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語学の達人

 2009-07-26
ここ数年、小学校の授業に英語を必須科目として取り入れるかどうかについての議論が、あちこちで行われている。子供のうちから外国語に触れる機会を持つことは、確かに悪いことではない。しかし、まずは「国語力」をつけることが先決だと思う。

これは私の独断だが、外国語を取得する能力、いわゆる語学力のレベルというものは、その人の母国語のレベルに比例すると思う。

それは、その外国語をカタコトでしか話せない人は、母国語もカタコトでしか話せない―ということを言っているのではない。同じゼロからのスタートで始めた場合、今自分が話している母国語のレベル(ボキャブラリー・表現・内容等)を、その言語においても再現できる可能性があるということ。

例えば、日本語で書かれた学術書を読んで、その内容を理解することができたら、英語やその他の言語で書かれた同じ程度の内容の書籍を読解できるレベルの語学力を身につけることができる可能性が潜在しているかも―ということだ。

そもそも日本語で表現できないことを、外国語で表現できるわけがないのだ。


「どうしたら英語を話せるようになるんですか?」と、いろいろな人に聞かれる。大抵そう質問してくる人は、「CNNやBBC等で話されているような難解な表現や単語を使いこなすこと=英語を話すこと、英語が上達すること」と思い込んでいる。

英語圏の国に住んだり、旅行した経験のある人は分かると思うが、ああいったニュース番組のキャスターが話しているような単語や表現は、日常生活ではほとんど聞かれない。「え?こんなもん?」と、拍子抜けした経験のある人は多いと思う。

なぜか日本人は「正統」が好きな人が多い。例えば、八百屋さんの店先でリンゴの値段を聞きたい時、「すみません。このリンゴはおいくらですか?」というような感じの表現を、わざわざ使いたがる。そんなものは、リンゴを指して「いくら?(How much?)」と聞いたらいいのだ。

八百屋のおじさんも「はい、それは1ドル50セントです」などともったいぶった言い方はしない。「It's」とか「doller」とか「cent」さえ付けず、「one fifty」としか言わない。教科書に出てくるような紋切り型の文章で話している人なんかいない。わざわざ文章にしなくても、単語だけで十分事足りるのだ。

わざわざ関係代名詞とか、そんなややこしいものを使わなくてもいいのに、なぜか日本人はその「ややこしいもの」を進んで使いたがる。

「ニューヨークに住んでいる友達がいるんだけどね」と言いたい場合、「I have a friend who lives in NY」と言わなくても、「I have a friend and she lives in NY」と言ったら十分だ。確かにさり気なく関係代名詞を使いこなせたらぶつ切りにならずにスマートだし、「本物」っぽい。だが、それはあくまでも自己満足の域だと思う。「アメリカ人みたいに関係代名詞を会話に混ぜて話せる私って素敵♪」というところだろう。

いつも思うのだが、日本人の語学の勉強方法はどこかズレているような気がしてならない。必要のない所に力を注いでいるように思えるのだ。「小難しい言葉を使う=格調高い英語」と思い込んでいる節がある。

確かにボキャブラリーが多いほうが何かと便利だ。だが、それよりも「言い換えの能力」を身につけたほうがよっぽど役に立つと思う。

例えば「電子レンジ」。アメリカ英語では「microwave(マイクロウェイヴ)」だ。だが、もしこの単語を知らなかったとしても、「ほら、あれ何て言うんだっけ?冷えた料理を温める機械」と言えば、「ああ、microwaveね」となる。何も辞書に載っている単語を全部覚えなくても、簡単な言葉でその対象を説明できたらそれで事足りる。

「病院」は「ケガをした人や病気の人が行く所」、「学校」は「勉強する場所」、「薬局」は「薬を売っている所」・・・そんな感じで、対象物の特徴等を説明できる力を磨いていく。そしてそこで得た単語や表現を、どんどん取り入れていく。その「言い換えの能力」が、実は一番重要且つ必要とされることではないかと思うのだ。

「使える語学」とは、そうやって身につけていくものだと思う。TOEICで高得点の成績を取っても、ほとんど英語が話せない、使えないという人が世の中どれだけ多いことか。

