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清水由貴子さんの死について思うこと

 2009-04-23
【タレント 清水由貴子さんが自殺か・・・父親の墓前で】
 
21日午後1時20分頃、静岡県小山町大御神の霊園に女性が倒れているのを霊園職員が見つけた。御殿場署が調べたところ、女性は死亡しており、近くで車いすの女性が意識を失っていた。

同署幹部によると、死亡したのはタレントの清水由貴子さん(49)(東京都武蔵野市)。清水さんは父親の墓前でポリ袋に顔を入れて倒れており、袋から硫化水素が検出された。袋の中にはバケツと洗剤容器などがあり、所持品から遺書らしいメモも見つかった。同署は、自殺を図ったとみて調べている。車いすの女性は母親で、生命に別条はないという。

所属していた芸能事務所によると、清水さんは1976年に日本テレビ系の「スター誕生!」のグランドチャンピオンとなり、77年に「お元気ですか」で歌手デビュー。萩本欽一さんの番組などに出演した。06年3月、「母の看病に疲れ、いい仕事ができない」として事務所を辞めた。

(2009年4月21日21時15分 読売新聞)




清水由貴子さんの死に対しての、連日のマスコミ報道を見ていると虚しくなる。原因究明と、彼女を自死に追いやった「犯人探し」に終始するばかりの内容。「母親の介護疲れか?」「介護に伴う鬱が原因か?」「国の政策が悪いせいだ」「『○○ファミリー』の一員だったのに、どうして助けてやらなかったんだ」

私を含め、たぶん多くの自死遺族はこう思っている。「真実は亡くなった本人にしかわからない」と。後に残された者達がいくら議論をしても、それは結局「推測」の域を出ることはない。死の真相は永遠に解明されることはないのだ。

明るくて、朗らかで、真面目で責任感が強くて、一生懸命で―。「自死」という言葉とは、まったく無縁に思えるような彼女がそれを選択したということで、世の中の多くの人は改めて認識したと思う。自死を選ぶのは、「弱い人」でも「甘えている人」でも「無責任な人」でもないのだということを。


自死は誰にでも、どんな人にも起こりうる可能性のあるものなのだ。自分でも、周りの人達も「絶対にそんなことはしない、あるはずがない」と思っている人でも、それは同じ。人間の心というものは、常に形を変えていくものだ。何がきっかけで変化するか分からない。

自死に至る確率はかなり高い。自死を選ぶか、選ばないか―2つに1つ。50%の確率。そして自分が自死遺族になる確率も同じ数だけあるのだ。ニュースやドラマの中だけの「他人事」の話ではなく、それだけ身近にあるもの。「当事者」や「遺族」になり得る可能性は、どんな人にも必ず50%は存在する。

彼女の死の原因であると言われている「介護疲れ」。だが、理由はこれだけではないと思う。自死の原因は決して一つではない。多くの要因が複雑に絡み合っている。今回一番の原因として報道されている「介護疲れ」は、あくまでも「その中の一つ」。簡単に「これが原因だ」と、一つに絞れるものではないのだ。そして真相は、当事者である故人にしか分からない。

「相談できる人がいなかったせいでは?」という意見も多い。確かに自分の心の内を明かすことのできる存在がいるということは助けになるかもしれない。だが、本当に悩んでいる人、その悩みが深ければ深いほど、人は誰かにそれを打ち明けるということができなくなるものだ。

「何か悩んでいるんじゃないの?何でも話してみて!」と、相手が善意で言ってくれたとしても、自分から話したいと思った時以外は、かえって自分の前に立ちはだかられたような圧迫感を覚えて、人は何も言えなくなる。相手の厚意を無にしたくなくて、ある程度まで話すことはあるが、それは必ずしもすべてではない。自分の抱えているものが深くて重いほど、人はそれを隠そうとする。

本気で死を考えている人は誰にも止められない。本気で死のうと思ったら、人はドアノブ1個、ヘアピン1本あったら死ねるのだ。24時間監視カメラがついて、飛び降りるための窓も、首を吊るための紐や場所もない、そういった危険性のある物が一切排除された部屋で自死を遂げた例もある。

自死の決意を感じた家族や友人が付き添って、そばを離れないようにしていても、わずかな隙をついて目的を遂げた人もいる。「そんなことを考えた自分が馬鹿だった。もうそんなことは絶対にしないから安心して。大丈夫だから」と、以前の快活さや様子をすっかり取り戻したように見えて、周りも安堵した矢先に逝った場合もあるのだ。


自死というものは、単純に「良い、悪い」で決められるものではないと思う。「どうして自殺はいけないのか?」母が亡くなって以来、私はそれに答えられない。「与えられた命を粗末にしてはいけない」「生きたくても生きられない人がいるのに、自分で死ぬなんて許せない」多くの人がそう言う。確かにそうかもしれない。しかし、未だ私が心から納得する答えは見つからない。


自死を選ぶ人というのは、もうその時点で疲れ果てているのだと思う。疲れ切って、もう「死」しか行き場がない、それしか残っていないという極限の状態になるのだと。周りから見たら、「そんなことで?」と思うようなことでも、本人からしてみたら切実な問題なのだ。そしてそれは本人にしかわからない。

自分には理解し難い理由で誰かが自死を選んだ時、「許せない」という感情を抱く人がいる。特に難病を抱えて、常に死と隣り合わせで生きているような状態にある人から見たら当然だと思う。

しかし、理解しなくてもいいから、「認知」してほしい。人にはそれぞれ「事情」というものがあるということを。そこに至るまでに、その人には計り知れないくらいの苦悩や悲しみを自死者が抱えていたことを。人の痛みは自分の物差しでは計れない。「許せない」と思うのは、そこに自分の物差し、エゴがあるからだ。

私は自死者を非難できない。年月が経つほどに、自ら命を絶った母の背景にあるものがよく見えてくるようになったから。でも、それは「自死容認」ということとも違う。ただ「あれが母の選択だった」と、ある種淡々として思うようになった。いいとか悪いとか、許せないとか、悲しいとか―そういった感情もなく、「事実」として受け止める自分がいる。

軽々しく命を考える人など、誰もいない。だからこそ、自分で命を絶つということを選ばざるを得なかった自死者が、どれだけ追い詰められていたか、その苦悩がわかる。

今はただ、清水由貴子さんが安らかであるように・・・と願うだけだ。彼女が、死によって得たいと願っていたものが手に入っていますように。すべての苦悩や痛みから解放されていますように。そして、ご遺族の皆さんが、笑顔で清水さんを思い出して語れる時が一日も早く来ますように・・・。



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