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等価

 2016-01-19
「何もしない人」は、総じて愚痴っぽい。彼らがこぼすその愚痴は、やがて「嫉妬」へと変化する。そして、それは最終的に「憎悪」へと形を変えるのだ。「嫉妬は憎悪の一種である」私はそう思う。特に、「何もしない人=最初から努力を放棄した人」のそれは。

本人が上手く隠しおおせているつもりでも、ちょっとした言葉の端々や目の中にそれは表れる。嫉妬や憎悪の感情は、本能的なものに因る部分が大きい。そして、それは完全に隠蔽するのが不可能なほど、強烈な性質のものなのだ。

「何もしない人」に問いたい。「あなたは本当に全力でそれに取り組んだのか?」と。「”これ以上やれる事はない”そう言い切れるくらいの努力をしたことがあるのか?」と。数え切れないくらいのトライアル アンド エラー、それを経験したのか?と。そうでないなら、その嫉妬や憎悪の感情は完全な筋違いだ。

仕事、地位、名誉、財産、友人やパートナー・・・自分が手に入れたいと願うものを既に持つ人々に対して抱く感情は、人それぞれに異なる。「努力する人」にとってのそれは、「いつか自分も!」という「憧れ」「目標」といった、前向きで明るいものになる。現在進行形で目標に向かっている自分を更に奮い立たせる為の「燃料」となる。

だが、「努力を放棄した何もしない人」にとって、「手に入れた人」は憎しみの対象となる。彼らが得たものを目にする度に、「無力な自分」「ツイてない自分」を思い知らされ、「何も持っていない自分」を再認識させられるから。

「あの人は運がいいから」「私だってチャンスがあれば」「どうせコネでも持ってるんだろ」「実家が裕福な人はいいよね」「世渡りが上手い人は得だね」努力を放棄した自分を完全に棚に上げ、こき下ろし、憎悪するのだ。

「それは違うでしょ?」と。憎むべきは「それを手に入れた人」ではなくて、自分自身でしょ?と。行動や思考、積極性や向上心、覚悟―すべてにおいて「中途半端な自分」に対して向けるべきなんじゃないの?と。やるべきこともやらない人間が逆恨みする権利はない。責任は、早々に投げ出した本人、手抜きをした本人にあるのだ。

公私に渡って多くの人を観てきて思うのだが、やはり「運も実力のうち」なのだ。運が巡ってきたとしても、それを掴むだけの、使いこなすだけの実力が必要だ。努力によって培われた技術や能力、忍耐力と持続力、判断力と決断力、直感と直観、自信、信念―そういったものが、いわゆる「運」と呼ばれるものを掴み、活用する力となる。

時としてそれは、「運とは呼べないもの」さえも、自らの力で「運」に変えてしまうことも可能なのだ。運そのものが、「=実力」なのだ。そして、実力のある人は、確実に努力をしているし、してきている。私自身の経験から言わせてもらうが、努力は決して裏切らない。例え、今現在求めている結果に結びつかなかったとしても、後々に形を変えて、他の場面でそれが生きる時が必ず来る。

「そうしてきたのに報われない」と言うのなら、あえて断言させてもらう。理由は次のうちのどれかに違いない。「努力する方向性が根本のところで間違っている」「してきた努力を無駄にしている」「努力している対象に対する素質がもともとない」私が今まで見てきた範囲では、最初の2つにに該当する人がほとんどだ。どちらにしても、自分に端を発しているのは間違いない。

今現在自分が置かれている状況は、自分自身が作り出したものだ。何も持っていないのは、何もしてこなかったから。「自分に優しく」と「自分に甘く」を履き違えた結果だ。自ら努力を放棄したこと、あれこれ言い訳しながらそんな自分自身を今まで容認してきたことから生じた、いわば「当然の結果」なのだ。

*ブログ内のすべて文章の著作権は、カンテ・イスタ 樫田ミラに属します。文章の論旨・表現等の盗用や剽窃、無断引用を禁じます。当方のブログの内容や表現を無断でそのまま用いる方、少々の手直しを加えて、自分のオリジナルのように装う方がいらっしゃるようですが、モラルを守ってくださるようお願い致します。

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挽歌

 2016-01-10
阪神淡路大震災の発生から、今年で21年目になる。毎年、地震が発生した1月17日が近づくと、関西ローカル局では震災関連の特番が組まれ、神戸を中心とした被災地では、追悼セレモニー会場に多くの人が集い、犠牲者を偲ぶ。

震災から半年後、所用で訪れた神戸の街の中心部は、一見、日常を取り戻したかのように見えた。だが、至る所で見られるブルーシートの掛かった建物や亀裂の入ったアスファルト、揺れの衝撃で盛り上がったと思われるガタガタになったレンガ敷きの歩道、斜めに傾いた信号機等、震災の爪痕は生々しく残っていた。そして、あれから21年―。神戸の街はかつての美しさを取り戻し、完全に復活した。