以前勤務していた職場の某部署に、TOEIC850点という人がいたのだが、国際電話や海外支社からの外国人スタッフとの打ち合わせや会議でのやり取りはグダグダだった。その様子を見て、「日本の語学教育はやっぱりおかしい」と真剣に思ったものだ。

TOEICとか英検とか、ああいったものは「単なる目安」。「得点の高さ、持っている級=その人の語学力」ではないのだ。

英語に限らず、私の周りで語学ができる人―その国の言語で、その国の人達と討論できるようなレベルの語学力を持つ人のほとんどは、そういった検定の類を一切受けたことがないと言う。だが、「TOEIC800点です~」「英検1級持ってます~」と言う人達よりも、「かなり達者」だ。

私自身、中学2年の時に英検2級を取って以来、そういった検定試験とは無縁でここまで来てしまった。当時の2級は、確か高校レベルだったと思う。高校に入ったら準1級や1級にチャレンジしてみようかと思っていたのだが、その後もなんだかんだと受けそびれて、結局そのままになった。TOEICも一度受けようかと参考書や問題集を買ったりしたこともあったが、何だか面倒くさくなって受けず仕舞い。

それでも、筆記試験・面接共3分の2が英語で行われた日本語教師の選抜試験には合格したし、OL時代は、時々文書作成や海外支社とのやり取り等で英語が必要だったが何の支障もなかった。

「資格としてそういったものを受けておいたほうがいいのかな」と何となく思ったので、当時会社に出入りしていたアメリカ人の英会話講師に相談してみたことがあった。

「留学する予定でもあるの?」「今のところないです」「ボスに受けろって言われたの?」「いえ、何も」「受かったり、良い点数を取るとサラリーはアップするの?「多分それはないと思います」「うーん、だったら別に受けなくてもいいんじゃない?受けたいと思うなら別だけど。あなたには必要ないと思うけどな~」と言われたので、「じゃあいいや」とそのままになった。

確かに高校まで週一のペースで英会話スクールに通っていたが、「役に立ったか?」と聞かれると、正直「うーん・・・」という感じだ。講師の先生が外大出身で留学経験があるとしても、やはり「限界」というものがある。発音がいくら上手だとしても、やはり「ネイティブ」のそれには敵わない。

学生時代はイギリス文学とアメリカ文学、いわゆる英米文学専攻だったので、割と頻繁に原書を読まされたり、英語で何十枚ものレポートを書かされたり、ディベートや外国人講師による講義もあった。それなりに英語力は必要だったし、身についたとも思う。

後は中学2~3年生からずっと、オーストリアのウィーン在住の同い年の男の子と女の子と、24~5歳まで英語で手紙のやり取りをしていた。洋画や洋楽も好きだったし、部屋にいる時はFEN(米軍極東放送。現在はAFN)をかけっ放しにしていた。そういう意味では周りの友達よりは英語に触れる機会が多かったかもしれない。

そんな感じで、特に「英才教育」を受けたわけでもない私だが、中学生の頃以来、今もずっとやり続けていることがある。それは、例えば新聞や雑誌、小説でも何でも、日本語の文章を見つけたら「これを英語にしたらどうなる?」と、脳内で英訳すること。何もすることがない時など、暇つぶしにやっていたりする。電車の中の吊り広告の文章とか、歌の歌詞とか、ドラマの台詞とか、ネタはいくらでも転がっている。

電子辞書はいつも手元にあるので、思い立った時はすぐに調べたりする。アメリカの友人達とのメールも良い勉強になる。先日、同時通訳を20年されている方とお会いしたのだが、やはり電子辞書等をいつも持ち歩いていて、「あれ?」と思った時には、電車の中だろうがどこでもその場で調べるとおっしゃっていた。小学校から中学までの9年間をイギリスとアメリカで過ごした帰国子女で、プロ通訳者として20年のキャリアを持つ人さえ、そういった努力を未だに続けているのだ。


