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圧 力

 2016-04-23
今回のような有事の際は特に思う。この国の人達の「同調圧力」は異常だ。もはや強迫性障害のレベルに近いのではないかと。

同調、協調、共鳴―日本人の意識には、「他者との一致」を何よりも重視・優先することが染み付いている。だが、それが過度に行き過ぎると、そこからはみ出す者に対して「迫害」が始まる。彼らが憎み、厭うのは、自分達と歩調を合わせようとしない「反逆者」だ。「なぜ同じようにしない?こういう時はこうするべきだろう!それが決まりなんだから!」彼らにとっての「善」を盾に、そう迫るのだ。

戦争中は、こういった空気が何倍も、何十倍も強かったんだろうなー、と思う。「赤狩り」と呼ばれることが平然と行われていたし、そう考えると、日本人の気質は70年前と何ら変わっていないのだ。多少マイルドになったとはいえ、やっていることは同じなのだから。相変わらず、足並み揃えたり、空気を読んでそれに合わせることが好きだよね、と。「一つの色」に染まることに、これほどまでにこだわる民族はめずらしいのではないかと思う。「病気」を通り越して、人為的な、体内にそうさせる装置か何かが埋め込まれているのではないかと疑いたくなるレベル。

地震発生の当日、若手の人気女優が、憧れの先輩女優と撮った笑顔の写真をSNSにアップしたところ、「こんな時に不謹慎だ!」「被災者の気持ちを考えろ!不道徳だ!」等という非難が殺到し、結局その写真は削除された。同じような理由で叩かれていた芸能人が複数いたが、そうやって不謹慎云々と「同調しない人」を叩く様は、非常に独善的だなー、と。

「被災者が大変な時に」「被災者の苦労を考えたら」一見「正しく思える発言」ではあるが、はっきり言って、そこにあるのは独りよがりの、相手の事情や心情等を無視した、いわば客観性を欠いた思考だ。自分だけが正しいと信じ込み、後先考えずにそれを押し付ける独善主義に他ならない。

日本人の「同調圧力」ほど質が悪いものはない―私はそう思っている。例えば、今回のように自然災害等の有事が起こった際、誰かが「こういう事態だから自粛を」と言い出すと、たちまちそれに倣う人々や団体が出てくる。特に、娯楽関係のイベント等は漏れ無く中止や延期になるのがお決まりになっている。個人レベルでも、「被災地の人々の気持ちを考えて自粛します」と意味不明な理由で、SNSに楽しい話題をアップするのを控えたりとか。

被災者や被災地に思いを馳せ、一日も早い復興を願う―それは悪いことではない。でも、でもね・・・。

なんですねん、それ??自粛云々というその運び、ほんまのところはどない思うてますのん?「世間もああ言ってるし、とりあえずウチもそうしとこうか~」っていうのが本音ちゃいます?SNSの普及以降、迂闊なことは言えないし、できませんものねー。すぐ拡散されて、場合によったら炎上するし。「被災者のことを考えて」っていう、一見道徳にかなった言葉に従っていたら、まあ言っていることは間違いではないし、少なくとも、見知らぬ誰かから攻撃されたり、会社の評判を落とすこともないわけで。「正しいことに参加している自分」にも酔えますやん?でも、ぶっちゃけ、自粛する理由は「被災者の心情を慮って」じゃなくて、「世間の目」にあるのとちゃいます??

なんていうかなー、自粛だの不謹慎だの言っている人でも、職場や学校の帰りに飲みに行ったり、カラオケに行ったりしてるわけでしょ?友人や家族と外食したり、テーマパークに遊びに行ったりとか。家でテレビのバラエティー番組見て、爆笑することもあると思うし。SNSに笑顔の写真をアップした人を、「この非常時に不謹慎だ!」って非難するのであれば、自分達のそういう「日常の楽しみ」も一切排除するってことですよ?笑顔を不謹慎と言うのなら、お酒飲んでカラオケして騒いだり盛り上がったり、好きな物をお腹いっぱい食べたり、行楽地ではしゃいだりするのも「不謹慎」ですよね?当然「自粛」するべきですよね?

