないと思う。そして、それは自分が決めることではない思うのだ。

自分のやっていることや自分の生き方を誰かが端から見て、「○○さんらしいね」そう感じるものこそが、みんなと同じことをしていても「どこか違う」と思わせるものがあることが、「自分らしさ=個性」なのではないだろうか。


例えば、組織に属さない「自由業」のセラピストの仕事にしても、他の同業者と同じような内容、画一的な「ありふれたセッション」をしていれば、それは「個性的」とは言えない。

クライアントが期待する以上の何か―それはセラピストの人柄や信念から出てくるものであったり、内容の違いや濃さ、サロンの雰囲気等、「プラスαの要素」が加わって、初めてそれが「そのサロンの特徴=セールスポイント、個性」というものになる。

「あなたらしさ」ということを最大の売りにしているスピリチュアル関係のサロンやセラピストなど、「没個性」の例の最たるものだ。内装は十中八九、天使のオブジェや絵画に始まり、ローズモチーフの小物やクリスタルやパワーストーンが必ず置いてあって、白(もしくはピンク系)を基調としたヨーロピアン調の雰囲気でまとめられている。

セッション内容も、何だか巷でよく聞くようなものばかり。言っていることも大抵同じ。愛とか光とかギフトとか。ホームページなど、どこも全然見分けがつかないくらいよく似た雰囲気の作りになっている。「あなたらしさ」と連呼する割には、まるで判で押したかのように似通った雰囲気のサロンばかりなのはなぜだろうか?


どこにいても、何をしても、「自分らしさ=個性」というものは決して失われたり、損なわれたりはしない。むしろ一度「型」にはまった時、同じスタートラインに立った時にこそ、それは顕著になるのではないだろうか。そこで表れた「プラスα」の何かこそが「自分だけの特徴=個性」なのだ。

「自分らしさ」「自分らしく」の意味をはき違えているうちは、多分何も変わらない。言葉の表面上の響きに踊らされているだけ。「サラリーマンだから、OLだから自分らしく生きられない」ということもない。なぜなら「個性」には、条件も環境も関係ないのだから。



カテゴリ :三位一体―心と体と魂の話 トラックバック(-) コメント(-)
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