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アメリカにて「NO PARTY, NO LIFE!だってアメリカ人だもん」

 2016-09-24
「パーティー」が嫌いだ。「サプライズパーティー」は、それ以上に嫌いだ。

こう言うと、「えー!意外!」と決まって驚かれるのだが、基本ソロ活動を好む人間なので、わちゃわちゃと大人数が集まってキャッキャウフフしながら賑やかに騒ぐということが、どうも性に合わないのだ。

自分で言うのもなんだが、人当たりはいいので、その場の空気に馴染んでそれなりに振舞うことはできる。だが、正直「自分を含めて、せいぜい4人まで」という、経験から独自に導き出した許容数を超えると、もうダメだ。「人酔い」してくるというか、気疲れして、どんどん消耗していき、最終的にライフポイントは限りなくゼロに近くなる。

アメリカ在住の頃、それはもう鬱陶しかった。大なり小なり、「パーティー」と銘打った集まりを年がら年中気軽に開くお国柄。「この先一生パーティーと名のつくものに出なくてもいい」と本気で思うくらい、引っ張り出され、連れ回された。

室内だけでなく、ビーチや公園、キャンプ場等至る所で開かれるそれに、「こいつらどんだけお祭り騒ぎが好きなんだよ・・・」とヘロヘロになりながらも、郷に入っては郷に従え―その国で生きている以上は受け入れなければならない。パーティー嫌いの人間にとって、アメリカはまさに「鬼門」なのだ。

「人生は楽しんでなんぼ」という考えが国全体に浸透していることもあり、アメリカ人は、人を喜ばせたり楽しませることに対して労を惜しまない。もちろん、「自分も楽しむ」という前提で。それは、「情熱的」「貪欲」と称してもいいほどだ。彼らにとって、パーティーは、「自分が人生を謳歌していることを手っ取り早く実感できる場であり、機会」でもある。

特に、誕生日やお祝い事に関することであれば、「当然サプライズパーティーっしょ!」という前提で話が進むことが多い。さすが映画の都 ハリウッドを抱えるエンターテインメントの国だけあって、アメリカ人はその手の演出が大好き且つ得意ときている。

日本人なら、「でも、それって準備が大変じゃない?」と二の足を踏みそうな規模や内容だとしても、彼らは持ち前の情熱と貪欲さとサービス精神で、それをやってのけるのだ。普段の「えー、そこまでガチガチにしなくてもいいんじゃないのー?適当でいいよー。Take it easyだよー」という大雑把モードが消え失せ、俄然マメになるのも面白い。

そういった部分を含めての、様々な思いや手間やアイディアが詰まったイベントなので、仕掛けられる側は、ただただそれを受け入れるしかない。私のような「サプライズ嫌いのパーティー嫌い」からしたら、自分がその「主役」になることは拷問にも等しい。「そういうのはいいから!本当にいいから!必要ないから!」と阻止しようにも、ロックオンされたら最後、諦めるしかないのだ。

ただ、仕掛ける側が、いくら慎重に、バレないようにこっそり仕込みをしていたとしても、ちょっと勘のいい人間なら「その気配」は容易に察することができる。だが、もし感づいてしまったとしても、仕掛けられる側は、決してそれを表に出してはいけない。ターゲットである当事者は、あくまでも知らんふり―それが「暗黙のルール」なのだ。

たとえオフィスの休憩室のテーブルの上に、誰かがうっかり置き忘れた自分の誕生パーティー用の買い物リストを見つけてしまったとしても。仕事からの帰り道、立ち寄ったショッピングモールのベーカリーで、同僚が「そう、スペルはM・I・R・A。大きさは・・・」と、自分のためにバースデーケーキの注文をしている場面に遭遇して、気づかれないように踵を返し、ダッシュでその場を立ち去ったとしても。友人の家で、「バスタオル取ってきてー」「はいよー」と開けたクローゼットの中に、自分の名前と「HAPPY BIRTHDAY!」と書かれたタグが付けられた、明らかに「プレゼント」とわかる包みを偶然見つけてしまったとしても。

「バレバレですやん!サプライズちゃいますやん!」という状態になったとしても、「何も見てまへん。何も知りまへん。皆さんが私の誕生日にサプライズパーティーを開こうとしてるなんて、そんなことは夢にも思ったことはありまへん」を貫くのが、仕掛けられる側の「使命」であり、「仁義」なのだ。ここまで来ると、「鬱陶しい」を通り越して、もはや「鬱状態」に近くなってくる。

くそー・・・「誕生日いつ?」って聞かれた時、「誕生日?実はもうすぐなんだよねー」なんて言わなきゃよかった・・・(T_T)

何がイヤって、サプライズ嫌いの自分にそれを仕掛けられることがわかっているだけでもアレなのに、その瞬間が来るまで「えー、サプライズって何?それって食べられるの?」的な鈍感さを装ってからの、「オーマイガー!信じられない!なんて素敵なの!ありがとう!」という感激した体の小芝居をこなさなければならないのだ。