自粛だの言っても、結局「見えるところだけ」というのが実情かと。長いものには巻かれろ式の根性が染み付いたこの国の民族性を考えたら、「とりあえずベクトルが大きい方に傾く」のは当然なんで。21年前の阪神淡路大震災の時、5年前の東日本大震災の時、そして今回の熊本地震・・・こういう有事の時には、やたら独りよがりの正義を振りかざす人が必ず出てくるけど、エネルギーを向ける方向が違うんじゃないかと。

世間のそういう流れに、簡単に同調してしまう人も一緒だ。この世の中には、「正しい言葉を使って、おかしなことを言う人」がいる。それも少なからず。上辺だけの言葉や響きに丸め込まれないこと。「本当にそうか?」と、自分自身の頭で考えること。

被災地でのボランティア活動に参加できないとしても、募金等今の自分にできることをして、「被災地が一日も早く復興できますように。被災者が一日も早く心身ともに落ち着ける日がきますように」という思いを自分の中に持っていればいいのだと思う。笑顔の写真をアップするのを控えたり、やたらめったらイベントを片っ端から中止にしたりすることが被災者に寄り添うことではない。

今回は被災者にならなかった他の地域の人達は、「普通に、いつものように」生活していたらいいのだ。その分、「普通の生活」の中で蓄えたものを、何らかの形で被災地や被災者に還元したらいい。日本全国で一緒にうなだれていては、共倒れになるだけだ。余裕や余力のある者が、そうでない者を支える―「ボランティア」の根幹にあるのはそれなのだから。

自粛だの自重だの、結局は建前だけの、「見える部分」だけに適用される道徳論を振りかざして、独りよがりの正義を押し付け合っている場合かよ。筋違いのところに圧力かけてどーすんだよ。自分の正義を主張したいなら、別のところでやったらいいんじゃね?―少なくとも、私はそう思う。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタ 樫田ミラに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

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問う

 2016-04-19
熊本地震の発生に伴い、全国で募金活動や各種ボランティア団体の立ち上げが始まっている。連日報道される避難所の様子や被災者の方達がSNSで発信しているリアルタイムの声を見聞きして、「何か自分にもできることを!」と思う人達が多いのだと思うが、率直に言って、「ちょっと待って。それって今必要?冷静に考えてみようよ」という内容のものも複数存在している。

SNSを通じて、「被災地に千羽鶴を送ろう!」という趣旨の呼びかけをしている人達が少なからずいるようだが、正直「それって今じゃないとダメなの?」と。被災者の方達を励まそうとする気持ちは理解できるのだが、200人の被災者に対して飲料水が9箱しか届かない、7~8人のグループにおにぎりが1個しか行き渡らないという状態のところに、いくら善意とはいえ、千羽鶴が送られてきても困ると思うのだ。

ボランティアをしてきた人間から言わせてもらえば、相手の都合を無視した善意は、ただの押しつけの自己満足に過ぎない。相手にそれを受け取る準備が出来て、それは初めて形を成す。相手が求めなければ、それがいくら「良いこと」であったとしても、それは「ムダ」なのだ。タイミングを間違えば、自分にその気はなくとも、善意を悪意に取られることもあるし、相手の苛立ちを引き起こすことにもなる。

千羽鶴を送るのもいいが、それは被災地に復興の目処が立ってからの話。人々の気持ちが落ち着き、ある程度の余裕が持てるようになってからの話だ。被災者にとっては、今は「少し先の未来」より、「今現在自分達が直面している現実」のほうが切実なのだ。同じ「紙」を送るなら、トイレットペーパーやティッシュ、おむつのほうがいい。先走る自分の思いはひとまず抑えて、「現実的な考え」をするべきだと思う。

ボランティア活動が今ひとつ根付いていないこの国の人達は、「する側」も「される側」も、その事態に「慣れていない」のだ。タイミングも内容も、距離感も、互いにちぐはぐで噛み合わないことが多い。だが、まずは精神的に余裕のある「提供する側」が、冷静になることが必要だと思う。

被災者に気持ちを添わせることが悪いとは言わない。だが、その度合いが過ぎて、ある種のディザスター・ハイになった人が、後先考えずに、食料も装備も持たず、土地勘のない被災地に乗り込んだ挙句、自分も避難所のお世話になる―という事態が、5年前の東日本大震災で頻発したことがいい例だ。「慣れから来る加減」がわからない典型だと思う。

