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生きる意味

 2009-05-28
子供の頃、3歳年上の「カズちゃん」という幼馴染みの男の子がいた。家も歩いて1分のご近所で、物心ついた時には一緒に遊んでいた。面倒見が良くて明るい彼は、みんなから好かれる人だった。

「プロ野球の選手になりたいんだ」いつもそう言っていた。地元のリトルリーグではピッチャーで4番打者でキャプテン、元々運動神経も抜群で、野球のセンスと中学生に間違われるくらい体格にも恵まれていた彼は、既に周囲の注目を集める存在だった。実際、東京都内のスポーツで有名な私立校の関係者が噂を聞いて、彼の試合を見に来るほどだった。

「プロになった時用(笑)」と、ノートに真剣にサインの練習をしていたカズちゃんの顔を、今も覚えている。


それから数年経ったある日、信じられないことを聞いた。カズちゃんが入院しているという。それも数日後には手術を受ける予定とのことだった。病名は骨肉種。病院で検査を受けた時には既に手遅れで、左足を膝上から切断しなければならない状態になっていた。

ただ不幸中の幸いで、その時点では他の場所へのガンの転移は見られないので、足を切断すれば命は助かるとのことだった。そして手術―。カズちゃんは左足を失った。

ある時、カズちゃんの家に回覧板を回しに行った母が、目を赤くして帰って来た。「カズちゃんの様子を聞いたんだけどね。毎日泣いてるんだって。『足を返して』って。気の毒にね・・・」

療養とリハビリのため、1年遅れで高校に入学した彼は、多くのものをあきらめた。子供の頃からの夢も、「普通の生活」も。あんなに好きだったプロ野球の中継も一切見なくなった。

それから8年後、カズちゃんは24歳で亡くなった。亡くなる1年前、肺にガンが見つかった。治療を続けていたのだが、年齢が若いということもあり、進行が早かった。瞬く間に全身に転移して、もう手の施しようがなかった。

亡くなる1週間ほど前から意識が混濁し始め、そのまま眠るように逝った。昏睡状態になる2日前、そばに付き添う母親に向かって「まだ生きていたいな・・・」と呟いた言葉が、彼の最期の言葉になった。


「生きている意味がわからない」「何のために生きるんでしょうか?」カウンセリングの最中、そういった言葉を聞くことがある。「自分が生まれてきた意味を知りたい」「今生での自分の使命は?」それを知りたくて過去生回帰のセッションを希望する人も多い。

確かに「その意味」を知ることは無駄ではない。だが、誤解を恐れずに言うなら、意味など知らなくてもいいのではないかと思う。

すべてのことには意味がある。過去に起こったことにも、今起きていることにも、そして未来に起こることにも。だがその意味は、後々に、徐々に分かればいいのではないだろうか。「あの時に起こったことは、ここに繋がっていたのか」という感じで。意味など「後付け」でいいのだと思う。

「生きる意味」だとか、「自分が生まれてきた意味」だとか、いちいち理由を見つけたり、意味付けすることは必要なのだろうか?「生きること」に、「生まれてきたこと」に、何か意味を持たせないと生きていけないのだろうか?カズちゃんのように、ただ「生きていたい」と思うその気持ちだけではいけないのだろうか?「生きていこう」そう思うだけでは不足なのだろうか?

そういった意味を頭で考えている時は、「今現在」が抜けている。大抵、精神的なものを含め、今の自分自身や置かれている状況が、「あまり思わしくない時」だ。不安や焦りが強い時ほど、不安定な時ほど、人は「意味」を求めるものだ。

それを「くだらない」とは言わない。だが、そういったことを頭で考えて悩んでいる時間があったら、「今をどう過ごすか、どう生きるか」ということに意識を向けてほしいと思うのだ。「今を生きる」とはそういうことだから。

「生きるために生まれてきた」「生きるために生きている」それで十分なのだと思う。「なぜ生まれてきたのか?」「どうして生きているのか?」大切なのは理由や意味ではない。「どう生きるか?」ということなのだ。


「生きるって何?」今あなたがそう思い悩んでいる時間は、生きたくても生きることができなかった人達が、どんなに望んでも手に入れることができなかったものなのだ。あと30分―。あと1時間―。あと1日―。その人達が「生きていたい」と望んだ時間でもあることを覚えていてほしいと思う。

「なぜ自分は生きられないのか?」ではなく、「なぜ自分は生きているのか?」と考える時間があることは、とても幸せなことだ。世の中には、多くの人が日々当たり前のことのように思っている「生きる」ということさえ、叶わない人が大勢いるのだから。

人生の終盤、最期の時に「自分はこういうことの為に生きてきたのかな」と、何となくその片鱗のようなものがぼんやりとでも見えたら、それでいいのではないかと思う。そして、人生に起こった不幸を数え上げえるより、たとえ少なかったとしても、その幸せに感謝できるような人間になっていたら、もうそれで十分なのではないだろうか。


最初に意味や理由があって生まれてくるという他にも、「どう生きたか」によって、結果それが意味や理由というものになっていくこともあると思う。


もしかしたら、「なぜ生きているのか分からない」そう悩む時でさえも、「それもかけがえのない自分の人生の一部」と思えるようになることに、「生きている意味」があるのかもしれない。









カテゴリ :Mの心象―あれこれ思うこと・感じること トラックバック(-) コメント(-)
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