いや、無理。マジ無理だから・・・。あたくし、イクストリームリーにシャイなジャパニーズなんで、そんなハリウッド的な寸劇を求められても非常に困るんですけど・・・。

つーか、前から「サプライズ苦手」って言ってるじゃん!もしかしてあれか!?「押すなよ!?絶対に押すなよ!?」って前フリして、熱湯風呂に落とされるダチョウ倶楽部の芸的な意味に取られてたとか?うわー・・・マジ勘弁・・・。「日本人はなかなか本音を言わない」って言われてるけど、私は違うんだよぉー!思ったことははっきり言う性格なんだよぉー!前フリなんかじゃないんだよぉー!ヽ(`ω´*)ノ彡

ただね・・・やっぱりアメリカにいる以上、逃れられないんですよ。その「寸劇」を演じることから。アメリカのドラマや映画でも見たことあるでしょ?

明かりの消えた部屋に入る主人公。「あれ?誰もいないの?ねえ、誰・・・」「サプラーーーイズ!!」の声とクラッカーの音と共に電気がついて、満面の笑みを浮かべて物陰から現れる人々。突如始まる「ハッピーバースデー」の合唱。感激の面持ちの主人公。

「さあ、ロウソクを吹き消して!」目の前に差し出されるバースデーケーキ。ロウソクが消えると沸き起こる拍手。ハグとキス。手渡されるプレゼント。「素敵!これ欲しかったの!本当にありがとう!」喜びと幸福に顔を輝かせる主人公。それを微笑みで温かく見守る周囲の人々―。

書いているだけでも胸焼けして白目をむきそうになる場面だが、これがデフォルトなのだ。もうね、「圧」がすごいんですよ。圧が。その「愛と感動に溢れた場面の主人公役」を最後まで完璧に演じることを、周りが信じて疑わないわけ。もう「台本」があるんじゃないかと思うくらい。男女・年齢・人種関係なく、「主人公役」は、判で押したように「幸せな主人公的小芝居」を恥ずかしげもなく堂々と披露する。

日本の2倍以上の人口なのだから、私のように、「パーティーもサプライズも滅びろ!」という変わり者は絶対にいると思うのだが、私の知る限り、かなりの偏屈者として通っているような人であっても、その手のイベントには、やはり「主人公役」をそれなりに務める。

普段では考えられないような、「へー!この人でもこんなことするんだ~」という、ちょっとした「観客サービス」があったり。その徹底ぶりに、「なんかスゲー。アメリカ人スゲー。さすがエンタメの国だわー。ジャパニーズには無理っすわー」と感心することしきりなのだ。

だが、個人的に、「台本疑惑」は、あながち「ハズレ」ではないと思っている。アメリカ人は、「イメージ」に沿って生きている―私はそう思うのだ。自分達が描いた「アメリカ人像」というものに忠実であろうと躍起になっているように見える。

彼らを見ていると、時々痛々しくなることがある。多くの人が抱く印象とは裏腹に、アメリカ人は非常に保守的だ。一見おおらかそうに見えるが、その実は、旧態依然というか、「こうあるべき」というイメージや思考にこだわる傾向が強い。

「人からどう思われるか」「自分は人からどう見えているか」を、彼らは常に気にしている。一見「強気」に見える態度の裏には、意外に脆い顔が存在している。「強さ」が価値を持つ国で、「弱さ」を見せることは御法度だ。足元をすくわれる危険を招く恐れがある。

彼らが「強くポジティブであること」にこだわるのは、アメリカは「強くなければ生きられない国」だから。あの国では、「強さ」は正義であり、善なのだ。

多分、国として独立した背景や「フロンティアスピリット」、「アメリカンドリーム」の影響だと思うのだが、アメリカ人の中には、「強い者」「成功者」への憧れや信仰が根強くある。「世界のリーダー」「マッチョ(男の中の男)」「No1」といったものへのこだわりも、それらが「強さ」や「成功」のイメージを喚起させるからだと思う。「強い者=勝者」という概念が定着しているのだ。

何年か前、北米でのトヨタ車大規模リコール問題の証人として、トヨタ本社社長が米議会での公聴会に召喚されたことがあった。その際、トヨタの社長が涙を流す場面があったのだが、これが大きな話題になった。私もニュースでその映像を見たのだが、「あー、やっちまったな・・・」と。

日本とアメリカでは、「泣く」ということに対する感覚がまったく違う。特に、理由は何であれ、大の大人の男が、それも、国を代表する企業のトップが人前で泣くということは、アメリカでは「ありえない!」ことなのだ。「由々しき事態」と言ってもいい。「男泣き」に寛容な日本では、同じ場面に遭遇した場合、割と好意的というか、同情されたりすることも多い。