前回の震災で得た教訓は多い。一般人から送られた物資は、それを配布する環境が整っていないと「ゴミ」になる。ボランティアも、現地の受け入れ体制が整うまでは、政府や行政に任せたほうがいい。誤解を恐れずに言うが、たとえ「政府は何やってんだ!」と歯ぎしりするような状態だったとしても、個人の独断でのボランティア決行は控えたほうがいい。実際、それらは5年前も現地で様々な問題を引き起こしたのだから。

私自身の経験から言わせてもらうが、極端な話、ボランティアは、「何かあったらいつでも言って。いつでも動けるよ」という姿勢や意思を表明し続けるだけでいいのだ。「ここにいるよ」と。そして、実際に求めがあったら行動する。そのスタンスでいい。能動的に行動するのも場合によってはありだが、こういった自然災害等の場合、すべてが特殊だ。素人が正義感から・・・というのは、逆に迷惑になることもある。それこそ、「善意の押しつけ」「自己満足」で終わってしまうことになる。

他者に対する共感能力の高さは、この国の人達の美点でもある。だが、長所と短所は表裏一体だ。それが逆方向に作用することもある。だから、こんな状況だからこそ、ちょっとクールダウンして、もう一度よく考えてみません?もっといい方法が見つかるかもしれないし。ね?

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタ 樫田ミラに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

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参と商(2)

 2016-04-16
先日、某バラエティー番組に、平成生まれの20~25歳の俳優やタレント4人が出演していたのだが、「昭和世代との付き合い方がわからない」と。「昭和世代の人は、礼儀やルール、上下関係に厳しすぎる。そういうのは面倒くさい。『こういうことは年下がやらなきゃいけない』とかじゃなくて、年齢関係なく、その時できる人がやればいいと思う」とか。

何言ってんだこいつら。何このゆとりクオリティー。そうまでして楽をしたいか?と。第一、礼儀もルールも上下関係も、「面倒くさい」とか、個人の好き嫌いを持ち込んでどうこうする領域じゃないんだけど。

これだから、40歳以下の人間の「自分達の言い分」とやらは信用できないのだ。人として、まだまだ未完成なレベルの年代が主張するそれは、大半が「自分にとって都合が良いか悪いかどうか」くらいのレベルのものだ。「おこちゃま」の屁理屈を「あー、そーなのー」と真剣に聞いてやるヒマはない。

断言してもいい。この人達は、この先も礼儀やルール、上下関係において苦労することになる。そういったことは、経験して、肌で覚えていくもの。自ら感覚に覚え込ませていくものだ。それをしてこなかった人・蔑ろにしてきた人は、世間で「いい歳」と言われる年齢になっても、平気で礼儀知らずで常識はずれな行為をする。結果、「迷惑な人」になる。

その手の人は、いきなりそうなったのではない。「昔からそういう人」だったのだ。年齢がいって、多少ましになることもあるが、それでもその年齢に不相応なレベルだったりする。染み付いた感覚というものは、そうそう変わるものではない。それらを面倒くさがる彼らも、いずれ「同類」になる可能性がある。むしろ、「既に予備軍状態」と言ってもいい。

自分の年齢の半分位の小僧や小娘に「○○ちゃん、○○くん」と呼ばれて、タメ語で話しかけられて、自分もすっかり若い気になって浮かれている「話のわかる年上の大人」を気取る趣味はさらさらないので、はっきり言わせてもらう。

「あのね、あんたらの年齢は、社会ではペーペーなの!会社でいったら入社したばかりの平社員の位置なの!ひよっこなの!目上の人に気を遣うのが当たり前の立場なの!礼儀とか気遣いとか、社会での人付き合いのルールを学ぶ時期なの!『出来る人がやればいい』とか言ってるけど、自分は『出来る人』にカウントしてないでしょ?そう言う奴に限って何もしないんだよね。結局人任せじゃん。礼儀とルールがない社会なんて、無法地帯だから。それは世界のどこに行っても一緒だよ。学ぶべき時に学んでおかないと、この先苦労するよ。自分の振る舞いが全部自分に返ってくるんだからね!屁理屈こねてないでマナー本でも読みやがれ!!」

結局、彼らが言うところのマナーや礼儀云々の発言は、「出来ない人間の言い訳」なのだ。「面倒くさい」以前に、それを知らない、学ぶ気もない。そういう怠惰な自分を正当化するための言い訳。年齢問わず、この手の人達は厄介だ。これくらいのことも教えなくては出来ないし、教えたら教えたで、面倒だのなんだのとブツクサ言う。そういう時、決まって出てくるのは、「それって何のメリットがあるんですかぁ?」

