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錯誤

 2016-10-23
【「残業100時間で過労死情けない」武蔵野大教授が不適切投稿 ネットで批判うけ大学が謝罪】
産経ニュース(デジタル版)2016年10月12日掲載記事引用

武蔵野大(東京)は、グローバル学部の長谷川秀夫教授がインターネット上に投稿した過労死に関する記載内容が不適切だったとして「不快な思いをさせ、世間をお騒がせしたことについて、謹んでおわび申し上げます」と謝罪するコメントを発表した。

 武蔵野大などによると、長谷川教授は7日、政府が初の「過労死等防止対策白書」を閣議決定したというニュースを掲載したサイトに「月当たり残業時間が100時間を超えたくらいで過労死するのは情けない」などと投稿した。

 同日、広告大手電通に勤めていた女性社員=当時(24)=が自殺したのは過労が原因として労災認定されたこともメディアで報じられていた。長谷川教授はこの投稿を削除し、8日に同じサイトに「言葉の選び方が乱暴ですみませんでした」などと書き込んだが、ネット上では批判が集まっていた。長谷川教授は東芝財務部企画担当参事や家具量販大手ニトリ取締役などを経て、平成27年に武蔵野大の教授に就任していた。(以下略)


【長谷川教授の謝罪コメント】

私のコメントで皆様に不快な思いをさせてしまい申し訳ございません。ここで、皆様に返信させていただきます。

(1)言葉の選び方が乱暴で済みませんでした。
(2)とてもつらい長時間労働を乗り切らないと、会社が危なくなる自分の過去の経験のみで判断し、今の時代にその働き方が今の時代に適合かの考慮が欠けていました。

以後、自分の専門領域を中心に、言葉を慎重にえらび、様々な立場、考え方の方々がいることを念頭において、誠意あるコメントを今まで以上に心がけてまいります。(原文まま)


民族性というものは、何百年、何千年経とうと、多分変わることはない。戦前から「死ぬ気でがんばれば絶対にうまくいく」「気の持ちようで何とかなる」という「根性論」「精神論」が崇拝されてきたこの国では、今尚そういった思考が幅を利かせている。そして、その「信奉者」も、相変わらず根強く存在する。「残業時間100時間で過労死は情けない」と発言した件の大学教授はその典型だ。

多方面からの批判を受け、本人は上記のようなコメントを発表しているが、「全然わかってないじゃん、この人」と。謝る相手は「コメントを読んで不快に感じた人達」ではなく、あなたが「100時間くらいの残業で過労自死するなんて情けない」と侮辱した女性に対してでしょ?と。

謝罪コメントを読んでも、「ズレ感」しか感じない。世間が自分を叩くのは、「表現方法」と「空気が読めなかったこと」に問題があるからだと思い込んでいるのがよくわかる。おそらく、この人は今でも「自分の発言は間違っていない」と思っているし、自分への批判も納得していないはずだ。

この人の最大の問題点は、「物事の表面」しか見ていないことにある。電機メーカーの経理・財務畑に永年いらっしゃった影響なのか、「残業時間100時間」という、「数字」にしか反応していない。こういった短絡的な思考は、「研究者」としては致命的だと思う。曲がりなりにも今現在「研究者」を名乗るなら、「見えない部分」「それが起こった背景」を推察しろよ、と。推察も分析もない根性論は、たちの悪い「言いがかり」でしかない。

大学教授とはいえ、やはり、この人の根っこは「ゴリゴリの昭和のサラリーマン」なのだ。それこそ右も左もわからない新卒社員の頃から上司や先輩達によって叩き込まれてきたであろう精神ややり方は、「洗脳」と言ってもいい。洗脳の末に植え付けられた「サラリーマン根性」が、未だに抜けていないのだ。

「100時間の残業で云々」と言うが、その人の精神状態や体調によって、「100時間」の意味や影響は変わってくる。「それ位、誰だってやってるよ」「200時間残業してるオレなんかとっくに死んでるわ」世間にはそういった声もあるが、ここでもまた「根性論」なのだ。それぞれの「背景」を無視した見方・受け取り方をする人がいる限り、この国からは「過労死」はなくならない。