だが、アメリカは違う。たとえそれが「感極まって」という種類のものであっても、「男の涙」はドン引きされたり眉を顰められるお国柄、「トップが泣くだと?そんな人間が舵取りをしているこの企業は大丈夫なのか?」と、嫌悪に近い懸念をされる。感情のコントロールができない、しいては自己管理能力が低い「無能な人間」という評価が下されるのだ。

もし、うっかりそれを披露してしまった場合、完全に引いた状態のその場の空気を一気に笑いに変えてしまうくらいの、自分の「失態」をジョークにして処理してしまえるようなユーモアと臨機応変さを披露できなければ、マイナス評価は覆らない。例外としてそれが認められるのは、家族や近しい人を亡くした時だけだ。

実際、涙を流すトヨタの社長を見るアメリカ議会の人々の視線は、非常に冷ややかだった。完全に「敗者」を見るそれ。中には明らかに侮蔑の表情を浮かべている人もいた。「男が泣く」ということは、「異常事態」であり、「弱さ」の露呈と取られる。「マッチョ信仰」の強いアメリカでは、「男の涙」は奇異且つ忌むべきものなのだ。

「涙もろい」は、アメリカでは通用しない。日本では、しばしば「やさしさ」「情の深さ」と結びつけられ、人間的な魅力や個性として扱われたりするが、アメリカでは「emotional:感情的な」と一括りにされて終わる。プラスの意味合いで捉えられることもない。おそらく、それはヨーロッパでも同じだと思う。

甲子園球児が流す涙さえ、アメリカ人は理解しない。「なぜ彼らは泣いているんだ?試合に負けたから?は?WHY!?悔しいのはわかるけど、どうしてそこに涙が必要なんだ?泣くことはないじゃないか!」やはり、この国では「弱さの要素」は不要なのだ。敗者の中に「美」を見ることもない。

だから彼らは「強さ」にこだわる。「成功者と思われたい」「強い人間に見せなければ」そういった思いは、「成功者と思われるには?強い人間に見せるには?」という思考に繋がっていく。

「成功者」や「強い人間」はどんな話し方をし、どんな顔で笑うのか?「成功者」や「強い人間」は、どんな態度や振る舞いをするのか?「成功者」や「強い人間」は、どんなふうに物事を考えるのか?

アメリカで、自己啓発セミナーや精神分析等のカウンセリングが盛んな理由も合点がいくのだ。彼らには、「弱さ」を隠す術を身に付けると同時に、その「隠している弱さ」を解放、解消する為の手段も必要なのだ。表裏一体―彼らの「イメージへの渇望」は、それを強く浮き彫りにする。

「まずはイメージありき」それがアメリカという国だ。多分「アメリカ人であること」は、「=アメリカ人を演じること」なのかもしれない。日常の様々な場面で見られる、取ってつけたような、どこか作り物めいた感のあるアメリカ人の反応や態度や表情も、そうだと思えば、何となく頷けるのだ。

「意外と無理をしている」それがアメリカ人だ。内心はビクビクドキドキなのに、弱みを見せまいと精一杯「余裕綽々の強いアメリカ人」を演じているのだ。たまの「なんだと?表出ろ!毛唐!」というような顰蹙発言も、300歳にも満たない「幼児」であるアメリカが、「ぼく、ちゅよいんだからね!」と精一杯いきがっているかのようで、ある種の不憫さのようなものを感じてしまうのだ。

そういった裏面のナイーブさに気づいてしまうと、サプライズもパーティーも、「あのね!強くて成功しているハッピーな人は、こういうことが好きなんだよ!(`・ω・´)」というアメリカ人の必死且つ悲愴なほどの「イメージ」への執着を感じて、「しょーがねーなー。んじゃ、付き合ってやっか・・・」と、渋々ながら受け入れモードになるのだ。ま、そこはもうすぐ2700歳の「大人の国」から来た人間としての「余裕」です。

え?パーティーはどうだったかって?ええ、この上なく盛大にやっていただきましたよ。多分、この先一生分を含めても、最大級の誕生パーティーだったのではないかと。日本ではお目にかかれないような巨大なケーキに、デカデカと自分の名前がクリーム(それも水色でっせ。水色のクリーム、あの時人生で初めて見ましたわ)で書かれてあるのは「壮観」でしたわ。車のトランクがいっぱいになるほどプレゼントももらったし。楽しかったし、嬉しかったです。

でもねー、やっぱり「地獄」でした。あの瞬間。頻繁にアイコンタクトを交わしたり、どことなくソワソワしている周りの様子を見て、「あー、そろそろだなー」と覚悟はしていたはずなんですが・・・「知らんぷりからの歓喜の表情」は、奥ゆかしいジャパニーズには無理でした・・・。