「出来ない自分・知らない自分」に負い目を感じていないので、「至らない自分」を反省することもない。その結果が、「そんな堅苦しいこと言わないで気楽にやろうよー」という発言になる。いわば、究極の利己主義。自分達の不勉強を棚に上げて、「こっちに合わせろ」と要求しているのだから。

「自分さえ良ければいい」それがこの手の人達の共通項。自分の行為によって周囲の人が不快な思いをするかもしれないという可能性さえ考えない。礼儀やルールが何のために存在するのか、まったく理解していないのだ。

例えば、箸の持ち方を指摘されて、「直したらメシがうまくなるのか?」「自分が食べたいように食べて何が悪いの?」と鼻で笑って改めようとしない人達が世の中にはいるらしいが、この人達の問題は、おそらく箸の持ち方だけに留まってはいないと思う。多分、他にも「食事中にしてはいけないこと」をあれこれしている可能性が非常に高い。箸の持ち方に気を遣う人は、食事中のマナーに気を遣う。その反対も然り、だ。ピンポイントでの指摘に甘んじている限り、その影にもっと大きな顰蹙が隠れていることに気づけない。

育ってきた環境、受けてきた教育や躾、考え方や習慣―そういった様々な、異なる背景を持った人達が複数集まった時、お互いが気持ちよくその場を過ごせるように―礼儀やルールはその為にある。「昭和世代の人との付き合い方がわからない」とか言っているが、そりゃそうだろうね、と。マナーや礼儀を持ち込まないで付き合おうとするからでしょ。それらを無視して、同世代の友人に接する時と同じような感覚で付き合おうとするが故に、逆に「距離感」が掴めないのだと思う。「自分の立ち位置」が決まらないから、どんな態度を取っていいかわからなくなるのだ。そういった曖昧さから生じた混乱が、「付き合い方云々」という言葉になる。

彼らが鬱陶しがって排除したがっている部分を、逆に、昭和世代は「当然身についているもの」として考えている。まったく正反対の感覚を持つ人間同士がぶつかれば、ギクシャクするのは当然だ。礼儀やマナーというのは、そういった不要な軋轢を回避したり、距離感を明確にし、自分がどう振舞うべきかを教えてくれる必要不可欠なツールなのだ。それを放棄すればどうなるか―結果は目に見えている。

なんというか、アホちゃう?と。自分達が「そんなもん要らねー」と軽視しているものに、結局は縛られているのだから。それもこれも、よくよく考えた末の主張ではなく、単に「面倒くさいから」というだけの、「楽をしたい」というだけの理由で蔑ろにしてきたことへの報いでしょ。と。「なぜ礼儀やマナーといったものが重視されるのか?」「なぜこの国は上下関係を重んじるのか?」そういった部分を考えようとしないことへの、いわば「ツケ」だ。自業自得というところ。

生まれ育った時代背景等の影響もあり、やはり各世代ごとに価値観や考え方、行動に関して、ある程度の共通した特徴や傾向が存在することは事実だ。ゆとり世代を一括りにするつもりはないが、この世代は、ちょっと「特殊」だ。価値観の相違は致し方ないとしても、それ以前の問題というか、「何か」が完全にすっぽ抜けているというか・・・。実際、仕事でもその世代の人に会うことも多いし、プライベートでも付き合いがあるのだが、正直ジェネレーションギャップという言葉だけで片付けられないものを感じることがある。

あくまでも私見だが、ゆとり世代は、「なぜ?」を追究・探究しない印象が強い。すぐに答えを知りたがり、そこに到達する楽な方法・得な方法を求めたがる。時々、「あたしゃSiriか!?Googleか!?そのくらい自分で調べろよ!」というようなことまで質問してくる人もいて、その依存度の高さに正直うんざりすることもある。

「考えること」「試してみること」を面倒くさがり、マニュアル依存というか、「こうすれば失敗しない」「この方法なら確実」という情報を収集することに熱心だ。損得に非常に敏感で、誰かや何かの「成功した前例」がないと、躊躇して手を出さないという傾向が強いのも特徴の一つ。新しい考えや方法を、自分自身で積極的に考えたり試すことをしない人が目立つなー、と。良く言えば「堅実」、悪く言えば「怠慢」「臆病」な世代だと思う。

