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スピリチュアリスト達の矛盾

 2009-03-06
やたら「愛」という言葉を連呼する人達がいる。大抵は、自己啓発や精神世界に熱心な人達だ。だが、その人達が四六時中口にする「愛」は、「LOVE」ではない。愛は愛でも「馴れ愛(合い)」だ。

その人達は、とても「なかよし」だ。みんなで仲良く、和気あいあいと楽しく過ごしている。誰かが口にする言葉に対して「そうよね~そのとおりよ~」と、一様に頷き合う。しかしそこで、ちょっとでも疑問や反対意見を口にすれば、その場の雰囲気は一変する。まるで裏切り者や悪魔が紛れ込んでいたかのような騒ぎになる。

なぜなら疑問や反対意見を口にすることは、その人達にとっては「愛がない行為」だから。「愛に満ちた人」なら「絶対にしない、してはいけない」とされていること、いわゆる「タブー」に相当することだからだ。

要するに、「イエスマン」しか要らないということ。その場の空気を読み、その雰囲気を保つこと、相手の言うことを全部肯定賛成し、お互い気持ち良くいられることが大前提だということだ。違和感や反対意見を覚えたとしても、その場を和やかに保つためなら決してそれを口にしてはいけない―「馴れ合い」以外の何ものでもない。

自己啓発や精神世界の類のセミナーでは、大抵がそんな感じだ。ちょっと有名だったり人気のある講師やヒーラーの周りには、たくさんの取り巻き、「イエスマン」が大勢いる。その様子は、ちょっとした新興宗教のようだ。教祖と信者―といった感じ。「教祖」の顔をうっとりと見つめ、しきりに頷いて賛同の意を表す。教祖には誰も反対意見を唱えない。信者同士でもそれは同様だ。

そばで見ていると、非常に寒々しい。某講座でその光景を目の当たりにした時、正直気持ちが悪かった。

大体「愛、愛」と連呼する割には、反対意見を口にした人に対して反論する様子は、はっきり言って「攻撃」としか思えないような質のものだったりする。日頃「愛のない言葉はナンタラカンタラ」と言っているが、そこには愛なんてものはどこにも感じられない。あるのは自分を否定されて面白くないといった、ある種の「恨み」のような感情だけだったりする。

愛とか光とか、穏やかなことを唱えている割には、すぐ激高するような感情の起伏が激しい人が多いのも特徴だと思う。きちんと根拠のある反対意見や批判を、即「自分への否定」と思い込む。感情論で終始するので、きちんと筋の通った話ができない。論理に感情では噛み合うはずがない。

自分達と異なる考えや意見を持つ人を、即「悪」「裏切り者」と決めつけ排除するその姿勢―どこに「愛」があるんだか・・・。その人達が言うところの「愛」が、「その人を自分の価値観で決めつけず、裁かず、その人のありままの姿を受け入れること」であるというのなら、まったく矛盾している。

愛とか光とか、そういった明るい響きのものに拘っている人ほど、強烈なネガティブ思考やマイナス感情を抱えているような気がするのは私だけだろうか。ある種のコンプレックスの裏返しだと思う。自分の中の闇が深いほど、明るいものを求め、惹かれるものだ。

セミナーの参加条件の中に、「周りの人と仲良くする気がない人はお断り」等と書いてあるのを見ると、一体何を目的としているのだか疑問が湧いてくる。みんな仲良く、楽しく、お互いを褒め合っていい気持ちになるのが「愛」であるというなら、そんな愛は要らない。同志だけで「馴れ愛」の幻想を楽しんでいればいい。

愛とか、ワンネスとか言っている割には、実はものすごく狭い世界で、限られた人達だけで、ちまちまと「スピリチュアルごっこ」を楽しんでいるに過ぎない。変な選民思想とか、そういったものを増長しているだけ。狭く、閉鎖的な世界でもある。

自分達の言動の矛盾にまったく気づかないスピリチュアリスト達―それこそが最大の矛盾だ。




カテゴリ :はい論破!スピリチュアルと自己啓発の矛盾とからくり トラックバック(-) コメント(-)
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