笑顔は引きつるわ、動きがぎこちなくなるわ・・・自分が「女優」に不向きな人種だということがよくわかりました。ええ、絶対に無理です。つーか、すべてを知った上であの役をナチュラル且つ感動的にこなせるのは、劇団四季の人ですよ。ビデオとか撮られてなくてよかったわー。あの場面をネタに一生ゆすられる気がする(T_T)

でも、やっぱりアメリカ人すごいっすわ。「主人公を温かく見守る周囲の人々の役」、みんな完璧にこなしてたし。ただ、そういった多少の「作ってる感」はあるものの、その時のみんなの目の奥に満ちていたものは、間違いなく「本物の温かさ」だった。何よりも、そのことが例えようもなく嬉しかった。

パーティーもサプライズも苦手だし、この先も絶対に好きになるとは思わないが、こういう「本物」ベースのエンタメの中に身を置くことも、時には悪くないものだ。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタ 樫田ミラに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

インターネット上の文章や画像にも、ちゃんと著作権はあります。著作権侵害に関する訴訟では、①被告による原告の著作物へのアクセス可能性(IPアドレスの調査等) ②被告の利用著作物と原告の著作物における表現の酷似性③原告の著作物の著名性、周知性といったことが立証されれば成立します。故意に侵害した場合には、10年以下の懲役または1千万以下の罰金が科せられます。


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無軌道

 2016-09-16
世の中には、「他人に乗っかろうとする人」がいる。いわゆる「二番煎じ」というやつだ。

基本、彼らの多くは「怠惰」だ。「創意工夫」とは無縁な人達。物事を考えて、調べて、自分なりのやり方を編み出すことをせずに、同じことに取り組んでいる誰かの、「うまくいっている人」のマネをすればいいと思っている。独自の思考より、相手のコピーできる部分を探すことに時間をかけるタイプだ。

多分、彼らは「うまくいっている人」と自分との「差」は、それほど大きくないと思っている。早い話が、「ナメている」のだ。「あの人がやっているんだから、自分だってできるはず。同じやり方をすれば、そこそこの結果は出るはず」と。すべてがマニュアル化され、ある程度の利益が出るように計算されているフランチャイズ店か何かのように考えている。

「自己評価」が高いのは結構だが、そこに彼らの「盲点」がある。「自己評価」は、あくまでも「自己申告」。第三者からの客観的な視点はそこにはない。あるのは「自分の思い込み」だけだ。それが「実態」と一致しているとは限らない。

根拠のない自信から生まれた「慢心」は、他者との「違い」や「自分に不足しているもの」に気づく機会を奪う。そのせいか、彼らの着眼点は、妙なところでムダにポジティブだ。「ズレている」と言ったほうがいいかもしれない。

本来「違い」や「不足」に目を向けるべきところを、なぜか「共通項」を見つけ出すことに熱心になる。「性格が似ているから」「年齢が近いから」「言っていることに共感できるから」一体それが何の役に立つのかと。

いくら共通する点が多いと言っても、所詮は違う人間。「違い」のほうが圧倒的に多い。挙げられる共通点は、あくまでも「自分から見えている範囲」の中でのこと。そんな狭い部分を、重箱の隅をほじくり返すように見つける「同じ」に意味はない。同じところがあろうが、マネをしようが、「その人本人」にはなれないのだから。

自分とその人を同一視しているその時点で、既に「軌道」から外れているのだ。そもそもの「出発点」が間違っている。そうなれば、当然「方向」も変わってくる。「自分が目指したい場所」にたどり着けなくても不思議ではない。

彼らの最大の「失敗」は、「出発点」を間違えたことではない。それが自分に合うかどうかも考えず、他人のやり方に自分を添わせようとすることが間違っているのだ。サイズの合わない入れ物に無理矢理入れば、歪みが出て当然だ。

だが、彼らは、意識のどこかで「何か違う」「何かおかしい」と気づきながらも、その時点で、「軌道修正」をしようとはしない。間違いに気づきながら、そのまま進み続ける。「変えない」「改めない」という意固地さを「信念」と呼びたがり、同じやり方に固執する。

だが、実際は「そのやり方でうまくいっている人がいるから」「続けていれば絶対自分も」というだけの理由なのだ。万人に適した方法などないのだ。それを理解できないのは、模造品の悲しさだ。

怠惰な彼らは、自分と自分の現状を客観視して評価する冷静さに欠けている。「勢いでなんとかなる」「あの人ができるのなら自分もできる」という、根拠のない楽観主義と思い込みで、大した努力もしないまま突っ走った挙句、徒労し、結局最後は逃亡する。「ツキがなかっただけ」「タイミングが悪かっただけ」と言い訳しながら。