まあ、こういった特徴をどう活かしていくかは本人達次第なので、これ以上はどうこう言わない。ただ、「楽するところを間違えないでね」と。世の中には、絶対に手を抜いてはいけない部分がある。これは、半世紀近く生きてきた人間の、自分自身の経験則からの言葉だが、礼儀やルールといった部分は、絶対に疎かにしてはいけない。この部分は、丁寧過ぎていけないということはない。むしろ、「丁寧過ぎる」と言われるくらいの方がいい。

これは、どの国に行っても変わらない。アメリカ等一見カジュアルな印象が強い国であってもそれは同じ。礼儀正しい人、きちんとした作法を行える人、相手に気配り出来る人、程よい距離感で人と接することが出来る人は、やはり評価される。文化や習慣、やり方が多少違っていたとしても、その「礼を尽くす」姿勢というのは、ちゃんと相手に伝わっている。

礼儀を欠いた「親しさ」は、「馴れ馴れしさ」になる。ルールを無視した振る舞いは、「横暴」になる。上下関係を軽視すると、「無礼」になる。その違いやさじ加減もわからないうちに、「礼儀とかいらねー」「上下関係めんどくせー」とほざくのは、大間違いってもんですよ。そういうことは、完璧に出来るようになってから言えっての!損得云々の話はそれからだ!以上!

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタ 樫田ミラに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

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参と商

 2016-04-08
新入社員が入社するこの季節、既に「お約束」の、定番の話題になっていることではあるが、ゆとり世代は、上司に「やる気がないなら帰れ!」と叱責されると、本当に帰ってしまうとか。平成生まれが成長し、ぼちぼち社会に出始めた頃からちらほらとそんな話を耳にすることはあったのだが、今やデフォルトのレベルになっているとは思わなかった。

いろいろな人に話を聞くと、今やそんなことは日常茶飯事で、全然めずらしいことではないらしい。仕事上で注意を受けると、「自分の存在を否定された」と出社拒否したり、その流れで心療内科に駆け込んで、診断書を貰って休職願を提出したりとか。「そういう子、結構いるんですよ」と、企業で管理職に就いていらっしゃる方達が何でもないことのように話されることが、より衝撃的というか・・・。

最近では、「ゆとり世代の扱い方」をレクチャーする講座を社内で開いている企業も少なくないと聞く。わざわざ事前に「生態」を知らされないと一緒にやっていけないって、一体どんだけすごいのよ?と。まるで異文化出身の外国人を受け入れるかのような気の遣いっぷり。「時代が違う」の言葉だけでは済ませられないものがある。

しかし、自分のやる気のない態度を注意されて、反省もしないで帰っちゃうとか・・・それってあり??中には、「やる気を出させるのが上司の仕事じゃないんですか?」と言った勇者もいるらしく、「会社は学校じゃねーよ!上司は先生じゃねーし!小学生かよ!?」とひっくり返りそうになったのだが、これは確かに「異種」ですわ・・・。やっぱり取説必要かも・・・。

でもさ、帰る前にやる事あんでしょ?と。どうして自分が怒られたのか、なんでそこを考えないのかな。おかしな考えや風習が蔓延している超絶ブラックな企業でない限り、何も問題のない人に対して「帰れ!」とは言わないはずだけど。「注意された→自分が何かしたかと考える」というのが、通常の思考だと思うのだが。

学生時代にありがちな、教師の機嫌や感情のままに行われる叱責とは違うのだ。たとえ新卒の20歳そこそこの若い社員だとしても、入社した以上は「組織の一員」「社会人」として認識されている。「一人前の社会人」に対してそこまで言うということは、必ず何か理由が存在するのだ。「どうしてそこを確認したり、考えたりしないの?」と。

「帰っちゃうゆとりちゃん」は、「自分は帰れと言われたから帰ったのであって、間違ったことはしていない」というのが言い分らしい。そう言われたことに対する反発や怒りがあったわけでもないらしく、本人達曰く、「だって帰れって言われたから。何か間違ったことしました?」と。不貞腐れもせず、「全然意味不明なんですけど」というような、キョトンとした顔でそう言うのだとか。加えて、「帰れと言いながら、帰るのはダメとか矛盾している。仕事を投げ出して帰るなというなら、最初からそう言うべきじゃないんですか?」と。