もう21年、まだ21年、やっと21年―流れた月日の受け止め方は、人それぞれだと思う。被災者をはじめ、大なり小なり何らかの形であの震災の影響を受けた人の数だけ、それはある。忘れたい人、忘れようとしている人、忘れたくない人、忘れてはいけないと思っている人―想いもまた、人それぞれだ。

以前、震災で家族を亡くされた方とお会いしたことがある。その方は、ある時、ふとした拍子に、亡くなった家族のことを完全に忘れている自分に気づき、愕然としたとおしゃっていた。当時はあれだけ喪失感に苦しみ、悲しんだのに―と。それなのに、いつの間にか心の底から笑って日々を過ごしている自分がいる。「私は薄情な人間なのだろうか?」自分自身に罪悪感を覚え、激しい自己嫌悪に陥ったと悩まれていた。

だが、私は思う。「それでいい」と。「あなたは間違っていない」と。人の心に関しては、何が正解で何が間違っているという明確な指標はない。件の方と同じ経験をした人の中には、「故人をずっと思い続けるべきだ」「失った時の、あの悲しみを死ぬまで忘れてはならない」と言う人もいるかもしれない。実際に、この21年をそうして生きてこられた人もいると思う。そしてまた、その人達も「間違ってはいない」のだ。

故人や過去に対する思いを中心に据えて生きることが、「糧」になる人もいる。「忘れない」「忘れたくない」「忘れてはいけない」その思いが、今後を生きる為の原動力になるのであればそれでいい。だが、そうでない人もいるのだ。それは、決してその人が薄情だとか、ドライだとか、人としての情緒に欠けているということではない。逃げているわけでもない。ただ、「向き合う形」が違うだけだ。故人と、過去と―。

血の繋がった肉親であろうと、気心の知れた友人であろうと、その「形の違い」について非難する権利はない。人というものは、関係が近ければ近いほど、自分と「同調」しない相手を責める傾向が強くなる。価値観を共有できていると思っていた分、予想外の反応をする相手に対して、「どこか裏切られたような気持ち」になるのだと思う。「どうしてそう思わないの?そう思えないの?」そういった「要求」や「圧力」が、築いてきた関係を壊すこともある。

人と足並みを揃えること、周囲と調子を合わせることを常に求められるこの国では、極めて個人的な部分―亡き人の悼み方、偲び方にさえ、それを強要されることがある。心の領域、それも自分以外の人のそれに、「そうするべきだ」「そうしなくてはいけない」という同調圧力をかけること自体おかしなことなのだ。その時点で、悼む心・偲ぶ心は形骸化してしまう。

追悼セレモニーやボランティアに参加しないのは、その人が冷淡だからではない。震災や故人のことを口にしないのは、割り切ったからではない。何事もなかったように、毎日明るく楽しげに生きているように見えるのは、すべてを忘れたからではない。ただ、自分とその人の「やり方」「形」が違うだけだ。

同じ経験をしたとしても、それに対する向き合い方、乗り越え方、抱く思いは人それぞれ違う。人の数だけ、それはある。心の有り様は一つではないのだ。

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バーチャル

 2016-01-01
自分の周りの幾つかの経験談を聞いただけで、「それはそういうものなのだ」と安易に結論付けてしまう人がいる。自分自身はまったくそれを経験していないにもかかわらず、だ。それっておかしくないですか?それでいいの?と。

それがいくら信頼に値する人のものであったとしても、所詮は「他人がした経験」でしかない。自分以外の人間の言うことを中心に据えて構築した思考に何の意味があるのかと思う。

「○○さんがそう言ってたから」「数人の人が同じようなことを言っていたから」その人達の場合、他人の話を聞くだけで、自分も同じ経験をした気になってしまう。脳内記憶が書き換えられるのだ。いつの間にか、「耳にした他人の経験」が「自分が実際に経験したこと」にすり替わっている。

だが、所詮は借り物。そこには当事者がその時に味わったであろう「肝」が抜けている。その経験前後の思考や感情の変化、その後の自分の意識に対するフィードバック―そういったものが存在していないのだ。だから彼らは一様に薄っぺらい。

いくら他人の経験を聞きかじったところで、それはあくまでも仮想体験。本来自分の中には存在しないものなのだ。想像の域を決して超えることのないもの。彼らの物事の捉え方が極めて表面的なのは、「実感」が伴っていないから。やはり、擬似は擬似でしかないのだ。

「他人の経験を聞くだけで満足してしまう人」というのは、自分自身でそれを確かめてみようとすらしない。「現在自分が知っていることだけで十分」と考える人でもある。探究心の欠如と「自分は既に知っている」という慢心と過信―「真実を自分自身で検証することを放棄した人」とも言える。立ち止まったまま進まない人なのだ。

他人の経験と他人の言葉、他人の思考で成り立つ世界の住人。その人の意識は、想像の世界だけに留まり続ける。本人が「現実」に目を向けようとしない限り、本来は存在しないその世界に生き続けるのだ。

虚構と現実。イマ アナタガ ソンザイシテイルノハ ドチラノセカイ デスカ?

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