こういう人達は、ほぼ間違いなく、「いつもうまくいかない自分」に嫌気が差して、自己啓発や「巷で『スピリチュアル』と呼ばれている、形を変えたキリスト教」に傾倒していく。その挙句、「先取りの感謝」だの「引き寄せの法則」だの、結局何かや誰かに運やチャンスを恵んでもらうことをひたすら待つ他力本願型の思想を植えつけられ、「考える力」を根こそぎ奪われるのだ。

いい加減そこに気づけよ、と。うまくいかない原因を指摘されると、「でもでもだって」を繰り返し、ひたすら自己弁護に徹していては、何も変わらなくて当然なのだ。足らないのは「運」でも「ツキ」でもなくて、「努力」と「思考」と「工夫」でしょ?と。「自分に優しく」と「自分に甘い」は違う。そこを勘違いしなさんなよ、と。

「うまくいっている人」は、確実に努力しているし、常に自分自身を冷徹な目で観ている。そして、常に考えている。周囲には一見脳天気に見えるとしても、「舞台裏」ではそれに見合った奮闘をしている。誰かのマネやアイディアをかすめ取ることより、自分のオリジナリティーを追求する。

「うまくいっている人の成功」は、意外と地道で泥くさい。そして、手間がかかっている。取り組む姿勢やそこにある思い―マネをできない部分に、「秘訣」はある。「掴む人」と「掴めない人」、そこが一番の「違い」だよ、と。

「やり方をコピーさえすればなんとかなる」と思っている人は、そういう自分の甘さや浅ましさに気づかない限りは、この先また同じことを繰り返す。他人の成功に乗っかって、おいしい思いをしたいなんていう虫の良さが楽々と通るほど、この世の中は甘くない。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタ 樫田ミラに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

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不勉強の害(2)

 2016-09-08
ネットを利用していて思う。サイトやブログ等そこで発信されている情報は、「正解」「真実」を述べているものより、「発信者が知っていることを書いている」もののほうが圧倒的に多い。

そして、そのほとんどが、いわゆる「焼き直し」だ。「引用」「また聞き」という感じで、どこかのサイトやブログで見たり読んだりしたことに多少の持論を加えたものを発信しているに過ぎない。

それは、「伝言ゲーム」とよく似ている。最初の元ネタがあり、それを見た人達によって新たな尾ひれがつけられ、またそれが発信され・・・ということが無限に繰り返され、拡散していく。引用元のチョイスの仕方も非常にいい加減だ。「それっぽい」「信用できそう」という「印象」が基準なのだ。それは検証されることもなく、無責任に次々とコピーペーストされていく。

元ネタが間違っている場合、当然その誤った情報が「正解」「真実」として、ねずみ算式に広まっていくことになる。そして、「数の多さ=正しいこと」と思い込む人々によって、事実に反することが「常識」「定説」として認識されるようになるのだ。都市伝説の類も、おそらくこういったことの延長線上にあるのだと思う。

今現在ネット上に出回っている情報の大半は、そういった背景から生まれてきたものだ。確証性は低い。多数の人間が同じことを言っているとしても、それが「本当のこと」だという保証はないのだ。「多数によりもたらされる安心感」は当てにならない。それは「マジョリティーの怠慢」だ。

特に、それが有名人や権威的な存在の人から発信されたものである場合、多くの人は疑いもせずに鵜呑みにする。「知名度」「スペシャリスト」という肩書きに弱い人やそれにコンプレックスを持つ人ほど、その傾向が強くなる。だが、彼らが信じた発信者もまた、実際のところはその大半が、「自分が知っていることを書いているだけ」「自分が思ったことを書いているだけ」だったりする。

中には、「専門家」「有識者」と呼ばれるような立場にありながら、とんでもない発言をする人達も多い。数年前、「鬱は甘えだ!精神が弱いからだ!山登りでもさせておけば治る!」とあちこちで発言していたバカな内科医がいたが、その典型だと思う。「昭和」に蔓延していた偏見。「日進月歩」と言われる医学の世界で、昭和の情報と価値観が未更新のままの医者とか、ある意味問題ではないかと。こういう「化石」のような人が未だ存在することに驚くと同時に呆れる。

世間の多くの人は、「医者=医学全般に通じているスペシャリスト」と思っているが、実際は、自分の専門分野以外に関しては非常に疎い。関心度も低いし、それについての最新情報をわざわざ得ようとすることなど、ほぼ皆無だ。知識レベルもそのへんの素人と変わらないくらいか、下手をするとそれ以下だったりする。精神医学に無知で無関心な内科医や心臓外科医がいても、何ら不思議ではないのだ。

「病は気から」という言葉が古来からあるにもかかわらず、体と精神と心の繋がりを軽視する医者は多い。残念なことに、件のバカ医者のようなケースは、決して少なくないのだ。医者でありながら、未だに「鬱やPTSDは単なる甘え」と断言する人もいる。そういう認識不足の専門家が公の場で偏った持論を展開することは多々あって、迷惑この上ない。