あくまでも私の持論だが、外国語を習得したかったら、「日常生活において、どういった形でも、常にその言語がある状態」にしておくべきだと思う。○CCとか、NO○Aに週1回通って、2時間程度のレッスンを受けて、次のレッスンまでテキストも開かない―という状態では、正直何もしていないのと同じだ。「長く通っている割には全然変わり映えがしない」と言う人は、大抵このタイプだ。


以前、「本当は埼玉出身疑惑」があるデイヴ・スペクター氏ばりの日本語を話すアメリカ人の大学院生と会ったことがある。彼は大学に入学して初めて日本語に触れた。前から日本に興味はあったが、周りには日本語を話す人は誰もいない環境だった。たまたま大学の授業に日本語のクラスがあったので、軽い気持ちで選択したという。

その「軽い気持ち」で始めた日本語に、彼はどっぷりハマってしまった。意味も分からないのにケーブルテレビやビデオショップで日本の映画やドラマを見まくり、辞書やテキストを片時も話さず、同じ大学の日本人留学生を見つけては片っ端から話しかけて友達になり、日本語を教えてもらった。「日本人観光客に話しかけて警戒されたこともありましたね」と、彼は笑っていた。

大学3年の時に、交換留学生として日本に滞在した1年間で、彼の日本語は更に磨きがかかった。「日本にいた時は、夢も日本語で見ていました」そしてネイティブがお世辞抜きで感心する日本語を身につけたのだ。それまで日本語には一切無縁で、大学に入ってゼロから始めた日本語をそこまでのレベルにするために、彼はそういった努力をしていたのだ。

彼だけでなく、第二外国語を自由に操る人達は、やはり彼と同様のことをしている。365日、毎日平均して2~3時間はその言語に触れているのではないかと思う。週1回2時間のレッスンで、次のレッスンまでテキストも開かず、「話せるようになりたい」などと言うのは、本来虫が良過ぎる話なのだ。

在住経験があれば話せるというものでもない。語学学校に留学して2年になるが全然英語が話せない―というような、いわゆる「留学生崩れ」の人も本当に多い。もちろん真面目に頑張っている人もいるのだが、特に日本人留学生の多いアメリカ西海岸の地域では、「何しに来たの?」というような類の人を目にする機会がかなりあった。

学位を取るために大学や大学院に留学する人、研究職や企業からの派遣等、仕事が目的で留学する人と比べて、段違いにお気楽な語学学校では、やはり気も緩むのだろう。授業にも出ず、親から出してもらったお金でリッチなアパートを借りて同じ日本人留学生と同棲したり、遊び回っているケースはめずらしくない。授業には出ない、日本語しか話さない相手と一日の大半を一緒に過ごす―そんな環境では5年アメリカに住んだとしても、カタコト英語しか話せない。

「学問に王道なし」と言われるように、手っ取り早くそれを身につける方法などない。今自分が「あれくらい話せたらいいな~」と羨ましく思っているその人の語学力は、その人が見えない所で一生懸命努力してきた結果なのだ。

「何か楽な方法はないかな~」と考えるその甘さを捨てること。そんな方法は元から存在しないのだから、ボーッと考えている暇があったら言い回しの一つでも覚えたほうがよっぽどいい。そして、その心構えを持った時が本当のスタートラインだ。



【追記】
ここれでは触れなかったが、語学を学ぶ基本は、やはり「聞くこと」だ。相手が何を言っているか聞き取れなければ、何も始まらない。「英語がわからない」と言う人を見ていると、その場の状況を考えず、相手の発している音もよく聞かずに、すぐに自分の知っているよく似た単語に結びつけてしまうことが多い。

例えば「I need a dish.(お皿が要るんですけど)」と言っているのに、「dish(ディッシュ)」を「え?ティッシュ?ティッシュペーパー??」といった具合。だから双方「???」と、とんちんかんなやり取りになってしまう。

多分普段聞きなれない外国語で話しかけられて焦ってしまって、ある種のパニックを起こすのだと思うが、聞き取れなかったらもう一度聞き返すこと。そうすることで相手も表現を変えたり、他の手段を考えることができるのだ。「わかったふり」と「早合点」は禁物だ。


カテゴリ :異文化見聞録―「違う」っておもしろい! トラックバック(-) コメント(-)
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