人間というものは、自分が経験したことのないこと、もしくは運良く自分が克服・成功したことに対して、理想論や正論、精神論を持ち出し、それを押し付けがちになる。それはある意味「仕方のないこと」ではあるのだが、自分のそれが「あくまでも一例」「一個人としての自分の意見や体験」という認識がない場合、話は変わってくる。

字面だけを見れば、それらは決して「悪いこと」ではない。だが、そのことが余計に逃げ道を塞ぐのだ。「追い詰められた人」は、自分自身を責め続けている状態にある。「悪いのは自分」「自分がダメな人間だから」そう思っている。自分を嫌悪している状態の時に突きつけられるそれは、更にその人を深い淵に落とすのだ。自分がどれだけ「正しいこと」「あるべき姿」から離れた場所にいるのかを思い知らされるから。「追い詰められて弱った人」にとって、正論や精神論の類は「救い」にはならないのだ。

「月当たりの残業時間が100時間を超えたくらいで過労死するのは情けない。会社の業務をこなすというより、自分が請け負った仕事をプロとして完遂するという強い意識があれば、残業時間など関係ない。自分で起業した人は、それこそ寝袋を会社に持ち込んで仕事に打ち込んだ時期があるはず。更にプロ意識があれば、上司を説得してでも良い結果を出せるように、人的資源を獲得すべく最大の努力をすべき。それでも駄目なら、その会社が組織として機能していないので、転職を考えるべき。また、転職できるプロであるべき長期的に自分への投資を続けるべき」

件の長谷川教授がネットに投稿、批判された文章の全文だが、なんというか、「陳腐だな」と。上っ面だけの綺麗事というか、熱血サラリーマンが主人公の、昭和のドラマに出てきそうな言葉の羅列が非現実的なのだ。いわゆる「意識高い系」特有の、上から目線の理想論でしかない。

「上司を説得」「人的資源を獲得すべく最大限の努力を云々」「長期的に自分への投資を続け云々」これが通用・適用されるのは、心身の状態や時間に余裕があり、職場環境や人間関係が良好な場合だけだ。

「君の残業時間の20時間はムダ」「目が充血したまま、髪がぼさぼさのままで出勤するなんて女子力がない」と上司からパワハラ・モラハラ発言をされたり、休日返上で作った資料を貶されたり、心身共に疲れきって萎縮しきった、ただでさえ立場の弱い新入社員に、上司に立ち向かうエネルギーや勇気が残っているわけがない。ベテラン社員でもハードルの高いことを要求すること自体、現実味がない。それができるくらいなら、今回のようなことは起きていない。

「精神力ですべてが解決できる」この国では、何かと根性論を持ち出すが、自分の意思で起業したような、職場に寝袋を持ち込むくらいのやる気に満ちた人であっても、嫌気が差すことはある。すべてを投げ出してしまいたくなるような状態になることも、一度や二度ではない。だが、それは人間ならば「普通」のことなのだ。当初の情熱が何年も何十年も同じレベルのまま続くほうが、むしろ「異常」であり、「レアケース」なのだ。

何よりも、大学で経営学を教える教授が、「請け負った仕事を完遂する意識があれば、残業時間なんか関係ない」と発言する時点でおかしいでしょ、と。経営学で労働基準法については教えないんですか?経営学の教授が労基法を無視してどうするんですか。法律や人権よりも「根性論」が適用されるって、どう考えてもおかしいんですけど。

この人の言葉をそのまま受け取れば、「経済的活動は、根性で何とかなる」ということになる。そんなわけあるかっつーの。何が「経営学」だよ。そんなの「学問」でもなんでもないじゃん。「学問」の肝である「理論」はどこにいった?結局、この大学教授が言うところの「プロ意識」とは、「組織のために犠牲になれ」の同義語なのだ。それこそ「社畜根性」以外の何物でもない。

これ、本当に「グローバルビジネス科」で教鞭を取っている人の発言ですか??思考が昭和のサラリーマン感全開で、全然グローバルじゃないんですけど。むしろ、時代とか世界的な傾向とか、すべてにおいて「逆行」してますけど、どーなんすかね?