何をどう思おうと勝手だが、自分の価値観や思い込みを「情報」と混同して発信するのは、いい加減やめてもらえないかと。「医者」というブランド力が物を言うことも多いこの国では、何気ない一言であったとしても、「医者の言葉」というだけでそれをありがたがり、正誤関係なく受け入れてしまう人もいるのだから。

その道のプロであろうがなかろうが、どんな形であれ何かを発信する立場にいるのであれば、「確認」は最低限の義務だ。きちんと自分の言葉の「裏」を取れよ、と。

先頃の熊本地震や今回の台風10号の東北地方への被害にあたって、被害者のPTSD(心的外傷後ストレス障害)等の発症が懸念されているが、例のごとく、「古い情報とクソの役にも立たない思い込みで無責任にモノを言う人達」があちこちに涌いている。

「PTSD?そんなもんは気の持ちようだよ。ストレスに対する耐性がないんだろ?精神的にヤワなんだよ。戦争を経験した世代を見てみろよ。目の前でどんだけの人が死んだと思ってんの?それでもケロっとして生きてるじゃん。トラウマなんて気力でなんとかなるんだよ。気力だよ気力!」

面白いことに、心理学や精神医学の分野に無関係且つ無関心な人やPTSDを経験したこともない人、自分に対して妙な過信をしている人ほど、こう言うのだ。「門外漢」と「幸運な未経験者」の言葉には、なんの説得力もない。それはただの「誹謗」だ。どこまで行っても「他人事」なのだ。自分以外のことに対しては、人はどこまでも無責任になれる。その典型的な例だ。

よし、あんたら今からイスラム国の人質と交換されてこい。それとも、サファリパークの猛獣エリアに置き去りにされるのとどっちがいい?せっかくだから好きなほうを選ばせてやるわ。怪我の程度は関知しないけど、ぎりぎり最低限の生命だけは保証してやる。「明日は我が身」「紙一重」を身を以て経験したほうがいいわ。

生還して普通の日常生活に戻った後、街中やテレビで中東系の人を見て体がビクッとなったり、コーランの音読をテレビで聞いて全身が震えたり、トラ柄の洋服やライオンの写真を見て冷や汗が出るようになったり、動物園やサファリパークやペットショップに行けなくなったり、子供におもちゃのピストルを向けられた時に心臓がバクバクしたり、包丁やナイフ、はさみ等の刃物類が持てなくなったり、家でくつろいで楽しく食事をしている最中に、突然「自分は死んでしまうかもしれない」と思ったり、足元が、まるで雲の上を歩いているかのようにふわふわと覚束なかったり、ちょっとした物音や人影に死ぬほどびっくりするようになったり、

家族や友人知人を、理由もなく「危害を加えるのでは?」と疑いや警戒の目で見るようになったり、どこにいても落ち着かない気分になったり、体は疲れているのに全然眠れなかったり、妙にやる気が出なかったり、気分が沈んだり、人質として監禁されていた部屋の壁の色や空気の匂い、ライオンに追いかけられていた時に首筋に感じた息遣いを気がつくと繰り返し思い出していたり、誰かにあの時の体験を話そうとするけど、なぜか言葉が出てこなかったり、悪夢を見てうなされたり―そういうことが1つも起きなかったら、あんたらの言う「気力論」を認めてやってもいいわ。

テレビや映画の影響で、「トラウマ」というものが、非常に誤解されて世間に広まってしまったと思う。その中でも、よく取り上げられる「フラッシュバック(追体験)」という症状は、「その瞬間の場面の記憶が突如蘇る→恐怖に悲鳴を上げ、パニック状態になる→そして失神」という形で描かれることが多いせいか、言葉は悪いが、何か非常にドラマティックで大げさなものだと思い込んでいる人が多い。

確かに、そういう症状を示す人もいないわけではない。だが、実際のそれは、当事者の内面で起こっている状態に反して、表面上の変化は周囲には分からないほど静かなものであることが多いのだ。

その時の「嫌な感情」を自身で能動的に思い出そうとしているわけでもないのに、意志とは無関係なところで、説明がつかないほどの強い恐怖心が突然湧き上がってくるのだ。時と場所を選ばずに、それは不意打ちにやってくる。自分の制御不能な領域で起こるのだ。

気がつくと、その感情やその時の状況を脳内で延々と反復していたりする。自分の意思に反して。その間全身がこわばって動けなくなったり、震えが止まらなかったり、会話が困難になる人もいる。現れる反応は人によって千差万別。ドラマで描かれるイメージは、あくまでも一例だ。「外からはわからない」「気づきにくい」もののほうが圧倒的に多い。

「傍目にはケロっとして生活している(ように見える)戦争経験者達」でも、本人や周囲が認識していないだけで、実はPTSDの後遺症が戦後70年以上経った今も残っている場合がある。