「命令に従っただけなのに、注意されたり怒られたりするのはおかしい」ということらしいのだが、いやいや・・・論点ズレてるし。こんなやり取りが、あちこちの企業で行われていることが「普通」になっているということが、もうびっくりというか。

「帰れ!」「じゃあ帰ります」のやり取りの中に、「反省」どころか、「反発」や「怒り」等「理由に準ずるもの」もない。自分が怒られた理由もわからないまま、命令されたから帰る―プログラミングされたことしかしないロボットですか?と。それじゃ「死ね」って言われたら、疑問も抱かず、理由も聞かず、大人しく「はい」ってそれに従っちゃうの?と。極端な喩えだが、結局はそれと同じことだ。

帰る前に、せめて「なぜ自分は怒られたのか?」くらいは考えようよ、と。考えてもわからないなら上司に直接尋ねるとか。理由が判明して、その時点で反省するか、反発するか、受け流すかは本人次第だけど。最低限の部分さえやらないということは、コミュニケーションを放棄しているということなのだから。相手の存在を無視した挙句、「自分はここでやっていく気はありません」と言っているようなものだ。

「これだからゆとり世代は~」と、何かと槍玉に挙げられることを本人達は嫌がるけど、こちらから言わせれば、「そう言われても仕方ないことしてるでしょ?」なのだ。問題がなかったら、あれこれ言うことはないのだから。

「好き好んでゆとりになったわけじゃない」決まってこういう言葉が彼らから返ってくるが、「どうして自分達がそう言われるのか、一度でもそれを真剣に考えたことがあるのかい?」と。肝心なところで考えないから、そこで止まったままで「だって好きでこうなったわけじゃないしぃ~」と嘯いて自分を省みないから、「これだからゆとりは云々」と言われるのだ。

素地を作った、怠慢で見当違いのグダグダの教育方針を決定した当時の大人達にも責任はあるが、それはあくまでも「きっかけの一つ」。「好きでゆとりになったわけじゃない」と自分達以外のせいにして、いつまでも言い訳しながら思考を放棄しているその姿勢が「ゆとり扱い」される要因なのだ。いい加減そこに気づいてね、と。「いい歳した大人」には、人は厳しいことを言わなくなるから。それは家族でも同じこと。あれこれ言われているうちが華だから。

どうでもいいと思っている人にエネルギーを使ってくれるほど、人も社会も甘くありません。一度自分達の世代を徹底分析してみ?客観視することで、いろいろと見えてくるものがあると思うけどな。そこで何か気づくものがあったなら、「脱ゆとり」をしたということだ。「一人前」に少し近づいた証拠。

ジェネレーションギャップというものは、いつの時代も存在する。決して避けられないものなのだ。ほかの世代と関わる上で、必ず付いて回るもの。「ゆとり世代、マジわかんねー」と言っている私達バブル世代も、社会に出た当初、その考え方や価値観の特異性から「新人類」と称されたクチなのだ。あの当時の上司達の戸惑いや衝撃を、今追体験しているわけだ。まあ、これも世の常、「順番」なので仕方ない。

同じ時代に生きながら、なかなか相容れない関係。正面切って見える場面は意外と少ない。確か、エジプト周辺で発見された世界最古のパピルスだったと思うけど、「近頃の若い者はなっちゃいない」と記されてあったとか。これはもう、国や時代を超えた永遠のテーマなのかもね。

願わくば、あと20年くらい経って、社会的に「中堅」になったゆとりちゃん達が、新入社員達に「やる気がないなら帰れ!」と理由ある叱責を、凛とした顔で堂々と飛ばせるまでに成長していますように。

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情熱

 2016-04-05
消えた炎

残った燃え殻

だが、奥底にのぞく小さな紅色

わずかに残っていた燠火 熱の在り処

風が吹き

誘うように、追い立てるようにそれを揺さぶる

風を受け

震え、瞬き、それは輝きと強さを増す

新たな華が生まれる 深紅の色を持って

微かな焦燥、歓喜と諦観

たじろぐほどの激しさと勢いの中、華は笑む

不可侵の場所に咲く紅蓮 炎をまとった華

いつか果てる時が来たとしても、それは不死鳥のように甦る

たとえわずかであったとしても、熱源がある限り

そして、何度も甦りながら咲くその華を

人は「情熱」と呼ぶ

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