世間では「ワークライフバランス」やらなんやら言ってはいるが、専門家が平然と労基法を無視した発言をし、根性論を振りかざすのが、この国の現状なのだ。「根性があればすべてが解決する。うまくいく」日本人のメンタリティーにがっちりくい込んだ「根性論」は、この先もずっと存在し続ける。そして、それを信奉する「日本人」という民族も、多分この先も変わることはないのだ。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタ 樫田ミラに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

インターネット上の文章や画像にも、ちゃんと著作権はあります。著作権侵害に関する訴訟では、①被告による原告の著作物へのアクセス可能性(IPアドレスの調査等) ②被告の利用著作物と原告の著作物における表現の酷似性③原告の著作物の著名性、周知性といったことが立証されれば成立します。故意に侵害した場合には、10年以下の懲役または1千万以下の罰金が科せられます。


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イミテーション

 2016-10-10
自らを「やさしい」と称する人のそれは、本当の「やさしさ」ではなく、「処世術」なのだと思う。実際、そのやさしさも、後から考えると「どうでもいい」「それくらいは誰でも」というような、「わかりやすい」程度のものだったりする。同時に、これみよがしなアピール感を若干感じるのは、多分彼らがそれを意識して行っているからだ。

特に何事も起こらず平穏な時、その人達は、文字通り「いい人」だ。だが、実際何か事が起こった時、その印象は一変する。そのやさしさの「正体」が、いわゆる「世渡りのための方法」だったということが露見する。

その瞬間、「論理」と「経験」の不一致が起こり、すべてが「綺麗事」になる。彼らの言葉も、態度も、今まで「やさしさ」と思われていたそれは、「人の為」ではなく、すべて「自己保身の為」であったことが暴露されるのだ。

弁解を並べ立て、自分を正当化しながら、火の粉が降りかからないようその場を逃れようとする様、耳に心地の良いことをあれこれ言いながらも、結局核心に触れず、問題を先送りにして「現状維持」に徹しようとする様は、彼らが、実際は「ただのご都合主義の平和主義者」であることを教えてくれる。言葉だけは立派だが、火中の栗は拾わない―それが、彼らだ。

「自称 やさしい人」が一番恐れるのは、「人から嫌われること」だ。「孤独」への耐性も低い。自分から人が離れていくということが耐えられないのだ。だから、彼らは「やさしい」のだ。嫌われないように、悪く思われないように、独りにならないように―そのやさしさは、結局「自分のため」なのだ。

その手の人達が一番やさしくする相手は、他ならぬ「自分自身」だ。一番かわいいのも自分。一番大事なのも自分。一番守りたいのも自分。中心は、あくまでも自分自身。それが彼らの「本性」だ。

「巻き込まれること」を恐れる彼らは、その危機に面した時、本来の姿を見せる。いかに上手くとばっちりを避け、この場を丸く収めて安全圏に脱出できるかを算段する狡猾な顔が現れる。もしくは、「あわよくば最小限の修復可能なダメージの範囲内で事を済ませたい」そう思っている。

そして、その間も、人から嫌われることのないよう、上辺だけのフォローは欠かさない。響きだけの、心のこもっていない綺麗な言葉で、形ばかりの理想論や正論を語ったり、無責任な慰めや励ましを言ったりするのは、人を怒らせることへの恐怖や「人を怒らせる自分」を正視できないからだ。この期に及んでも「やさしい」のは、人から嫌われたくないから。

彼らは思い違いをしている。「やさしいこと」は、嫌われることの「免罪符」にはならない。「みんなにやさしい」ということは、「=みんなから好かれる」ではないのだ。「自称 やさしい人」は、多分こう思っている。「みんなにやさしい自分が嫌われるわけがない。やさしくていい人は嫌われない」そういう思い込みがあるから、彼らは人にやさしくする。

