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糊 塗

 2016-05-21
自己啓発セミナー講師やセミナー巡りを繰り返す信者を観ていて思う。あの「ネクラな人が無理してはしゃいでる感ありありのポジティブごっこ」、なんとかならないもんかと。公私両面でその手の人達と関わったことがあるが、率直に言って、「ポジティブとか言ってるけど、根本は何も解決してないよね?違う?」という感じの人達ばかりだった。

特に講師の人に多いのだが、この手の人達は、一見顔はにこやか。だが、目が全然笑っていない。発する言葉も態度も明るいのだが、如何せん、その「笑っていない目」が、彼らの「必死さ」と「本当のところは」を表しているようで、痛々しくなる時がある。

結局、すべてが「振りをしているだけ」なのだ。解決したふり、順調に行っているふり、ポジティブ思考になったふり―。彼らの大好物の台詞、「すべてはうまくいっている」ほど、それを如実に表しているものはない。それがそこに存在することを認めない―彼らの「信仰」は、「見ないふり」の上に成り立っている。臭いものには蓋をしろ的な、いわば「上塗り」が、彼らにとっての「解決」なのだ。

特定の言葉を繰り返し、感覚を麻痺させ、だんだん「その気」にさせていく。だが、事態も自分も、実は一向に変わっていない。それは、いわゆる「洗脳」というものだ。洗脳は、本人がそれを無意識レベルで望んでいなければ功を奏すことはない。彼らのそれが一向に解けないのは、「彼らがそれを望んでいるから」なのだ。むしろ、その状況下から外れることを極度に恐れていると言っていい。彼らは洗脳状態が続くように、少しでもそれを解くような響きのある言葉を自分の世界から締め出そうとする。

周囲の人のネガティブ発言やマイナス思考を、必要以上に罪悪視するのもその表れ。彼らは、他人のネガティブさを許さない。相手の状況や都合も考えず、自分以外の人間にやたらとポジティブ思考を強要してくるのは、彼らが「恐れているから」だ。自分の洗脳状態を解く可能性のあるものを遠ざけたがったり、同じ思考で周りを固めたがったりするのは、本人達がなんと言おうと、「自分達こそが究極のネガティブ思考であるという事実」に気づくのが怖いから。彼らの中には、常に「ネガティブへの恐怖」がある。ようやく手に入れた「避難場所」を手放すまいと必死なのだ。

大体、「常にポジティブでなければならない!」と考える時点で、既にネガティブなのだ。「~でなければならない」という、ある種の強迫観念に囚われているのだから。「それ以外は許されない」と、自らを追い込んでいる状態。自分の中に存在するものを受け入れず、目をそらし、「ないもの」として考える―必死で「事実」から逃れようとする様は、ネガティブ以外の何物でもない。

ポジティブ思考は大いに結構。だが、「そうでなければならない」というものではないし、そういう状態に達するまでには「プロセス」というものが存在する。自己啓発信者のやり方は、その部分をすっ飛ばし、尚且つ「なかったことにする」という乱暴なものだ。それは、きちんとしたプロセスを経てたどり着いたポジティブさとは全くの別物だ。

物事には順序がある。事象には、そこに至るまでの過程がある。自分の中に存在するネガティブなものと向き合い、その存在を認め、「どうしたらこれを乗り越えられるか?どうしたら解決できるか?」と思考し、それを実行してみる。しばらく続けてみる。それがうまくいかないようなら、また思考して、実行して―という部分を経て、初めて事象に、徐々に自分が望む場所に行き着けるのだ。そうして得た「本物のポジティブ」は強い。多少揺らぐことはあったとしても、インスタントで身につけたものとは違い、完全崩壊することはない。鍍金と純金の「差」なのだ。

自己啓発セミナーに縋る人というのは、この「思考―実行―継続」の部分に嫌気が差し、「楽」を選んだ人だと思う。時間や思考を使って自分自身で手に入れることよりも、他人の考えに乗っかって、いち早く目的地に到着する便利さを求めた人。「自分よりも他人を信じた人」とも言える。こういった人は、「自分に優しく」と「自分に甘く」の区別がつかない。変なところでせっかちだし、中途半端な欲深さを持っている。まあ「楽で便利」を求めるのも、なんら不思議ではないのだ。

それが「本物のポジティブ思考」かどうかは、逆境やピンチの時に明らかになる。事実を突きつけられて、それから目を反らすことも、逃げることもできない状態の時、その人がそれをどう捉え、どう動くか―「洗脳」で塗り固められた「張りぼて」のそれと、「本物」の違いは大きい。そして、それは「自力」と「他力」の違いでもあるのだ。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタ 樫田ミラに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

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鏡の中

 2016-05-06
「鏡の中には真実の姿が映し出される」という。本当にそうだろうか?同じものを見たとしても、人それぞれ捉え方は違う。「自分にとっての真実」と「相手にとっての真実」は違うのだ。人の数だけ、それはある。

人間同士がきたす齟齬の大半は、大抵の場合、この「真実の押し付け合い」に起因している。「宗教」は、その最もわかりやすい例。それぞれの教義の中に見出したものを、「これこそが間違いないもの」「唯一の正義」という前提で互いに主張し合うから、ややこしいことになる。正しいか、間違っているか―そもそも、人によって捉え方や見出すものが違うのだから、正誤を主張し合っても、結局水掛け論に終始することになる。

「真実を語る」いとも簡単にそう言ってのける人がいるが、結局それも、その人の目、思想や感情といった「フィルター」を通して作り上げられたものに過ぎない。誰が言っているか、何を言っているか―そんなことは関係ない。誰かや何かの視点を通じて語られた時点で、それは「既に本来の姿からかけ離れたもの」になっている。

自分にとってのそれを、「万民に共通する真実」として声高に叫ぶ人達は、そのことに気づこうともしない。彼らが見ているのは、「事実」でも「真実」でもなく、自分が見たいように見たもの、自分が好きなように造り上げたもの、「これこそが正しいもの」と思い込んだ末に、「ただ出来上がったもの」なのだ。言うなれば、数ある中の「一説」「一解釈」「個人的主観」に過ぎない。

自分こそが「真相」「真理」に近づいた者―その自負は、時に人を傲慢にさせる。「真実」という言葉の響きに酔っているうちは、その片鱗さえも掴むことは出来ない。そういう状態の中、今見ているもの、鏡に映ったそれは、自分自身が好きなように、思うように作り上げた、ただの虚構であり、幻想なのだ。

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