戦争中のことを「忘れた」「覚えていない」と言って、話したがらないのもそう。反対に、涙ぐみながら当時の話をすることもそう。イモ類等、戦時中に主な食料だった物が食べられない、もしくは食べたがらないこともそう。風船が割れる音や打ち上げ花火の音、車のタイヤのパンク音、飛行機やヘリコプターが発する音、パトカーや消防車のサイレン等、空襲や銃声を想起させるような物音が苦手なこともそう。当時疎開していた親戚の家や防空壕のあった場所を避けたり、行きたがらないこともそう。「戦争物」のドラマや映画を見ることを避けたり、とにかく「戦争にまつわるもの」を遠ざけようとすることもそう。

日常の、些細で何でもないように思えることの中にも、当時の「トラウマ」は存在し続けている。テレビの中で描かれるような「大袈裟なもの」だけがトラウマではないのだ。本人に自覚がないだけで、実は慢性的なものになっているケースも多い。PTSDに関する情報と知識が圧倒的に不足しているため、自分が長年抱えている原因不明の心身の不調の原因が、まさか70年以上も前の戦争体験に起因しているとは思わないのだ。

当時のことを思い出して、強い気分の落ち込みや波を経験しても、「辛い思いをしたのは自分だけじゃない「みんなも同じことを経験してきたんだから」「もう昔のことだから」とあれこれもっともらしい理由をつけて、自分を無理矢理納得させてきただけなのだ。「忍耐」を美徳とし、時にそれを強要されるこの国では、それ以外の方法は許されなかったから。「抑圧」は「解決」を生まない。相変わらず「傷と痛み」は残り続ける。時間と共に色褪せたり薄まることはあっても、それは決して消えることはないのだ。

長年「根性論」がまかり通ってきたこの国では、精神医学の分野は欧米に比べ、確実に30年は遅れている。PTSDに対する世の中の認識も治療法も、ようやくスタートラインに立ったばかりだ。精神医学の分野は、この国では、昔から「アンタッチャブルの領域」だった。それゆえに、根拠のない風評や憶測が飛び交い、正しい知識を得る機会もなく、今日までその状態が続いてきてしまったのだ。特有の「隠す文化」「恥の文化」も、それに追い打ちをかけた。

そして、今尚そういった傾向は変わらない。ネットで膨大な情報が得られる時代にありながら、結局は「自分が関心があること」しか知ろうとしないこの国の人間の怠惰と無関心と―。面倒くさいことは人に丸投げ、「与えてもらうこと」に疑問すら抱かないで盲信する依存心の高さと―。自分の考えや持っている情報を過信し、省みない傲慢さと―。この国の「怠慢」が生んだ現状だ。

今の世の中、件のバカ医者や「気力論」を振りかざす無知な人間のような、その分野のことに関してなんの知識も持たない素人風情がデマを垂れ流すことが多々ある。ネットに出回っている情報がすべて正しいわけではない。たとえそれが、「自分が信頼している人が書いていることであっても」だ。

「信用する=鵜呑みにすること」ではない。「思考」を投げ出すことは「依存」の始まり。その第一段階だ。そういう些細なところから、「侵食」は始まるのだから。他人の思考に執着することは、自分を明け渡すことと同じことなのだ。

インターネットが一般に普及し始めて20年以上経ちながら、大半の人間は、結局「自分が知りたいこと」しか調べない。知識の量と幅は、案外普及前と大差ないのかもしれない。「考えて、調べる。そして考える」この国の人間に、今現在圧倒的に足らない部分。無知が蔓延する世の中がもたらすものは、「混沌」と「停滞」だけだ。

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インターネット上の文章や画像にも、ちゃんと著作権はあります。著作権侵害に関する訴訟では、①被告による原告の著作物へのアクセス可能性(IPアドレスの調査等) ②被告の利用著作物と原告の著作物における表現の酷似性③原告の著作物の著名性、周知性といったことが立証されれば成立します。故意に侵害した場合には、10年以下の懲役または1千万以下の罰金が科せられます。


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金と銀

 2016-09-01
「何でも話せる友人がほしい」と言う人は多い。それを「定義」として挙げる人もいる。良いことも悪いことも、相手を選ぶような内容の話でも、警戒心を抱かずに、安心してどんなことでも打ち明けられる存在―それが「友人」というものだ、と。

特に10代や20代の頃は、その定義を疑いもしない。その世代は、「打ち明け話」の類が大好物だ。お互いの「秘密」を開示し合うことで繋がりを強化し、その程度を確認し合うのだ。「こんなことまで話せる自分達って、『友達』だよね?」と。

相手は自分の秘密を知っている。自分は相手のそれを知っている。「秘密の交換と共有」は人を結びつける。ある種の「共犯関係」が出来上がる。その繋がりが深く強い者が、「友人」と呼ばれる存在なのだ。

