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鵜呑みにする人々

 2009-10-10
セラピストの仕事を始めて以来ずっと気になっていることなのだが、今の世の中、メディア―特に「その道の権威」と言われている人の言葉を何でも鵜呑みにする人がかなり多い。

自分自身で検証もせず、考えもせず、それが「真実=正しいこと」と思い込む。それは「盲信」に他ならない。ある意味「狂信者」の姿だ。

例えば、絶大な人気を誇るスピリチュアル界の大物が「あの神社のパワーは絶大です」などとテレビで発言したり、本に書いたりすれば、その神社には次の日から参詣者が溢れかえる。「ご神木の皮を剥いで、お守りとして持っているといいです」発言があれば、日本中の神社のご神木の皮が手当り次第剥がされるということが起こったり。

「35歳過ぎると羊水が腐る」発言で騒動になったアーティストも同じ。釈明謝罪インタビューでは、「昔そう聞いたので、本当だと思っていた」等と言っていたが、これも典型的な鵜呑みが引き起こす例。「○○らしいよ」と、小耳に挟んだだけの話が、いつの間にか自分の中で「○○だ」という「真実」にすり替わってしまっている。

相手がどんなにいい人でも、偉い先生でも、その人が言ったことが「すべて正しいこと」とは限らない。


数年前、20代のOLさん2人が、過去生回帰のグループセッションを申し込んできた。ちょうど冬の時期で空気が乾燥していたことに加え、休みなしで連日セッションが続いていたこともあり、喉の調子が良くなかった。

事前カウンセリングの最中ちょっと咳き込んだ時があったのだが、その時のOLさん達の様子が何かおかしい。同時に2人で顔を見合わせて、目顔で何か言い合っている。最初は「?」と思ったが、特に気にしなかった。だがその後、数回同じようなことがあったので、「何か?」と聞いてみた。

すると一人の方が、おずおずといった感じでこう言った。「あの・・・先生は首を吊って亡くなった過去生があるんですか?」「は?どうでしょう・・・まあ過去生は人によったら何百何千あるので、1回や2回はそんな死に方をしている人生があるかもしれませんね。でもどうしてですか?」「この前テレビで三○さんがおっしゃってたんです。『急に咳き込む人は首を吊って死んだ過去生があるって」

これではうっかり咳もできない。その番組を見ていた人達は、誰かが急に咳き込む度に「あの人って・・・」と心の中で思っているのだろうか。もしそうならたまったものではない。それが絶対確実で間違いようのない真実というなら、世の中そういった過去生を持つ人だらけではないか。


何でも鵜呑みにする人というのは、「学ぶ」ということがどんなことか―ということを理解していない人が多い。それは「素直さ」とはまったく別のものだ。どちらかというと、「学校や教師というものは、答えを教えてくれる場所や存在」と思っている人だ。学歴とかそういったものは関係ない。いろいろな意味で「受け身の勉強」をしてきた人だと思う。「教えられたものが正しい」そう思っている。

なぜ「学問」というのか?わざわざ「問う」という文字が入っているのはなぜか?それは「相手に答えを問う」ということではない。「自分自身に問う」のだ。教えられたことを「本当にそうなのか?」ということを、自分自身に問う。

そして「いや、ひょっとしたら違うかもしれない。別の答えがあるかも」と、それを一度疑って否定してみる。その疑いや否定は、別の答えややり方、いわば「可能性」を探す為のものだ。そして自分自身で、それについてもう一度よく考えてみる―それが「学ぶ」ということなのだ。

「本当にそうか?」と一度否定してみる。その部分こそが「学ぶ」という行為の中で、最も重要なところだと思うのだ。その一連の過程を経て、初めてそれは「知識」になる。

鵜呑みにする人の場合、それは「知識」というよりも、むしろ「洗脳」だ。コピー機で印刷したように、自分の思考が一切含まれないそれは、ただの「盲信」。理解というものがなく、ただ思想を刷り込まれただけのその状態は「無知」とも言える。

作家メルヴィルが著書「白鯨」の中で、「無知な人間ほど『恐怖』を感じる」と書いている。その「恐怖」の感情を逆手にとって、洗脳は行われていくのだ。そして、「自分で知ろうとしない、考えようとしない」その姿勢こそがそういった状況を招いているのだということを認識すべきなのだ。


そもそも、「三○さんが言っていること=正しいこと、真実」と誰が決めたのだろうか。いくらその人が人格者であろうと、いくら霊的に高いものを持っていようと、そんなことはまったく関係ない。この世に肉体を持って生きている以上は、その人も「ただの人間」に過ぎない。

人間であれば、間違いを犯すこともある。「完璧」ではないのだ。言ってみれば、その人が正しいかどうかということは、50%の確率でしかない。そしてその「正しい」の後には、常に「かもしれない」という言葉が続くのだ。

「正しいかもしれないし、間違っているかもしれない」そういった不確実な要素は、どんなものにも存在している。「あの人が言うのなら間違いない」そういった不確実な部分に自分のすべてを委ねてしまうということは、実は危険なことなのだ。思考を失い、誰かや何かに自分を委ねるというそれは、「家畜」と変わらない。

「スピリチュアルなことはすべて素晴らしくて美しい」と無条件に賛美傾倒する人がいるが、やはりそれも「家畜化」されているだけだ。「自分で考える」という、人間にとって最も大事な要素を抜き取られている。

全部自分の中に取り込む前に、改めて自分で調べてたり考えてみる―それが抜け落ちている限り、「本当の学び」を得たとは言えない。

「教祖様の言っていることはすべて正しいことであり、真実だ」20年前、そう思い込んだある宗教の信者達が教祖の指示に従い、地下鉄に毒薬のサリンを撒いた。「三○さんが言っていたから」と、その言葉を鵜呑みにすることは、それとまったく変わらないことなのだ。

自分自身で調べて考えみる。物事を一度疑い、否定し、再構築する―そしてそこで得たものが、「真実」に近づく鍵となるのだ。




【追記】
以前三○さんが、「天皇家の宗教は神道」とおっしゃっていたが、天皇家には「菩提寺」があります。


カテゴリ :三位一体―心と体と魂の話 トラックバック(-) コメント(-)
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