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タラレバ夢想

 2009-04-21
過去に起こったことや、現在自分が置かれている状況に対して、「もしあの時~だったら」「もし今~であれば」と、「たられば」を駆使した想像を巡らす人がいる。

「もしあの時~していれば、もっと違う展開になっていたかもしれない」「もし今自分に~があれば、もっと満足できる状況になっているかもしれない」想像は果てしなく続く。

そこにあるのは「後悔」ばかりだ。「それをしなかった自分」「それを手に入れなかった自分」に対する落胆と悔しさ、そして、もし違う選択をしていれば手に入れたかもしれない「(多分)幸せと満足に溢れた充実しているであろう、今とは違う状況」に対する羨望―そういったもので、その「後悔」は成り立っている。

しかし安心してほしい。なぜなら今思い描いている状況は、もし「あの時」、万が一の「たられば」が起こったとしても決して実現することはなかったはずだ。仮に違う選択をしたとしても、結局今とまったく変わらない状況、もしくは大差ない状況になっているはず。

なぜなら「たられば」は、現実にはあり得るはずのない、あてもない、根拠のない「夢想」と、そこからは何も生まれない「後悔」の産物でしかないからだ。実体のない幻、幻想だから。

現実にないことを、さもそれが存在するかのように感じ、考えるということは、それに囚われているから。「時間を巻き戻してやり直したい」という、実現不可能なことに、ずっとしがみついているが故だ。

いわば過去に生きている。時がそこで止まっている状態。しかし、それを止めているのは自分自身なのだ。そこから離れようとしない自分のせい。

「想像」と「夢想」はまったく違う。「想像」は「後悔」を伴わない。そして「想像」は、未来へと繋がっていく。

後悔から生まれた「夢想」は、すべてを過去に引き戻す。過ぎてしまったことを、あれこれ仮説を立てて、その実現の可能性の有無を証明しようとしているだけだ。


「たられば」にしがみつく人は、多分「証明したい」のだと思う。「自分にも可能性があった」ということを。「自分は、そういった可能性もあり得る有望な人間だった」ということを。今の自分ではそれが証明できない―だから過去の、存在したかもしれない、実体のない可能性にしがみつく。

そもそも、今誇れるものがあるなら、今の自分を誇らしいと思えるなら、「たられば」という言葉は出てこない。

「それじゃ、今度同じような状況になったら絶対にこうしよう」と、次に繋がる「反省」はいくらでもしていい。しかし後悔からは何も生まれない。

「たられば」で自分を語ったり、「たられば」ベースの夢想をしていることに気づいたら、それは「今現在を生きろ」というサイン。

過去に囚われず、拘らず、現在を生きる。そして理解するのだ。「今どんな状況にあろうと、あの時自分が選択した道、ここに至ることになった道を選んだことは決して間違いではないのだ」ということを。

「間違った道」「間違った選択」そんなものは存在しない。自分が今いる状況、自分が下した選択は「すべて正しい」のだから。


テーブルの上にこぼれたミルクは戻らない。こぼしたことを嘆くより、こぼしたその後をどうするか―。
「その後=未来」のために「想像力」は使うものだ。戻らない過去を嘆くために使うより、未来を考えるために使うほうが断然楽しいに決まっている。

「たられば」で築き上げた「ひょっとしたらそうなっていたかもしれない別の人生」なんて、「脳内限定」のものでしかない。所詮「バーチャルはバーチャル」。


今を生きるか、過去にしがみつくか―すべては自分の選択次第なのだ。











カテゴリ :三位一体―心と体と魂の話 トラックバック(-) コメント(-)
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