とってつけたような、「いかにも」な態度や表情。綺麗事と理想論だけの融通性のない言葉。中身のない、ただひたすら相手の機嫌を取るためだけの美辞麗句。むやみやたらの「共感」と「肯定」―計算高さや自己保身から発生する「やさしさ」は、どこか作り物めいた匂いがする。結局、彼らは「演じている」のだ。彼らの言う「やさしさ」とは、自分の利益を計りながら、親切そうに振舞うことなのだ。

彼らにとっての「やさしさ」は、嫌われることを避けるための、いわば「先手必勝」の、相手からの攻撃―嫌悪や悪意を封じ込めるための「布石」なのだ。根回し、計算―すべては「戦略」であり、「技術」なのだ。すべては、相手のためではなく、自分のためのもの。

だから、彼らの「やさしさ」は薄っぺらい。奥行きもなければ、深みもない。時間と共に消えていく類のものだ。後には何も残らない。後に彼らを思い出す時に浮かぶのは、「やさしい人」ではなく、「中身のない上辺だけの人」という印象だけだ。勇気も気概も覚悟もない、自分を守るためだけの「やさしさ」は、結局爪痕さえも残せない。塵芥と同等のそれは、何の価値も残さない。

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対 峙

 2016-10-01
今年の1月、3年ぶりにブログを再開して改めて思ったことだが、やはり私は、誰のためでもなく、「自分自身のために書いている」のだなー、と。

書いたものをこういう形で公開している以上、不特定多数の人の目に触れることは避けられない。それを読む人がいるということで、その存在や反応を考えないわけではないが、基本気にしない。

「メッセージ」を発信しているつもりもない。どう捉えるかは、読む側の自由だ。そう受け取りたい人はそうすればいい。最低限、そこに自分が「込めたもの」を読み取ってもらえたらいいとは思うが、それ以上の期待はしていない。結局人は、物事を自分が思いたいように思い、見たいように見るのだから。

人の期待や希望に応える気もない。時々、「こういうことについて書いてほしい」「こうしてほしい」等という「注文」が来ることもあるが、それを取り上げる気はない。いくら需要があろうが世間受けしそうだろうが、原則、何を書くかは自分が決める。自分が書きたいことしか書かないし、自分がやりたいようにやる。それはこの先も変わらない。

「共感してもらうこと」にも興味はない。読み手の好みや感想は、それ以上でもそれ以下でもない。それを知ったからといって、私は何も変わらない。「読んでほしい」とも思わない。「読みたきゃ読めば?」そう思う。気に入らないのなら読まなければいいだけの話。強制も懇願も存在しないのだから、自由にしたらいい。

読み手ありきの前提で書かれた文章というのは、どうしても「媚び」が鼻につく。「読者を増やしたい」「共感されたい」「よく思われたい」そういった承認欲求が底にある場合、どうしても基準は「外」になる。そちらを優先するあまり、「本来自分が言いたいこと」からどんどんズレていくこともある。論旨と軸がぶれた文章など、書く価値もない。それは「私がしたいこと」ではない。

「自分が読んで面白いもの」それがすべてだ。書き上がったものを読み返して、納得できないものは、迷わず消去か全面的に書き直す。もしくは、コンセプトはそのまましばらく月単位、年単位で寝かせておいて、後々別の切り口や表現で再アプローチする。

「産みの苦しみ」を端から放棄して、誰かや何かの文章を丸写ししてその場をしのぐような柔なことはしない。「徹底的にそれと向き合ってやる」その気概は絶対に捨てない。それは私の「プライド」だ。

「自分とはどういう人間なのか」それを確認するために、私は書いている。ブレていないか、媚びていないか、潔いか―自分自身のスタンスと信念を再認識し、定着させるために、私は書く。

自分の中にあるものをどう表現するか、それを表す「完璧な言葉」にどう近づくか、届かない歯がゆさや昇華の前の苛立ちをどうねじ伏せるか―「書くこと」は、いわば「格闘」であり、「挑戦」なのだ。自分の能力と情熱の限界を確かめるために、それを超えるために、私は書く。

そして、最終的なジャッジをするのは、ほかの誰でもなく、あくまでも私自身なのだ。私を評価するのは、私だ。自分が認める自分になる―私は、私自身と対峙している。

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