だが、年齢を重ねるにつれて思うようになってきた。「何でも話せる友人」というのは、実は、世間で思われているほどの希少性はないのかもしれない、と。

「何でも話せる友人」とは、洗いざらい、自分の中にあるものを包み隠さずお互いに晒すことができる存在―という概念を、多くの人が持っている。だが、その「なんでも」という部分が、実は曲者なのだ。それが関係の「肝」であるということは、同時に「隠し事を許さない」という意識を生む。

「自分にすべて話すべき」「自分はそれを知っておくべき」という思考が芽生え、十あるうちの八を話した友人に対し、「自分に話さない残りの二」について、追及・強要・糾弾するようになる。それは「支配」であり、「束縛」でもある。場合によったら、「嫉妬」や「憎しみ」が生まれることもある。

「何でも話す」ということは、実は簡単なことではない。年齢を重ねるにつれてわかってくる。人は、年齢を重ねる毎に「話せないこと」「話したくないこと」「どう話せばいいかわからないこと」が増えてくる。「歳を取る」ということは、「=世界が複雑化すること」でもある。社会的な責任は勿論のこと、個人的な部分においても、「背負うもの」が年々増していくのだ。物理的にも、心理的にも。

そのすべてに対し、明確な説明が付けられるわけではない。感情的なものが複雑に絡み合っている場合は、特に。「大人の世界」で通用する摩訶不思議な言い訳―「一身上の都合」は、そういった諸々の複雑な事情に関する説明義務の関門を必要最低限のチェックのみで通過させてくれる「免罪符」なのだ。ある種の「温情」と言ってもいい。

通常、責任の所在を明確にすることを求められるこの社会で、「個人的な都合ゆえに」という曖昧な理由が公然と認められるのは、世の中には、それだけ「話せないこと」「話したくないこと」が存在しているということだ。それが「暗黙の了解」として通用するのは、「世の中には、時に理屈や正論で立ち行かないこともある」ということを、社会単位で認めているから。

「人として幼稚な人、未熟な人」は、他人の「一身上の都合」を理解することも、受け入れることもしない。「察する」ということが不得手だ。相手に配慮する気持ちより、自分自身の好奇心を優先するので、「知りたがり屋」特有の行動が目立つ。根掘り葉掘り質問したり、何とか相手の口を割らせようとカマをかけてみたり。思いつくまま言葉を投げて、相手の反応を探ったりする。「話してくれた八割」より、「話してくれなかった二割」に固執し、疑いを持ち、詮索する。

この手の人が考えているのは、自分のことだけだ。話してくれない相手への不満、満たされない好奇心、どこか自分が蔑ろにされているような面白くない気持ち―そういったものが中心に存在している。「知らない自分」「話してもらえない自分」に我慢ができないだけなのだ。友達甲斐だのなんだの持ち出してきたとしても、結局「自分ファースト」なのだ。そういう人相手の「何でも話す」という行為に、一体どんな意味があるのかと。そもそも、「知っている=理解している」とは限らない。「情報量」と「理解」は、必ずしも比例しない。

私は、むしろ「話さない部分」「見せない部分」を尊重してくれる友人のほうが貴重だと思っている。人によったら、「そのことについて尋ねない」ということを「無関心」と捉えたり、冷淡に感じるかもしれない。だが、あえてその選択をする人は、自制心の効いた、精神的な余裕を持つ人だと思う。

話したくなったら話すだろうし、話したくないなら話さなくて構わない。「いつかその時」が来たらでいい。でも、「その時」が来なくても一向に気にならない―それがその人のスタンスなのだ。関係を維持したり深めたりする為の必要不可欠な要素として、それを捉えてはいない。せいぜい「きっかけ」「一部分」程度の位置づけでしかない。

相手との関係において、「比重をかける場所」が根本的に違うのだ。だから、「話してくれない、見せてくれない=隠し事をしている」という短絡的な思考に囚われたりせず、相手の事情やペースを尊重し、「待つこと」ができる。相手をせっつくことも、問いただすこともしない。「話してもらうこと」「見せてもらうこと」で安心を得ようとしたり、それによって友情の深さを測ることが目的ではないのだ。

人に関することで、特に相手ありきの場合の「待つこと」には忍耐が要る。そして、相手に対する信頼や思いやりも。時には、「無為になった時間」を黙って飲み込める裁量も。それは、自分を満たすことだけしか考えない未成熟な「こども」には出来ない行為。その部分に無自覚な人は、真意に触れることなく、上辺だけの「ごっこ」の関係に満足して終わる。その部分に見切りをつけた相手が扉を閉ざすこともある。

沈黙は金、雄弁は銀。「待てない人の雄弁」よりも、「待つ人の沈黙」にその価値を見る。多分その人は、「今見えているもの」から「隠れているもの」を見出すことができるのだ。想像力―その心的能力こそが、その人の持つ一番の「力」であり、他者との「差」なのだ。

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